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放課後の雨

放課後になっても、雨は止まなかった。


 教室の中では、それぞれが動き始めていた。椅子の音、笑い声、いつもの放課後だった。


 湊は鞄に教科書を入れながら、ぼんやりと窓の外を見ていた。


 校庭は水を吸って黒っぽくなっている。白線は雨でにじみ、サッカーゴールの網だけが揺れていた。


「湊、帰ろうぜ」


 悠真が声をかけてきた。


「悪い。今日ちょっと寄るとこある」


「どこ?」


「分からん」


「意味わかんないこと言うなよ」


 悠真は冗談っぽく笑ったが、湊はうまく笑えなかった。


 本当に、分からなかった。


 どこへ行きたいのか、自分でも分からない。ただ、まっすぐ家に帰ってはいけない気がした。帰ったら何かを取り逃がす。今日だけ開いている扉が、明日には閉じてしまう。そんな焦りがあった。


 湊は傘を開き、校門を出た。


 足は自然と、駅とは反対の方向へ向かった。


 住宅街を抜け、細い坂道を下り、古い団地の並ぶ場所へ出る。湊はこのあたりに昔住んでいたことがある。小学校に上がる前の、かなり小さいころだ。


 記憶はほとんど残っていない。


 けれど道順だけは、体が覚えていた。


 古い団地の壁は雨で黒く濡れ、ベランダには誰かの洗濯ばさみだけが取り残されていた。自転車置き場の屋根から水が落ち、コンクリートの地面に小さな穴を作っている。


 湊は団地の奥へ進んだ。


湊は一軒の駄菓子屋の前で足を止めた。


 シャッターは半分閉まっていて、店の看板は色あせている。営業しているのか、もうずっと前にやめてしまったのか分からない。雨に濡れた赤いのぼりだけが、力なく揺れていた。


 湊はその店を見て、妙な懐かしさを覚えた。


 来たことがある。


 たぶん、小さいころに。


 入口の横に、古いガチャガチャの機械が置かれていた。透明なケースの中には、色の抜けたカプセルがいくつか残っている。


 湊は近づいた。


 中をのぞくと、ひとつだけ妙に新しいカプセルがあった。


 青いカプセル。


 その中に、小さな銀色の魚の人形が入っている。


 湊は思わず後ずさった。


「また魚かよ……」


 そのとき、店の奥から声がした。


「それ、昔あんたが欲しがってたやつだよ」


 湊は顔を上げた。


 店の奥に、老婆が座っていた。白髪で、背中を丸め、古いレジの横にいる。いつからそこにいたのか分からなかった。


「俺が?」


「そう。小さいころ、女の子と二人でよく来てた」


 湊は喉が詰まった。


「女の子?」


「白い服の子」


 老婆は、当たり前のように言った。


 湊は傘を握る手に力を込めた。


「その子、名前は?」


 老婆は少し考えるように目を細めた。


「さあねえ。夢みたいな子だったから」


「夢みたい?」


「雨の日にだけ来る子だったよ。晴れた日は見なかった」


 湊は何も言えなかった。


 老婆はガチャガチャの機械を指さした。


「回していくかい?」


「いや……小銭ないんで」


「お金はいらないよ。あんた、もう払ってる」


「え?」


「昔ね」


 老婆はにこりともせずに言った。


 湊はしばらく迷ったあと、機械のハンドルに手をかけた。


 回す。


 がちゃり、という音がした。


 青いカプセルが落ちてくる。


 湊はそれを拾った。


 中には、銀色の魚の小さな人形が入っていた。安っぽいプラスチックのはずなのに、手のひらにのせると、ほんの少し温かかった。


 湊が顔を上げると、店の奥に老婆はいなかった。


 店内は暗く、レジも棚も埃をかぶっていた。


 まるで何年も前から閉まっている店のようだった。


 湊は背筋が冷たくなった。


 手の中の魚だけが、確かに残っている。


 雨音が強くなった。


 遠くで、錆びたブランコの音がした。


 きい。


 きい。


 まるで、こっちだよ、と呼んでいるみたいに。


 湊は魚の人形をポケットに入れ、その音の元へと向かった。


 そこに、小さな児童公園があった。


 いや、公園だった場所、と言ったほうが正しい。


 錆びたブランコ。色のはげた滑り台。砂場には雑草が生え、ベンチの板は一部割れている。誰も遊んでいない。雨の日だからではなく、晴れていてもきっと誰も来ないだろうと思える場所だった。


 湊は公園の入口で足を止めた。


 知っている。


 ここを知っている。


 でも、どう知っているのか分からない。


 ブランコが揺れていた。


 風はない。


 雨が真っすぐ落ちているだけだ。


 それなのに、ブランコはゆっくり前後に揺れている。きい、きい、と錆びた鎖が鳴る。その音が、遠い記憶を削るように耳に残った。


 湊は公園へ入った。


 靴の底が濡れた砂を踏む。砂場には水がたまり、いびつな形の水たまりができていた。


 魚の形だった。


 湊は息をのんだ。


 水たまりの縁が尾びれのように細く伸び、中央が魚の腹みたいにふくらんでいる。ただの偶然だと思おうとした。でも無理だった。今日何度も見た銀色の魚が、そのまま地面に落ちてきたように見えた。


 湊は傘を握りしめる。


「……何なんだよ」


 返事はなかった。


 ただ、ブランコが揺れている。


 きい。


 きい。


 きい。


 その音に混じって、声がした。


「遅かったね」


 湊は振り返った。


 誰もいない。


 滑り台の下にも、ベンチのそばにも、ブランコにも、誰もいない。


 声はもう一度聞こえた。


「ずっと待ってたのに」


 今度は、足元からだった。


 湊は砂場の水たまりを見下ろした。


 水面が揺れている。


 雨粒が落ちたからではない。内側から、何かが浮かび上がろうとしているように波紋が広がっていた。


 湊はゆっくりしゃがんだ。


 水たまりをのぞき込む。


 そこに映っていたのは、今の自分の顔ではなかった。


 幼い自分だった。


 小さな湊が、水たまりの向こう側からこちらを見上げている。雨に濡れて、でも楽しそうに笑っていた。


 その隣に、少女がいた。


 年は同じくらいだろうか。白っぽいワンピースを着ている。髪は肩のあたりでふわふわ揺れている。けれど、顔だけがぼやけて見えない。


 湊は声を失った。


 幼い湊が、少女の手を握っている。


 少女は何かを言っている。


 水の向こうだから、声は聞こえない。


 でも湊には分かった。


 きっと、こう言っている。


 また明日も来てね。


 湊の胸が強く痛んだ。


 思い出しそうだった。


 でも、思い出せない。


 湊は無意識に水面へ手を伸ばした。


 指先が触れる。


 冷たい。


 ただの浅い水たまりのはずだった。


 そのはずなのに、水の中から誰かの手が伸びてきた。


 小さくて、冷たくて、懐かしい手。


 その手が、湊の指を握った。


「今度は、忘れないで」


 次の瞬間、湊は水たまりの底へ落ちた。

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