22話 ランプの貴婦人はもう夢も見ない(後編)
城に着くと、まず騎士団の医務室に連れていかれた。
念入りに怪我がないか確認され、解放されたのは日も暮れる頃。
騎士団棟から出て第一王宮に移動しようとしたとき。彼は現れた。
「大変でしたね、ノア兄上」
アーサーだった。彼はそれは楽しそうにノアに近づいてくる。
素早く、ノアは後ろに立つ緑を背中に隠した。後ろ手で、緑の手を掴む。
「公務の帰りに襲われるなんて。兄上に怪我はありませんでしたか? 近衛騎士が、被害にあったとは聞きましたが」
彼の言葉は、ノアの神経を逆なでしていく。答えない兄をアーサーは笑顔で見ていた。
彼はノアの背中から様子を伺う緑を見つけると、さらに無邪気に笑った。
「ああ、貴女もやっぱり一緒だったんですね。大丈夫でしたか? 怖かったでしょう?」
「……いいえ? 旦那様が守ってくださいましたから」
緑の言葉をアーサーは鼻で笑う。
「『旦那様』ですか。そんな風に呼ばせてるんですね。使用人相手に、夫婦ごっこ、ですか」
「……用件を早く言え。疲れているんだ。早く帰らせろ」
「怖いなあ。心配して様子を見にきたのに。用は……特にないです。強いて言うなら、贈り物すら握りつぶす兄上の過保護さにいくらか文句は言いたいですけど」
そう言って、彼はノアに頭を下げる。
「疲れているところ失礼しました。今夜はゆっくり休んでください」
去っていくアーサーの背中を、ノアは音がするほど歯を食いしばって睨み付けた。
「あいつらの仕業だったか」
「そうなんですの?」
緑が問いかけると、ノアは忌々しげに舌打ちをした。
「ああやってわざわざ様子を見に来たのがなによりの証拠だ。自分の目で被害の大きさを見て楽しむガキなんだ」
「そう、ですか……それで、どうして手を繋いだのです?」
握られたままの手を緑が指すとノアは顔をしかめた。
「理由なんて、どうでもいいだろう。帰るぞ」
歩き出したノアの耳は、少し赤くなっていた。その可愛らしさに緑はうっとりと目を細める。
一方、アーサーが去っていった方向にも目を向ける。
黒い瞳には、温度がなかった。
***
第二王宮の自室。一級品のソファーの上で、アーサーは寛いでいた。
干し肉を食べながら、夕飯前に会った兄の顔を思い出す。機嫌の悪さを隠せない苛ついた顔。いつも毅然としているあの人から近衛騎士を取り上げたんだと思うと、もう顔がにやけてしまう。止まらない笑いを浮かべながら、手の中で干し肉を転がした。
――次は、何を仕掛けてやろうか。母上には危険なことになってもいいと言われているし。
今日の近衛騎士を狙った作戦はうまく行った、と彼は笑う。母からは本人を狙えと言われたが、アーサーは断った。じわじわと、手足から順に捥いでやるんだと心に決めている。
次の作戦をどうするか、標的にする黒髪を思い浮かべていた時。
「こんばんは」
艶のある女の声だった。
アーサーが振り返ると、ちょうど思い浮かべていた黒髪の女がいた。横で、鍵をかけていたはずのバルコニーが開いている。
「すみません。窓が開いていたので、勝手に失礼させていただきました」
そんなわけないだろう、という言葉を、アーサーは飲み込む。一緒に、動揺する心も押しつぶした。
「どうしたんですか? こんな夜更けに男の部屋に来るなんて。ずいぶん、ふしだらな方ですね」
絶対違うとわかっていることをアーサーはわざと口にする。嫌がる顔を見たくて、挑発する。
けれど、女は全く反応を示さなかった。少し苛つきながら、アーサーは視界の端ですぐそこにある寝台を確認する。
――この部屋ならちょうどいい。隙を見て連れ込んでも、誰にもばれない。自分から来るなんて、馬鹿な女。
女は彼より少し背が高かったが、アーサーには関係なかった。人がどうすればバランスを崩すか、どうすれば抑え込みながら弄べるか、彼は知っている。
少し前に触った女の体を思い出す。肉付きがよくて、柔らかい良い女の体だった。それを独り占めしている兄に苛立ちを覚えながら、飛び込んできた好機にアーサーは笑う。
――寝取ってやる。ああ、兄上はどんなふうに悔しがるだろう。
下卑た作戦を立てるアーサーに、なにも気づかない女は微笑む。
「少し、お説教をしに来ました」
「説教?」
思わず鼻で笑った。
「貴女が僕に? なんの話で?」
「貴方、なんだかとても悪い事をしているようなんですもの。お母様に、人が嫌がることをしてはいけませんと、教わらなかったのかしら?」
平民の家庭の価値観を押し付けられて、アーサーは嘲笑した。
――平民丸出しだな。王族に何を言いに来たんだ、この女。
「生憎、うちは母とそんな仲ではないんですよ」
「あらかわいそうに。では、教えて差し上げます」
女は一歩、前に進んだ。
「人が嫌がることをしてはいけないんですよ」
また一歩、近寄ってくる。
「人の物を盗るのもいけないことです」
倫理を説いてくる女をアーサーはあざ笑う。典型的な説教はもう聞き飽きていた。今更そこを説かれても彼にはなんの効果もない。
「他人の婚約者をたぶらかして捨てるのも止めなさい?」
一歩。
「使用人たちに無理な注文をして困らせるのも良くないことです」
また一歩。
嘲笑は、いつの間にか溶けて消えていた。アーサーの背筋を冷たいなにかが撫でていく。
――第一王宮の住人が、なぜうちの内情を知っている。女で遊んでいることは流れている話もあるからわかる。だが、第二王宮の使用人たちは、金で縛っているから情報は漏れていないはずなのに。
「あら、他人の手柄を自分のものにしてしまう癖があるんですね。それは直さないと」
――それも、誰から聞いたんだ。あの男には十分に金を渡して、口外を禁じたのに。
「やだ。自分の失敗は他人になすりつけるなんて。酷いこと」
――どうして、それを知っている。あいつは、今もう王都に居ないはずだ。
気づけば、黒髪の女は目の前まで来ていた。甘い香りがした。
引き攣った顔でアーサーは女を見上げる。黒い目はアーサーをじっと見つめている。全てを飲み込んでしまいそうな黒から、彼は目を逸らせない。
「みなさん、仰ってますよ?」
そう言って、女は彼の後ろを指さした。女は、後ろの何かを見ている。
――はったりだ。誰もいない。今この部屋にいるのは、俺だけだ。
「ユルサナイ、って」
声が、ダブって聞こえた。
目の前にいるのは女なのに、確かに聞こえた男の声に背筋が凍る。男の声は、背後から聞こえた気がした。
「お、まえ」
もう、平静を保つふりもできなかった。
逃げようとしたアーサーの手を、女の手が掴む。その手は、気色の悪い色をしていた。骨が痛むほど、力を込められる。
「もう、悪い事をしてはだめですよ?」
真っ黒な目が、じっとこちらを見ている。
その目の奥に、アーサーは何かを見て――
はっと、気づけばアーサーは寝台の上にいた。
いつの間に寝ていたのか。そう思うと同時に、夢の記憶が溢れてきて、どっと一気に汗が噴き出してくる。
――嫌な、夢だった。
女に詰め寄られて動揺するなんて、不覚にもほどがある。
アーサーは枕元にある水差しに手を伸ばし――気づいた。
痣が、あった。指の形の通りの痣が。その手は細くて、小さくて、まるで、女の――
小さく悲鳴を上げて、アーサーはのけぞった。
夢な、はずだった。あんな失態、現実で犯す筈がない。
ふと、柔らかい寝台の上で、なにか手に当たる物があった。
食べかけの、干し肉だった。
一気に体から体温が引いていく。
――近衛騎士を。
隣の部屋に常に待機させている男の存在を思い出す。
呼び出そうとして、止めた。
――部屋に侵入してきた女に説教されて痣をつけられたなんて、誰が信じる。たとえ信じられても、俺が滑稽なだけだ。
屈辱、恐怖、混乱。行き場のない感情がアーサーの中で渦巻いて、暴れ回る。
「なんなんだ、これは」
悲鳴のような小さな声が、闇夜に溶けた。
***
目を覚ますと、いつもの庭園にいた。
私は体を起こして、伸びをする。目の前には既に準備された茶具。庭には整列した髑髏たち。今日も案山子は楽しそうに歌っていて、庭師のあの子は静かに土をいじっている。霧の中から聞こえてくる金剛鈴の音が、心地いい。
――今日は、久しぶりに昔を思い出してしまったわ。
久しぶりに聞いた爆発音は、一瞬で戦時中の記憶を呼び起こした。少しの間、今の自分を忘れてしまうほどに。
――凍てつく寒さ。足りない物資。必死に助けようとしても簡単に死んでしまう命。そして繰り返される、突然の移動命令。
すっかり忘れたと思っていたのに、記憶は体に刻みこまれていた。
――どうして、私はここにいるのかしら。
何百何千と繰り返しても、その問いに答えは出ない。
「リュー、いるか」
霧の中から、旦那様の声がした。出会った日から、ほとんど毎日欠かさず来てくれていることが、たまらなく嬉しい。
――これが、今の私。
「こちらです、旦那様」
私は旦那様の声がする方に歩き出した。




