16話 謙遜と悪意の瑠璃蝶々《るりちょうちょう》(後編)
「ようこそ第二王宮へ。よく来てくださいました、第一王宮の薬師殿」
甘い香の中から少年の声がした。見れば、金髪に紫色の瞳の少年が、部屋の中に立っていた。
頭に瑠璃蝶々を掲げている。けれど随分形が中途半端で不出来な王冠で、旦那様との覚悟の違いが明らかだった。
体の各所に、死人が絡みついている。本人はまだ気づいていないようだけれど、様々な怨嗟がこびりついている。いろんな人間から相当恨みをかっているのがわかる。
顔は、なんとなく見たことがある気がするけれど、名前がわからなかった。
「どなたでしょうか?」
問いかけると、彼は一瞬怒りを露わにした。すぐに笑顔に戻ったけれど見逃しはしない。
「僕はアーサー・マグナリアです。この国の第四王子、ノア兄上の異母弟ですよ」
思い出す。夜会で旦那様と話をしていた子供だ。
強い花の香りで、少し気分が悪い。
「今日は突然すみません。どうしても貴女とお話したくて母上の名前で招待状を出してしまいました。僕の名前では……兄上に握りつぶされてしまうと思って」
彼の話し方は、どこか含みがあった。言葉の裏側に別の意図を感じる。
「貴女のお名前を教えていただいていいですか?」
笑顔で彼は手を伸ばしてくる。
何故か無性に、苛ついた。
「そんな。王子様に名乗るほどの者ではございませんわ」
笑顔で断ると、再び彼は不快感を顔にだした。ずいぶん、わかりやすい子供だった。
甘い香りのせいか、頭が重いような気がする。
「わたくし、今日は予定外の行動はしないようにと言われているんですの。お庭に戻ってもよろしいかしら?」
「……悲しい事を言わないでください。貴女をお呼びするのに僕、色々苦労したんです」
優しく語り掛けては来るが、明らかに苛ついているのが見て取れた。足早にこちらに近づいてくる。
「僕、一目見た時から貴女を忘れられないんです。兄上はこんな女性を独り占めしていたなんて。酷いです」
近づいてくる紫の瞳は妙に熱がこもっていた。心なしか呼吸も荒い。
旦那様と血がつながっているのも納得の、整った顔だった。まだ、幼さが抜けてはいないけれど。
部屋の中で人が動いたことで、空気が動いて甘い匂いがさらに香った。
ぞくりと、なぜか背筋が泡立ち始めた。
「兄上はいつも僕からいろんなものを奪うんです。地位も、父上の関心も。貴女のような魅力的な女性まで一人占めするなんて、酷くないですか?」
彼の言葉がもう頭に入ってこない。
体の感覚に戸惑っている間に、彼は間近に迫っていた。止まる気配がなくて、思わず後ずさる。感覚のおかしい背中に、扉が触れた。
まだ細い腕が体の横に伸びてきて、逃げ道を塞がれる。私より低い位置の頭が、触れ合いそうな位置までくる。
「僕じゃ、だめですか? 僕のほうが、貴女の欲しいものを上げられます。兄上より、ずっといいものを」
喉が、熱い。
そこでやっと気づいた。違和感の正体。
――この匂いは、毒!?
じわじわと体が熱くなっていくこの感覚は、花が咲く時の感覚だった。どうして今まで気づかなかったのか。
慌てて口を覆うと、少年が笑った。
「薬師なのは嘘じゃないみたいですね。大丈夫です。体に害のあるものではないですよ。ちょっと……熱くなるだけです」
――ここで、花を吐くのはだめ。あんなに、旦那様に気を付けるように言われたのに。
慌てて、口を覆う手とは反対の手で背後のドアノブを探った。握って動かしても、扉は開かない。
だめだと悟った私は、万が一の時用に手袋の中に隠していたそれに、急いで力を込める。ドアノブを握る手の中から、それは急速に根を伸ばし、手袋を出て扉金具に絡みついてく。
目の前の少年は、笑っていた。
「逃げないでください。せっかく二人きりになれたんです」
もう、体は触れ合っていた。扉と少年に挟まれて、苦しくなる。
口に、異物感があった。
――早く、早く。このままでは、咲いてしまう。私が旦那様の弱みになるのは、絶対にだめ。
焦る私をあざ笑うように、彼は口を覆う私の手に口づけてきた。
紫の瞳が、下から私の顔を覗き込む。まるで、絡めとるように。
「いいことしましょうよ。僕と」
――年を考えずに色仕掛けなんて。小兔崽子。まだお尻の青い子供のくせに。
ごとん、と足元に重い何かが落ちる音がした。
怪訝な顔をする彼をおいて、背後の扉を体重をかけて背中で力いっぱい押した。
開いた扉から、一気に新しい空気が入ってくる。空いた空間に、体をねじ込ませて、慌てて部屋を出た。
妬み恨みで淀んだ空気でも、あの甘い香よりよっぽどましだった。
口から手を放すと、黄色いイランイランがこぼれ落ちる。小さいそれを、落とさないように握りしめた。
反対の手は、感覚がなかった。力を使って無理矢理成長させたシダの根が手袋から垂れている。
「すみません、わたくし、体調が悪いので、これで失礼させていただきますわ」
何が起こったか理解できていない少年を置いて、私は通ってきた道を足早に戻る。
彼の足元で、扉金具にからみついていていた根が霧散して消える。扉金具には根の形をした腐食痕だけが残った。
***
「ノア様!」
第一王宮の侍女が突然、執務室に駆け込んできた。眉を寄せていると、彼女からなにか耳打ちされたクレスが、目を見開いた。足早にノアの元に来る。
「魔女殿が、戻ってきたそうなのですが、どうも体調が悪いようです」
言葉の全てを聞かないうちに、ノアは椅子から立ち上がった。クレスを置いて執務室を飛び出る。
駆けつけると、緑はソファーでぐったりしていた。出かける時は綺麗に結い上げていた髪も、ところどころほつれている。
「リュー! どうした!」
ノアが叫ぶと緑は薄目を開けた。
「旦那様……すみません。なんだか、敵の罠に入り込んでしまったようです。なんとか抜け出してきましたけれど」
緑が咳き込む。口から、黄色い花弁が零れた。見覚えのあるそれに、ノアの体が凍る。
「少し、疲れました」
そう言って、緑は目を閉じる。
毒を呑んでもいつも平気な顔をしている緑が、今日は疲れ果てていた。苦しいのか眉を下げて、艶やかな唇もきつく結ばれている。
そっとノアが触れても、緑は反応しなかった。深刻さを感じ取ったノアは、その体を抱き上げる。
「部屋に運ぶ。リューについている侍女達を呼べ。休める手配を」
***
一人残された部屋で、アーサーは足元に転がる扉金具を踏む。腐食してただの鉄の塊になったそれは、力をこめると崩れた。
「……逃げられたか」
笑みはない。香のせいで昂ぶっていた体は、とっくに冷えていた。
「でも、わかった。貴女、本当に人間じゃないんですね。兄上は、化け物を飼ったのか。いいなぁ、欲しいなぁ」
呟いた独り言は、誰にも届かない。
紫の瞳は、暗く底光りしていた。
なんとか脱出した緑と執着を始めるアーサー。
次回、帰宅した緑とノアの話。明日7月11日(土)21時頃更新。
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