5話 疑惑の薫衣草《くんいそう》(前編)
白い霧が立ち込める庭園は、今日も花が咲き乱れている。
その庭に、ノアは寝転がっていた。彼の頭を膝に乗せる緑は、穏やかに微笑みながらその金髪を撫でている。今日は案山子が美しい鼻歌を歌っていた。
「旦那様、そろそろ外は朝ですよ」
楽しそうに緑が話しかけると、ノアは閉じていた目を開けた。自分の顔を覗き込んでいる緑の顔を見つめて、また目を閉じる。
「……憂鬱だ」
元婚約者を罰する手続きをするのは、想像以上に彼の心を痛めつけた。必死に助命を乞うゴールド侯爵の姿も、胸に刺さった。
「でも、あの子を助けられるのは旦那様だけなのでしょう?」
優しい緑の言葉に、ノアは眉をひそめる。
適度に柔らかく、暖かい膝枕の感触を手放すのは惜しかった。最初に無理矢理された時はあまりの不敬に、どう罰したものかと憤ったが、そんな怒りはすぐに消えた。今は、毎晩ここだけで味わうことができる密かな楽しみとなっている。
「……起きるか」
次の瞬間、ノアは自室の寝台の中にいた。
もう慣れたその感覚に動揺することもなく、彼は天蓋の外の様子を伺う。気分も体も、異常なほど爽快になっている。
彼の髪から、甘い香りが漂った。
その日、ノアは母親に呼び出されると、一通の招待状を渡された。
その封蝋を見て、彼は顔に嫌悪を浮かべる。彼が背負う空気が尖ったのを感じて、緑は首を傾げた。
「私ではなく、貴方と、魔女殿を招待したい、ということです。駄目ならリリーとフローレンスを出せ、と」
「まだ未成年ですよ。出せるわけがないでしょう。何を考えているのですか」
唸り声が聞こえそうなほど、ノアは苛立っていた。初めて見るその感情に、緑は目を細める。
「受けるしかないでしょう。魔女殿を自分の目で見るまで、彼女は諦めない。相変わらず、大胆なことをされるものです」
母親の言葉に頷くと、ノアは緑に向き直った。その目は普段の何倍も鋭く、据わっている。
「リュー、急いでドレスを仕立てるぞ。今回、拒否権はない」
ノアは手に持つ招待状を振る。
それは第二王妃、ヘレンからのお茶会の招待状だった。
第二宮殿の庭園で、第二王妃の集いは開かれていた。
元々国内の公爵令嬢だった第二王妃の派閥に属する者は多い。その人数は隣国から嫁いできたノアの母親と比べものにならないほど。
派閥の大きさを内外に示すための集まりの中で、ノアと緑は好奇の目に晒されていた。値踏みする視線にひそひそとした話し声が絶えず続く中、ノアは隣に座る緑の様子を伺う。
緑は新調したマーメイド型のデイドレスに、髪を結い上げて参加している。緑の指も今日は手袋に覆われているため、見た目は周りの令嬢達に溶け込んでいた。
この底意地の悪い会で魔女が機嫌を損ねないか彼は心配していたが、緑は周りの様子など気にも留めない様子で紅茶を飲んでいる。
唐突に、どこからか拍手が起こった。それは波のように伝播していく。
「御登場だ」
ノアの言葉に、緑も顔を上げる。二人の視線の先にはレースと宝石で着飾った一人の女性がいた。
第二王妃、ヘレン。二代前の国王の孫にあたる彼女は美しい金髪を輝かせながら、宝石のような紫の瞳でゆっくりと庭園を見渡し、ノアと緑を見つけるとにっこりと微笑んだ。
***
女は、私の目から見ても異常だった。
頭上には紫の花で編まれた王冠が乗っている。下から伸びる薫衣草の茎は、鎧のように彼女を守っていた。
――旦那様と同じ。権力を求める方ですわ。でも、怖いのは足元。
彼女の足元には無数の死人の気配がした。低く、うめき声も聞こえる。無数の手を引きずりながら、彼女は歩いていた。
――まるで呂雉ではないですか。
庭園には、死者がはびこっていた。
生者に混じって茶会に参加するもの、生者を取り込もうとするもの、土の中から助けを求めるもの。数えていてはきりがない。
――墓园の何倍も賑やかな王宮に住んでいらっしゃるのね。うらやましくもないですけれど。
後編は明日21時頃に。
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