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夢を見ない朝

湊は、夢を見ない。


正確に言えば、見ているのかもしれない。けれど、朝になると何も残っていない。楽しい夢も、怖い夢も、誰かと話した夢も、どこかへ出かけた夢も、全部まとめて夜の底に沈んでしまう。


 目覚まし時計が鳴った。


 電子音が、六畳の部屋に乾いた音を響かせる。湊は布団の中から腕だけを伸ばして、スマホの画面を叩いた。音が止まる。部屋はまた静かになった。


 雨の音がしていた。


 窓の外で、細い雨がベランダの手すりを叩いている。五月の終わりにしては少し冷たい朝だった。カーテンの隙間から入る光は灰色で、部屋の中のものを全部、古い写真みたいにぼんやり見せていた。


 湊は起き上がり、しばらく何も考えずに壁を見つめた。


 まただ、と思った。


 胸の奥に、小さな穴が開いているような感じがする。何か大事なものを忘れている。さっきまで手の中にあったものを、気づいたらなくしていたような感覚。


 けれど、それが何なのかは分からない。


 湊は枕元のティッシュに手を伸ばした。頬が少し濡れていたからだ。


 泣いていたらしい。


 理由は、ない。


 いや、あるのかもしれない。でも思い出せない。


「……だる」


 湊は小さくつぶやいて、布団から出た。


 机の上には、昨日開いたままのノートが置いてあった。数学の問題が途中まで解かれている。その端に、変な落書きがあった。


 魚だった。


 細長い銀色の魚。もちろん、ノートに色はついていない。シャーペンで雑に描かれているだけだ。それなのに湊には、なぜかその魚が銀色に見えた。腹のあたりが光っていて、尾びれが水の中ではなく、空気の中を泳いでいるように見える。


 湊は眉を寄せた。


「俺、こんなの描いたっけ」


 記憶にない。


 そもそも湊は魚が好きなわけではない。水族館に行きたいと思ったこともないし、釣りをしたこともない。魚といえば、夕飯に出てくる焼き魚くらいしか思いつかない。


 それなのに、ノートの端の魚はやけに丁寧に描かれていた。


 まるで、何度も描き慣れているみたいに。


 湊はシャーペンを持ち、魚の隣にもう一匹描こうとした。けれど、手が止まった。


 描けない。


 さっきの魚は、自分の手が勝手に描いたように自然なのに、今あらためて描こうとすると形が分からない。尾びれの角度も、目の位置も、体の曲線も、何もかも違う気がした。


 湊はため息をつき、ノートを閉じた。


 朝食のためにリビングへ行くと、母がトーストを皿にのせていた。


「おはよう。顔、眠そう」


「いつも通り」


「また夜更かし?」


「してない」


「じゃあ夢でも見た?」


 湊は椅子に座りながら首を横に振った。


「見てない」


「あんた最近夢の話しないよね」


「覚えてないだけ」


「それは見てるってことじゃないの?」


「知らん」


 母は苦笑した。


「小さいころはよく話してたのにね。変な夢ばっかり。空に魚がいたとか、階段だけの城に行ったとか、顔のない犬と遊んだとか」


 湊はジャムを塗る手を止めた。


「……俺が?」


「うん。覚えてない?」


「覚えてない」


「まあ、子どものころの話だしね」


 母はそれ以上、深く聞かなかった。


 湊はトーストをかじった。味はした。でも、食べている気がしなかった。


 空に魚。


 階段だけの城。


 顔のない犬。


 全部、知らない言葉のはずだった。


 なのに、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 まるで、古い傷あとを指でなぞられたみたいに。


 学校へ行く準備をして、玄関で靴を履いた。ドアを開けると、雨の匂いが流れ込んできた。


 湊は傘を持ち、外へ出た。


 階段を降りる途中、ふと足を止めた。


 アパートの前の小さな水たまりに、空が映っている。


 灰色の空。


 電線。


 古い街灯。


 そして、その間を何かが横切った。


 銀色の魚だった。


 湊は瞬きした。


 次の瞬間、水たまりにはただの曇り空が映っているだけだった。


「……寝ぼけてるな」


 湊はそう言って、傘を開いた。


 雨が、布地の上で小さく跳ねた。


 その音が一瞬だけ、遠い水底から聞こえる鐘の音みたいに響いた。

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