4話 貴方を思って咲く万寿菊《まんじゅぎく》(後編)
目が覚めると普段となにも変わらない寝台の中にノアはいた。見慣れた天蓋にほっと息を吐く。
リアルで不気味な夢の余韻がまだ脳に残っていた。緑と交わした短い会話は記憶しているが、どうやってあの場を抜け出したのかまではノアは覚えていない。
――二日連続で見たということは、あれはただの夢ではないだろう。
魔女を陣営に招き入れた代償を彼は実感する。けれど、それは得た力に比べれば些細なことに思えた。
「ノア殿下。起床のお時間です」
聞こえて来た侍従の声に、ノアは体を起こし、寝台から出る。第一王子が居なくなった分、彼の仕事は膨大に増えていた。呆けている暇はない、と夢への考察を放り投げて、彼は仕事に頭を切り替える。
空になった寝台には、あの甘い香りが漂っていた。
魔女は意外にも貞淑な女だった。
小さなトランク一つで城に来た彼女は、毎日淡々と毒見をこなし、ノアに付き従った。自分から魔女に話しかける者はいなかったが、彼女は自ら挨拶をする女だった。すれ違う侍女にも挨拶をし、部屋付きの侍女には顔を合わせる度、感謝を伝えているらしい。
結果、彼女の人望は少しずつ積み上がっており、第一王妃の離宮は魔女を受け入れつつあった。食事の時にしか魔女を見ない王妃と王女はまだ怯えを見せてはいるが、使用人たちの態度は明らかに軟化した。
「服は、それ以外持っていないのか」
ある日、ノアが問いかけると彼女は困ったように笑った。暗緑のドレスを両手で撫でる。
「生憎、手持ちはこれだけなのです旦那様。着ているもので、愛の重さは変わってしまうかしら」
体のラインを強調したそれが常に隣にあるのは、目の毒だった。
ノアが服と靴を贈ると言っても、聞き入れない。結局、王妃が古いものを下げ渡すという形で話は落ち着いた。
宝石も香水も、年頃の令嬢が強請るものを彼女は何一つ欲しがらなかった。毎夜の口づけだけを除いて。
与えられたデイドレスを着て、彼女はノアの執務室の片隅で紐を編んでいた。太めのそれを、彼女は器用に編んで飾りを作っていく。赤い紐飾りは森の中の小屋で見覚えがあったもので、いくつかノアの寝室にも飾られるようになっていた。
王妃の古着を来た彼女はずいぶん雰囲気が違って見えて、ノアは彼女が魔女だということをうっかり忘れそうだった。緑色に染まった指さえ目に入れなければ、清楚な令嬢に見える。
流れる黒い髪は日の光を受けて煌めいている。彼女に髪を結う習慣はないらしく、それは常にノアの傍で揺らめいていた。
何度か、偶然手が触れたことがある。指先を滑ってほぐれていく感覚は、妙な心地よさを彼に与えた。
「ノア殿下。少しよろしいでしょうか」
侍従に声を掛けられてはっとしたノアは素早く顔を正面に戻す。手元の書類には、小さなインクだまりが出来ていた。
「どうした」
「ゴールド侯爵令嬢がいらっしゃっております。面会希望とのことですが、いかがいたしましょう。事前のお約束はなかったと記憶しておりますが」
元婚約者の突然の訪問にノアは眉を寄せた。連絡もなしに彼女が押し掛けてくることなど、婚約していた間にもなかった。
「応接室へ案内を。すぐに行く」
彼女への罪悪感はまだ消えていない。ここで追い返す非情さは、彼は持っていなかった。
「突然の訪問、申し訳ございません」
ゴールド侯爵家のマリーはそう言って深々と頭を下げた。その謝罪をノアは受け入れる。その背後には侍従たちに交じって緑も立っていた。
「新しく縁談を結ぶにあたって、ノア王子のご意見をお聞きしたく、伺いました」
そう言って、彼女は自身の縁談話がどこまで進んでいるかを語った。縁談相手に抱いている疑問や、王家が各家をどのように見ているか等の確認に、ノアは一つ一つ真摯に答えていく。それが、突然彼女の未来を奪った自分がすべき贖罪だと考えた。
「ありがとうございます。参考にさせていただきます。これ、殿下がお好きだった我が家のクッキーですわ……もう、いらないかもしれませんが」
ラッピングされた焼き菓子を彼女はおずおずと差し出す。
その時、緑が小さく笑った。嘲るような声だった。
その小さな笑い声をノアは聞き逃さない。
「……これは、私宛てか」
「もちろんです。最後に、食べていただけたら、と」
マリーの手は震えている。伏せられた目からは、意図が読み取れない。まっすぐ、ノアは元婚約者を見つめていた。
「もう一度聞く。これを、私に食べさせたいのか」
「はい……未練、がましいでしょうか」
変わらない答えに、ノアは目を伏せた。数秒考えた後、差し出された袋を受け取ってその場で封を解き、中の焼き菓子を一つつまむ。
マリーが目を輝かせた。
「リュー」
ノアが静かに呼びかけた。彼女に向かって、つまんだ焼き菓子を差し出す。
マリーの顔が曇った。
「食べろ」
その命令に、魔女はゆっくりと首を傾げた。
「いいんですの? 私が、食べても」
「それが貴女の仕事だ」
ノアの静かな声に緑がほほ笑む。それは楽しそうに、嬉しそうに。
ゆっくり進み出ると、彼女は焼き菓子を受け取った。躊躇いなく口に運ぶ。一口砕くと、欠片が床に零れた。
咲いたのは、細い花弁の黄色い花。
彼女の紅い唇の間に現れたそれに、室内の人間は息を呑んで硬直した。ノアを除いて。
「ゴールド侯爵令嬢。残念だ」
「え?」
異様なものを目撃した彼女は普段の優雅さを投げ捨てて嫌悪感を全身で表していた。ノアの言葉の意味が分からず、椅子から動かないマリーの周りを、花の意味を知っている離宮付きの従者が取り囲む。
「連れていけ」
ノアの一言でマリーの体が持ちあげられた。戸惑う彼女を、侍従たちは有無を言わさず引きずっていく。
彼女が連れ出され、部屋の扉が閉まると、ノアは深いため息をついた。重苦しい空気が下りる。
「あの子、どこに連れていかれたんですの?」
のんびりと、緑が問う。考えたくない現実を問われて、ノアは顔をしかめた。
「まずは、地下牢だ。そこで全て白状するまで尋問にかける。王族に毒を盛ろうとした罪は重い」
「あら、大変」
間延びした声が、今はノアをいらつかせた。
長年、婚約者として共に在った彼女には多少なりとも情があった。だから自分が婚約破棄した後も彼女に良い縁談がまとまるように力を尽くした。
――なんでもいい。理由を付けて引き下がってくれれば、投獄することなどなかったというのに。
無意味に終わった最終通告を、ノアは嘆いた。
「貴女は、食べる前からわかっていたな。あれに毒が入っていると」
「ええ。とても、強い匂いを感じましたし、とてもわかりやすかったので」
緑の返答にノアは眉を上げた。あのクッキーからは、特に変な香りはしなかった。それは包みを開けたノアが一番よく知っている。
少し距離がある緑が、何故毒の匂いを察知できたのか。推察しようとして、ノアは思考を放棄した。
――魔女のことを真面目に考えたって、時間の無駄だろう。
「あの子、貴方に愛されたかっただけでしたのに。可愛そうなこと」
「……どういうことだ」
ノアが問うと、緑は笑った。手にしていた黄色い花に唇を寄せる。
「これはイランイラン。媚薬を呑んだ時に咲く花ですわ」
その瞬間、ノアは彼女の目的を理解した。全てのきっかけが自分にあるとわかって、悲痛に顔を歪める。
「それでも……現行犯では、庇うことができない」
――目的、毒の入手経路、背後の人物関係。全てを速やかに白状したとしても、修道院送りにできるかどうか。
ノアが断腸の思いでいるとその頭を後ろから緑が包むように抱きしめた。クッションより柔らかいなにかの感覚に、ノアは眉間の皺を深めた。そういう気分ではないのに、意識が勝手にそちらに持っていかれる。
「可愛そうな旦那様。落ち込んでいらっしゃるのね。元気を出してくださいまし」
***
身じろぎ一つしない旦那様の頭を私は撫でる。金色の美しい髪は指の間で光を変えた。
――可怜的老爷。なんて可愛そうな旦那様。
悲しみに沈む旦那様に、今日は目いっぱい優しくしようと心に決める。
今日は共に眠るのもいいかもしれない。
――それにしても。愛されるために媚薬を使うことの、なにがいけないのかしら。不思議ね。
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