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名前を呼べない

リリカは、すぐには近づいてこなかった。


 夕焼けの草原に立ったまま、湊を見ていた。白い服の裾が風で揺れている。足元の草には、小さな光が残っていた。


 湊は、何を言えばいいのか分からなかった。


 さっき、謝った。


 けれど、それだけだった。


 何に謝ったのか。

 いつから待たせていたのか。

 本当にこの少女を知っているのか。


 分からないことばかりだった。


 名前だけは分かる。


 リリカ。


 濡れたノートの切れ端に書かれていた名前。その文字を見たとき、胸の奥が反応した。


 けれど、声に出そうとすると喉が止まる。


「……久しぶり」


 先に口を開いたのは、リリカだった。


 思っていたより普通の声だった。怒鳴るわけでも、泣くわけでもない。でも、明るくもなかった。


「久しぶり、なのか」


 湊が言うと、リリカは眉を寄せた。


「そこから?」


「悪い」


「謝るのは早いんだ」


「それしか出てこない」


 リリカは少しだけ黙った。


 湊は、その沈黙から目をそらしたくなった。


 空では魚が泳いでいる。遠くの階段の塔は、夕焼けの中で動かない。風が吹くたび、草の光が小さく揺れた。


「名前」


 リリカが言った。


「呼んでみて」


 湊は口を開いた。


 リリカ。


 頭の中では言える。


 でも、声にしようとすると止まる。自分がその名前を呼んでいいのか、分からなかった。


「……リ」


 そこまで出て、続かなかった。


 リリカは目を伏せた。


「まだそこなんだ」


「ごめん」


「また謝った」


「それしか言えないんだよ」


「知ってる」


 リリカは小さく息を吐いた。


「昔もそうだった」


 湊は顔を上げた。


「昔?」


「都合が悪くなると、すぐ謝る。何が悪かったのか分かってなくても」


「俺、そんな感じだったのか」


「うん。わりと」


「嫌な子どもだな」


「嫌ではなかったよ」


 リリカはそう言って、少しだけ笑った。


 その笑い方に、湊は覚えがあった。


 はっきりとは思い出せない。けれど、知らない笑い方ではなかった。


 リリカは湊の後ろを見た。


 湊も振り返る。


 さっきまで草原の向こうにあった黒い霧は、見えなくなっていた。ただ、霧が通ったらしい場所だけ、草の光が消えている。


「あれ、何なんだ」


「忘却の霧」


「魚もそう言ってた」


「魚と話したの?」


「話したっていうか、向こうが勝手にしゃべった」


「なら話してるよ」


 リリカは歩き出した。


「来て。ここに長くいると、また霧が来る」


「また?」


「さっきのは端っこ」


 湊はその場で少し迷った。


 この少女についていくべきなのか。そもそも、ここがどこなのかも分かっていない。


 でも、ほかに行く場所はなかった。


「なあ」


「何?」


「ここ、夢なのか」


 リリカは振り返らなかった。


「夢だったもの」


 魚と同じ答えだった。


「人が朝になって忘れたものが、ここに流れてくる。形を持つものもある。声だけになるものもある。すぐ消えるものも、ずっと残るものもある」


「じゃあ、あの魚は」


「誰かが忘れた魚」


「誰かって」


 リリカは立ち止まり、湊を見た。


「本当に分からない?」


 湊は答えられなかった。


 分からない。


 でも、分かっている気もした。


 今朝、ノートに描かれていた魚。水たまりの中を泳いでいた魚。熱を出した夜に見た魚。


 全部、同じものなのかもしれない。


 湊は空を見上げた。


 銀色の魚が一匹、低く泳いでいる。


「あれは、俺が忘れた夢なのか」


 リリカは答えなかった。


 でも、その沈黙で十分だった。


「思い出したら、どうなる」


 湊が聞くと、リリカの表情が変わった。


「まだ知らない方がいい」


「そういう言い方されると、余計に気になる」


「じゃあ、見ない方がいい」


「もう見てる」


 リリカは困ったように笑った。


「ほんと、変わってない」


「覚えてないけどな」


「そこは変わった」


 その言葉だけ、少し冷たかった。


 湊は何も言えなかった。


 リリカはまた歩き出す。


 草原の先に、白い線が続いていた。チョークで引いたような道。遠くの階段の塔へ向かっているようにも、途中で別の場所へ曲がっているようにも見える。


 湊はリリカの後を追った。


 歩きながら、彼女の背中を見た。


 小さいころ、本当にこの背中を追いかけたのだろうか。


 夢の中で。

 何度も。

 約束までして。


 けれど、その約束を湊は忘れた。


「なあ」


「今度は何?」


「俺は、どうしてここに来たんだ」


 リリカは少しだけ歩く速度を落とした。


「思い出すため」


「何を」


「それは、自分で見つけて」


「不親切だな」


「親切にしたら、意味がないから」


「意味?」


「人に教えられたことは、思い出したことにならない」


 リリカはそう言った。


リリカは、白い線の道を外れて草原の方へ歩いていった。


「そっち行くのか」


「少しだけ」


「道、外れていいのか」


「道は、思い出しやすい場所に続いてるだけ。外れたら外れたで、別のものがある」


「迷わないのか」


「湊は昔から迷ってばっかりだったよ」


「また昔の俺か」


「便利だから」


 リリカはそう言って、草をかき分けるように進んだ。


 草原の中に、小さな建物があった。


 最初は物置かと思った。

 けれど近づくと、ずいぶん変な建物だった。屋根はある。壁もある。でも扉がない。窓もない。壁には子どもの落書きのような絵がいくつも描かれていた。


 丸い太陽。

 傘。

 犬。

 片方だけの靴。

 大きな魚。


 線はどれも曲がっていて、うまくはない。


「これ、何」


「夢小屋」


「そのままだな」


「湊がつけた」


「昔の俺、名前つけるの下手だな」


「うん」


「否定しろよ」


 リリカは少しだけ笑った。


 湊は壁の落書きを見た。


 魚の絵がある。

 今朝、ノートに描いていた魚と似ていた。尾びれが大きすぎて、目の位置が少し上にずれている。うまくはない。でも、見覚えがある。


 湊は壁に手を伸ばした。


「触ってもいいのか」


「少しなら」


「少しって何だよ」


「長く触ると、余計なものまで思い出す」


「それ先に言えよ」


 湊は指先だけで、魚の絵に触れた。


 その瞬間、声が聞こえた。


「もっと大きく描いて」


 少女の声だった。


「これ以上大きくしたら、魚じゃなくなるだろ」


 今度は幼い自分の声。


「空を泳ぐんだから、大きい方がいいの」


「じゃあ、空も描かないと」


「空はここ全部」


 場面は一瞬で消えた。


 湊は壁から手を離した。


 魚の絵が、少しだけ薄くなっていた。


「今のも、思い出したことになるのか」


「うん」


「じゃあ、この絵も消えるのか」


「すぐには消えないと思う」


「思うって」


「夢にも強いのと弱いのがあるから」


 リリカは壁を見た。


「これは、湊が何度も描いた夢だから。少し思い出したくらいじゃ、全部は消えない」


「何度も?」


「うん。ここに来るたび、何か描いてた。魚ばっかりの日もあったし、階段ばっかりの日もあった」


「俺、そんなに暇だったのか」


「夢の中だからね。時間はたくさんあった」


 湊は壁の絵を見ていた。


 魚の横には、二人の子どもが描かれている。

 一人はたぶん自分。もう一人は髪の長い子ども。顔は丸だけで、表情はない。


「これ、お前か」


 湊が指さすと、リリカは壁を見た。


「たぶん」


「たぶんなのか」


「昔の湊の絵、分かりにくいから」


「悪かったな」


「でも、嫌いじゃなかったよ」


 リリカは壁の絵に近づいた。


 指先で、髪の長い子どもの絵に触れる。


 その瞬間、絵の子どもがほんの少し動いたように見えた。


 湊は目を細める。


「今、動いた?」


「動くよ」


「何でそんな普通に言うんだよ」


「ここでは普通だから」


「全然普通じゃない」


「湊は昔、これを見て笑ってた」


「俺、適応力高いな」


「うん。夢の中ではね」


 その言い方が、少し引っかかった。


「夢の中では?」


 リリカは答えなかった。


 湊は聞き返そうとしたが、やめた。

 リリカが言いたくないことは、たぶん今聞いても答えない。


 建物の壁の下に、小さな文字があった。


 ひらがなで、たどたどしく書かれている。


『またあした』


 湊はそれを見た瞬間、胸の奥が少し詰まった。


「これも俺が?」


「うん」


「毎回来てたのか」


「来てたよ」


「いつまで」


 リリカの指が止まった。


「分からない」


「分からないって」


「ある日から、来なくなった」


 湊は黙った。


 空を泳ぐ魚が、遠くで尾びれを動かした。


「俺、何かあったのか」


「湊の世界のことは、私には分からない」


「でも、待ってたんだろ」


 リリカは壁から手を離した。


「待ってたかどうかは、よく分からない」


「さっきからそればっかりだな」


「本当に分からないんだよ」


 リリカは静かに言った。


「最初は、明日来ると思ってた。次も、明日来ると思ってた。その次も。そうしているうちに、明日がどれのことか分からなくなった」


 湊は何も言えなかった。


 風が吹く。

 壁の落書きが、かすかに揺れた。


「待ってるって、いつから待ってるってことになるんだろうね」


 リリカはそう言った。


 責めるような声ではなかった。


 だから余計に、湊は苦しくなった。


「……ごめん」


 言ったあとで、まただと思った。


 リリカは振り返った。


「謝るのは、もう少し思い出してからでいいよ」


「今はだめか」


「今謝られると、私が何を許せばいいのか分からない」


 湊は口を閉じた。


 たしかに、そうだった。


 自分は何をしたのかも覚えていない。

 ただ苦しくなって、反射で謝っているだけだ。


 リリカが歩き出す。


「行こう」


「どこへ」


「夢見湖」


「さっきも聞いたけど、それ何」


「湊が昔、よく座ってた場所」


「俺、座ってばっかりだな」


「歩くの嫌いだったから」


「昔の俺、どんどん情けなくなるんだけど」


「今もあまり変わらないよ」


「会ったばかりの今の俺にそれ言う?」


「会ったばかりじゃないから」


 リリカは前を向いたまま言った。


 その言葉に、湊は返事ができなかった。


 会ったばかりではない。


 けれど湊には、その時間がまるごと抜け落ちている。


 夢小屋を離れる前に、湊はもう一度だけ振り返った。


 壁の魚は、まだそこにいた。

 少し薄くなっていたが、消えてはいなかった。


 その下の『またあした』だけが、さっきより濃く見えた。

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