雨の日の違和感
通学路は、いつもより静かだった。
雨の日の朝は、町全体が少しだけ遅れて動いているように見える。自転車のタイヤが濡れたアスファルトをこする音。傘と傘がすれ違う音。バス停に並ぶ人たちの足元で、水たまりが小さく震える音。
湊はイヤホンをつけていたが、音楽は流していなかった。
理由は特にない。
ただ、今日は耳に何かを入れておきたかった。外の音を少しだけ遠ざけて、自分と世界の間に薄い膜を作りたかった。
交差点で信号を待つ。
赤い人型のマークが、雨に濡れた道路にぼんやり反射していた。隣には小学生たちが何人かいて、黄色い傘をぶつけ合いながら笑っている。
その笑い声が、急に遠くなった。
まるで水の中から聞いているみたいに、音がこもる。
湊はイヤホンを外した。
それでも、音は遠い。
信号機の電子音も、車のエンジン音も、人の話し声も、全部が分厚い水の向こう側にあるようだった。
雨粒が、横に流れた。
湊は目を見開いた。
雨は普通、上から下へ落ちる。そんな当たり前のことを、湊はわざわざ確認したくなった。けれど確かに、目の前の数粒だけ、横へ、まるで見えない川に流されるように動いた。
それはすぐに元に戻った。
青信号になった。
周りの人たちは何事もなかったように歩き出す。小学生たちも、水たまりを避けながら横断歩道を渡っていった。
湊だけが、しばらく動けなかった。
「……何だよ、今の」
誰に聞くでもなくつぶやいて、湊は遅れて歩き出した。
駅に着くころには、靴下の先が少し濡れていた。電車はいつも通り混んでいた。制服、スーツ、濡れた傘、ビニール袋、湿った空気。人の体温と雨の匂いが混ざっている。
湊はドアの近くに立ち、窓の外を見た。
電車が走り出す。
濡れた町並みが横へ流れる。看板、ビル、駐輪場、踏切、灰色の空。いつもの景色だ。
けれど、窓ガラスに映った自分の顔が、少しだけ違って見えた。
子どもだった。
小学生くらいの自分が、窓の向こうからこちらを見ている。ランドセルを背負って、前髪が少し濡れていて、手に何かを握っている。
湊は息を止めた。
子どもの湊は、口を動かした。
声は聞こえない。
でも唇の形だけは分かった。
――忘れないで。
湊は思わず一歩後ろへ下がった。
背中が誰かにぶつかる。
「すみません」
慌てて謝り、もう一度窓を見た。
そこには、今の自分が映っているだけだった。
目の下に少しクマがある、十七歳の自分。どこにでもいる高校生。特別なところなんて何もない。
湊は手すりを強く握った。
今日はおかしい。
いや、今日だけなのか。
水たまりの魚。
横に流れる雨。
窓に映った子どもの自分。
湊はスマホを取り出した。特に何かを調べたかったわけではない。ただ、現実に触れたかった。画面の硬さ、通知の一覧、アプリのアイコン。そういう普通のものを見て、自分を落ち着かせたかった。
画面をつける。
通知が一件あった。
送信者名はない。
メッセージだけが表示されている。
『まだ覚えてる?』
湊は固まった。
表示された文字は、数秒後、にじむように消えた。
アプリを開いても、通知履歴には何も残っていない。メッセージアプリにも、メールにも、SNSにも、それらしいものはなかった。
湊はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
電車が次の駅に着く。
ドアが開き、人が入れ替わる。現実は何事もなかったように続いていく。
湊だけが、その流れから少しずつずれていく。




