3話 貴方を思って咲く万寿菊《まんじゅぎく》(前編)
白い霧が立ち込める花園でその女は両手を広げて微笑んでいる。
「私のお庭にようこそ、旦那様」
紅い唇が、艶めかしい。
「本日もおいしゅうございました」
緑が全ての食事を食べ終わると、固唾をのんで見守っていた者たちはほっと息を吐いた。今日は花が生まれることはなかった。
メイド達が慌てて配膳の準備を始める。ノアも前のめりになっていた姿勢を直し、手元にあった水をあおった。
――リューを連れてきたことで、食の安全は確保された。これは大きい。
目の前に食事が運ばれてきた。香草入りの卵料理に茹でられた腸詰め、豆の煮込み。冷めてしまってはいるが、それらは昨日よりずっとおいしそうに見えた。共にテーブルに着く家族も、嬉しそうに食事を始める。
昨夜は毒と吐いた花に慄き、混乱と恐怖のまま食事を終えてしまったが、安全が確保されている食事は心底美味しく感じられた。
兄が死んでからの食事は味がしなかった。生きるために、毒の疑惑があるものを口に運ぶのは拷問に近い行為だった。毎日家族は毒殺の気配に怯えていた。
ノアは卵の柔らかさを噛みしめ、口の中に広がる肉汁を飲み干す。
母は隣国の王女で政略結婚でこの国に嫁いできた。
外交問題になるのを避けるため、兄は病死として発表された。命を狙われたのにろくに事件として扱われず、母国からの支援も断たれて拠り所を失った我が家は肉体的にも精神的にも追い詰められていた。
緑を連れて来たことは、間違いではない、とノアは朝から何度も自分自身に言い聞かせている。
先に食事を終えた緑は、テーブルの端でフルーツに手を伸ばしていた。緑色の指で旬の苺をゆっくりと味わっている。魔女でも、やはり甘味は好きらしい。
ケーキを食べさせたらどうなるのか、興味がわいた。
――確か、婚約者殿が最近、令嬢たちの間で流行の店があると言っていたな。
そこでノアは気づく。自分が、片付けなければならない大きな問題が残っていた。
「婚約を、解消してほしい」
その日、ノアは婚約者の家を訪れるとそう切り出した。婚約者の令嬢、マリー本人も、父親のゴールド侯爵も、驚愕の表情でノアを見る。
彼女との結婚は目前だった。未だ学生であるマリーが卒業次第、式の準備に入る予定だった。
「娘が、なにか失礼をしましたでしょうか」
「いや、完全にこちらの都合だ。本当に申し訳ない」
ゴールド侯爵は小刻みに震えていた。マリーもこぼれそうな涙を必死に耐えている。
第二王子である自分に文句も言わず、よく仕えてくれた令嬢だった。こちらの勝手で彼女の未来を潰してしまうことにノアは罪悪感が募る。
「では、なぜ突然」
ゴールド侯爵の言葉にノアは俯く。無用な争いが起きないようにと、馬車の中に置いてきた緑に思いを馳せた。
――愛が欲しいという魔女は、他の令嬢との結婚など、許さないだろう。
魔女を招いたことで得た安寧は大きすぎて、彼女の機嫌を損ねることに恐怖心があった。婚約者と魔女を天秤にかけて、魔女を選ぶことになったことをノアは申し訳なく思う。同時に、仕方がない、と自分に言い聞かせていた。
「詳しくは、言えない。すまない。国王陛下からの通達はこれだ。こちらは、代わりに提案できる縁談書。受け取ってほしい」
連れて来た近衛騎士に書類を渡させると、ゴールド侯爵は躊躇いながらそれらを受け取った。何度も、何かを言いかけて止める。
国王の許可がでている以上、一侯爵でしかない彼には抗う術がない。国王もノアの申請に異を唱えることはなかった。
とても簡単に、婚約解消の手続きは終了した。
「誰と、婚約されるのですか」
マリーが静かに問いかけた。
「より、王妃にふさわしい方をお迎えになるのでしょう? 最後に教えてくださいませ」
彼女はオレンジ色の瞳を濡らしながら、まっすぐにノアの目を見つめている。
彼女の思考は正しい。第一王子がいなくなり、王太子となった今、より国益となる妃を選ぶのは当然だった。
――あれを、妃としていいのか。
魔女を国の王妃にしたいとは、ノアも考えてはいない。
――だが、あれの力がなければ、俺は王位を手にする前に消される。
「まだ考えてはいない。今、城の情勢は不安定だ。足元を固められるまで、しばらく婚約者を持つつもりはない」
令嬢は、それ以上何かを聞き出そうとはしなかった。
「おかえりなさいませ、旦那様」
ゴールド家を出ると、馬車の中で緑が待っていた。ノアはその姿を一瞥して、無言で馬車に乗り込んだ。主を乗せたことを確認した馬車が動き出す。
「御用は、無事終わりましたの?」
隣に座り、もたれかかってくる緑にノアが触れることはない。しかし、振り払いもしなかった。
「令嬢との婚約を、解消してきた」
「まあ」
緑は目を見開くと、ノアの腕に手を絡ませた。彼の肩に愛おしそうに自分の頭を乗せる。
「嬉しい。それでは、旦那様はこれから、私だけのものなのね」
その言葉に、ノアは答えない。
***
馬車の中から、私は過ぎ去る屋敷を盗み見る。
屋敷の内側からは零れる程に万寿菊の花が咲き乱れていた。花弁には絶望と嫉妬、そして怨嗟の念がこもっている。
――可愛らしい。でも残念。
私はもう一度旦那様の肩に頬を寄せる。暖かい体温が伝わってくる。
正面に座って旦那様のお顔をずっと見るのも良かったけれど、隣に座ってこうして触れ合うのも悪くない。
昨夜は口づけもした。その後も私に会いに来てくれた。
――旦那様は、もう私のものなの。
***
眠りにつくと、再びノアは霧の中の庭園にいた。鈴の音が遠く響いている。昨夜と全く同じ景色に今夜は恐怖よりも呆れが勝った。
「また来てくださったのね、旦那様」
霧を纏いながら緑が笑う。昼間と変わらぬ笑顔だった。
「どこなんだ、ここは」
「そうですね……私の体の中、と言えばよろしいかしら。私も、あまりよくわかってはおりません」
頬に手を当てて首を傾げる緑は困惑の顔をしている。
明らかに彼女が原因で起こっている未知の現象に、ノアは彼女が魔女だという事実を再認識した。
「ここに私以外の人が来るのは初めてですから。嬉しいですわ」
そう言って、彼女は手にした如雨露で花に水をやる。その小さな薄青の花には見覚えがあった。
「その花は」
「啊、これは昨日の瑠璃茉莉です。ここでは、私の口から咲いた花が咲くんですの」
その言葉にノアは寒気を感じた。自分たちの周りで咲き誇る、膨大な種類の花に意識を向ける。
さまざまな花があった。色も形もバラバラで、良く知る花も知らない花もある。数は数えられるレベルではない。
――どれだけの毒を呑んで、死の淵を歩いてきたんだ、この女は。
「苦しくは、ないのか」
「毒を呑んだ時のことですか? 昔は少し。今はもう、なんともありませんわ」
ノアの問いに緑は楽しそうに笑って答えた。
背筋が凍る。同時に、感触が残る唇が熱くうずいた。
***
暗い部屋で彼女は涙を流していた。
泣いても泣いても、気持ちは晴れない。泣いたところで、解消された婚約が元に戻るわけではないと理解していたが、涙は止まらなかった。
――なんで、どうして。あと少しで結婚だったのに。
第二王子は代わりの縁談をたくさん持ってきてくれたが、婚約破棄された自分が今後社交界でどうなるか、マリーは知っていた。
第二王子の婚約者として、今日まで必死に努力してきた。王族に嫁ぐ者として誇り高く、けれど第一王子の婚約者より目立たないように、慎重に行動してきた。
あれもこれも、全てが無駄になってしまったことをマリーは嘆く。
――第一王子が死んだせいで。
マリーは怨嗟を死んでしまった王子に向ける。あの日までは、なにも問題なくマリーは第二王子の婚約者だった。
第二王子も、少なからず情を持ってくれていると考えていたのに。勘違いの幻想だったことも、心に突き刺さっている。
こんこん、と窓がノックされたのはそんな時。
はっとして彼女が窓を見れば、窓は開いていて、窓枠に小さな青い小瓶が置いてあった。それは精巧なガラス細工で飾られた綺麗な小瓶で、月明かりを受けて美しく輝いている。夜の闇の中、深い青色をした小瓶は、どこか神秘的な美しさがあった。
そのあまりの魅力に、マリーは心惹かれて歩み寄る。閉まっていたはずの窓への警戒は溶けて消えた。
小瓶には小さな手紙が添えられてある。
――これは思い人の心を取り戻す魔法の薬。
今、マリーが取り戻したい人なんて、一人しかいない。
手紙の末尾は、貴女の望みを叶える薬屋より、と結ばれていた。
今回は長くなってしまったのですが、切れ目がわかりませんでした…
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