忘れた約束
学校に着いても、違和感は消えなかった。
むしろ、教室の中に入った瞬間、それは少し濃くなった。
湿った制服の匂い。黒板に書かれた日付。机の脚が床をこする音。誰かが笑いながらプリントを丸めている。窓際の席では、雨粒がガラスを伝って細い線を作っていた。
全部、いつも通りだった。
いつも通りだからこそ、何かがおかしい気がした。
「湊、顔やば」
隣の席の悠真が、椅子を後ろ向きにして話しかけてきた。
「寝不足?」
「たぶん」
「夢でも見た?」
また、その言葉だ。
湊は少しだけ返事に詰まった。
「見てない」
「いいな。俺、今日めちゃくちゃ変な夢見たわ」
「どんな」
「体育館でテスト受けてたら、問題用紙が全部ラーメンになる夢」
「意味分からん」
「夢なんてだいたい意味分からんだろ」
悠真は笑った。
湊も少しだけ笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。
夢なんて、だいたい意味が分からない。
それはきっと正しい。
でも、意味が分からないものほど、忘れたあとに大事な形をしていることがあるのではないか。そんな変な考えが、湊の頭をかすめた。
一時間目の授業が始まった。
教師の声が黒板の前から流れてくる。チョークが白い線を引く。教科書のページをめくる音が、教室のあちこちで重なる。
湊はノートを開いた。
授業に集中しようとした。
けれど、文字が頭に入ってこない。
黒板に書かれた式が、少しずつ揺れ始めた。最初は目の疲れかと思った。だが違った。文字そのものが、上下している。
教室の床も、ほんの少し揺れて見えた。
水面みたいだ。
そう思った瞬間、湊の意識がふっと沈んだ。
夢を見た。
いや、夢というより、どこか遠い記憶の断片だった。
雨の日の窓。
布団の中で熱を出している幼い自分。
額に冷たいタオルがのっている。
部屋は薄暗く、外では雨が降っている。窓の向こうで、銀色の魚が空を泳いでいた。魚はゆっくり尾びれを動かし、電線の上を越え、雲の中へ入っていく。
幼い湊は、布団から手を伸ばす。
届くはずがない。
それでも魚は、窓のすぐ外まで近づいてきた。
そして、誰かの声がした。
「また明日も来てね」
女の子の声だった。
明るくて、少し寂しそうな声。
湊は答えた。
「うん。絶対」
そこで目が覚めた。
「おい、湊」
悠真の小声が聞こえた。
湊ははっと顔を上げる。教師がこちらを見ていた。
「体調悪いのか?」
「あ……すみません。大丈夫です」
教室の床は普通に戻っていた。黒板の文字も揺れていない。窓の外には雨が降っているだけで、魚なんていない。
湊は息を吐いた。
夢を見ていた。
いや、違う。
あれは、ただの夢ではなかった気がする。
湊はノートを見た。
そこには授業の内容とはまったく関係のない文字が書かれていた。
『リ』
たった一文字。
自分の字だった。
けれど、いつ書いたのか分からない。
リ。
何のリだろう。
理科。林檎。理由。リボン。リズム。
違う。
もっと大事な何かだ。
湊はペンを握ったまま、その文字を見つめた。
胸の奥が熱くなる。けれど、そこから先へ進めない。思い出しかけた何かが、喉元まで来ているのに、名前を呼べない。
昼休み、悠真が心配そうに言った。
「今日マジで変だぞ。保健室行く?」
「大丈夫」
「さっき寝言みたいなの言ってたし」
「何て?」
「よく聞こえなかったけど……『ごめん』って」
湊は黙った。
ごめん。
誰に?
何を?
ただ、その言葉を聞いた瞬間、窓の外の雨が少しだけ強くなった気がした。
その日の午後、湊はずっと落ち着かなかった。
授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。教師の声は聞こえている。黒板の文字も見えている。けれど、それらは湊の中に入る前に、どこか別の場所へ流れていってしまう。
気づけば、ノートの端にまた魚を描いていた。
朝よりも少し大きい魚だった。
湊は慌ててシャーペンを止める。
自分で描いたはずなのに、自分の意思で描いた気がしない。
魚の目は、黒く塗られていた。小さな丸なのに、なぜかこちらを見ているようだった。湊はその目を見ているうちに、胸の奥がざわついた。
忘れている。
何かを忘れている。
それは、テスト範囲とか、宿題とか、誰かとの約束とか、そういう簡単なものではない気がした。
もっと深い場所にある。
自分が自分になる前から、そこに沈んでいたもの。
「湊」
急に呼ばれて、湊は顔を上げた。
教師がこちらを見ている。
「次の英文、読んでくれるか」
「あ……はい」
湊は慌てて教科書を持った。
けれど、どこを読めばいいのか分からない。隣の悠真が小さくページを指で叩いてくれる。湊はそこから読み始めた。
声に出した英文は、自分の口から出ているのに、どこか他人の声みたいに聞こえた。
読み終えると、教師は「はい、ありがとう」と言って授業を進めた。
湊は椅子に座り直し、教科書を閉じかけた。
そのとき、ページの余白に、ありえない文字が浮かび上がった。
印刷された文字ではない。
水に濡れた紙にインクがにじむように、薄い青色の文字が現れた。
『約束したよね』
湊は息を止めた。
瞬きする。
文字は消えていた。
ページには、普通の英文しかない。
湊は指で余白をなぞった。濡れていない。にじんでもいない。ただの紙だ。
けれど、たしかに見た。
約束したよね。
湊は思い出そうとした。
その瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。
痛みと一緒に、また映像がこぼれる。
小さな手。
雨に濡れた滑り台。
砂場に作った川。
銀色の魚の絵。
そして、白い服の少女。
少女はしゃがみこみ、砂場に何かを描いている。
魚だ。
幼い湊はそれを見て笑っている。
「魚って、空を飛べないよ」
幼い湊が言う。
少女は少しむっとした顔をして、砂場の魚に尾びれを描き足す。
「飛ぶんじゃないよ。泳ぐの」
「空を?」
「うん。空はね、大きな水たまりなんだよ」
「変なの」
「変じゃないよ。湊が忘れなければ、ほんとになる」
そこで映像は切れた。
湊は机に手をついた。
心臓が速い。
今のは何だ。
記憶なのか。夢なのか。ただの想像なのか。
分からない。
でも、少女の声だけが耳の奥に残っていた。
湊が忘れなければ、ほんとになる。
放課後のチャイムが鳴るまで、湊はずっとその言葉を考えていた。
忘れなければ、本当になる。
なら、忘れたものはどうなるのだろう。
本当ではなくなるのか。
それとも、どこか別の場所で、本当のまま残っているのか。
答えは出なかった。
ただ、雨音だけが窓を叩き続けていた。




