表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

忘れた約束

学校に着いても、違和感は消えなかった。


 むしろ、教室の中に入った瞬間、それは少し濃くなった。


 湿った制服の匂い。黒板に書かれた日付。机の脚が床をこする音。誰かが笑いながらプリントを丸めている。窓際の席では、雨粒がガラスを伝って細い線を作っていた。


 全部、いつも通りだった。


 いつも通りだからこそ、何かがおかしい気がした。


「湊、顔やば」


 隣の席の悠真が、椅子を後ろ向きにして話しかけてきた。


「寝不足?」


「たぶん」


「夢でも見た?」


 また、その言葉だ。


 湊は少しだけ返事に詰まった。


「見てない」


「いいな。俺、今日めちゃくちゃ変な夢見たわ」


「どんな」


「体育館でテスト受けてたら、問題用紙が全部ラーメンになる夢」


「意味分からん」


「夢なんてだいたい意味分からんだろ」


 悠真は笑った。


 湊も少しだけ笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。


 夢なんて、だいたい意味が分からない。


 それはきっと正しい。


 でも、意味が分からないものほど、忘れたあとに大事な形をしていることがあるのではないか。そんな変な考えが、湊の頭をかすめた。


 一時間目の授業が始まった。


 教師の声が黒板の前から流れてくる。チョークが白い線を引く。教科書のページをめくる音が、教室のあちこちで重なる。


 湊はノートを開いた。


 授業に集中しようとした。


 けれど、文字が頭に入ってこない。


 黒板に書かれた式が、少しずつ揺れ始めた。最初は目の疲れかと思った。だが違った。文字そのものが、上下している。


 教室の床も、ほんの少し揺れて見えた。


 水面みたいだ。


 そう思った瞬間、湊の意識がふっと沈んだ。


 夢を見た。


 いや、夢というより、どこか遠い記憶の断片だった。


 雨の日の窓。


 布団の中で熱を出している幼い自分。


 額に冷たいタオルがのっている。


 部屋は薄暗く、外では雨が降っている。窓の向こうで、銀色の魚が空を泳いでいた。魚はゆっくり尾びれを動かし、電線の上を越え、雲の中へ入っていく。


 幼い湊は、布団から手を伸ばす。


 届くはずがない。


 それでも魚は、窓のすぐ外まで近づいてきた。


 そして、誰かの声がした。


「また明日も来てね」


 女の子の声だった。


 明るくて、少し寂しそうな声。


 湊は答えた。


「うん。絶対」


 そこで目が覚めた。


「おい、湊」


 悠真の小声が聞こえた。


 湊ははっと顔を上げる。教師がこちらを見ていた。


「体調悪いのか?」


「あ……すみません。大丈夫です」


 教室の床は普通に戻っていた。黒板の文字も揺れていない。窓の外には雨が降っているだけで、魚なんていない。


 湊は息を吐いた。


 夢を見ていた。


 いや、違う。


 あれは、ただの夢ではなかった気がする。


 湊はノートを見た。


 そこには授業の内容とはまったく関係のない文字が書かれていた。


『リ』


 たった一文字。


 自分の字だった。


 けれど、いつ書いたのか分からない。


 リ。


 何のリだろう。


 理科。林檎。理由。リボン。リズム。


 違う。


 もっと大事な何かだ。


 湊はペンを握ったまま、その文字を見つめた。


 胸の奥が熱くなる。けれど、そこから先へ進めない。思い出しかけた何かが、喉元まで来ているのに、名前を呼べない。


 昼休み、悠真が心配そうに言った。


「今日マジで変だぞ。保健室行く?」


「大丈夫」


「さっき寝言みたいなの言ってたし」


「何て?」


「よく聞こえなかったけど……『ごめん』って」


 湊は黙った。


 ごめん。


 誰に?


 何を?


 ただ、その言葉を聞いた瞬間、窓の外の雨が少しだけ強くなった気がした。


その日の午後、湊はずっと落ち着かなかった。


 授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。教師の声は聞こえている。黒板の文字も見えている。けれど、それらは湊の中に入る前に、どこか別の場所へ流れていってしまう。


 気づけば、ノートの端にまた魚を描いていた。


 朝よりも少し大きい魚だった。


 湊は慌ててシャーペンを止める。


 自分で描いたはずなのに、自分の意思で描いた気がしない。


 魚の目は、黒く塗られていた。小さな丸なのに、なぜかこちらを見ているようだった。湊はその目を見ているうちに、胸の奥がざわついた。


 忘れている。


 何かを忘れている。


 それは、テスト範囲とか、宿題とか、誰かとの約束とか、そういう簡単なものではない気がした。


 もっと深い場所にある。


 自分が自分になる前から、そこに沈んでいたもの。


「湊」


 急に呼ばれて、湊は顔を上げた。


 教師がこちらを見ている。


「次の英文、読んでくれるか」


「あ……はい」


 湊は慌てて教科書を持った。


 けれど、どこを読めばいいのか分からない。隣の悠真が小さくページを指で叩いてくれる。湊はそこから読み始めた。


 声に出した英文は、自分の口から出ているのに、どこか他人の声みたいに聞こえた。


 読み終えると、教師は「はい、ありがとう」と言って授業を進めた。


 湊は椅子に座り直し、教科書を閉じかけた。


 そのとき、ページの余白に、ありえない文字が浮かび上がった。


 印刷された文字ではない。


 水に濡れた紙にインクがにじむように、薄い青色の文字が現れた。


『約束したよね』


 湊は息を止めた。


 瞬きする。


 文字は消えていた。


 ページには、普通の英文しかない。


 湊は指で余白をなぞった。濡れていない。にじんでもいない。ただの紙だ。


 けれど、たしかに見た。


 約束したよね。


 湊は思い出そうとした。


 その瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。


 痛みと一緒に、また映像がこぼれる。


 小さな手。


 雨に濡れた滑り台。


 砂場に作った川。


 銀色の魚の絵。


 そして、白い服の少女。


 少女はしゃがみこみ、砂場に何かを描いている。


 魚だ。


 幼い湊はそれを見て笑っている。


「魚って、空を飛べないよ」


 幼い湊が言う。


 少女は少しむっとした顔をして、砂場の魚に尾びれを描き足す。


「飛ぶんじゃないよ。泳ぐの」


「空を?」


「うん。空はね、大きな水たまりなんだよ」


「変なの」


「変じゃないよ。湊が忘れなければ、ほんとになる」


 そこで映像は切れた。


 湊は机に手をついた。


 心臓が速い。


 今のは何だ。


 記憶なのか。夢なのか。ただの想像なのか。


 分からない。


 でも、少女の声だけが耳の奥に残っていた。


 湊が忘れなければ、ほんとになる。


 放課後のチャイムが鳴るまで、湊はずっとその言葉を考えていた。


 忘れなければ、本当になる。


 なら、忘れたものはどうなるのだろう。


 本当ではなくなるのか。


 それとも、どこか別の場所で、本当のまま残っているのか。


 答えは出なかった。


 ただ、雨音だけが窓を叩き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ