10話 貴方を待ってる花一華《はないちげ》(後編)
翌日の叙任式。ノアは王位継承権第一位の第二王子として完璧にこなした。
その顔にうっすら刻まれた隈に、来賓者は誰も気づかない。
彼の手首で、ボロボロになった赤紐が揺れていた。
***
ぞくり、と背筋を這いあがる悪い予感に、私は立ち止まった。
――なにかが、入ってきた。
激しい嫌悪感を伴う異物の気配に、それを感じる方向に歩き始める。
もう、旦那様が帰ってくる時間だった。なのに、明らかに悪意のあるものが屋敷に入り込んだ。
ぴかぴかに空気が光るぐらい屋敷の中を掃除したから、それを見つけるのは簡単だった。
こんこん、と、向かう先でノックの音がしている。歩を進める度に、潮の香りがしてきた。
――可疑的家伙。侵入者め。すぐに食べてやる。
***
自室に帰ると、どっと疲れが襲ってきて、ノアはソファーに座り込んだ。
――疲れた。腹も減った。いや、それよりも早く寝たい。
昨夜の怪奇現象はノアの体力を確実に削っていた。ただでさえ緑が不在で不安だった旅路が、全く気を抜けないものになってしまった。
「食事の用意を。あと、魔女殿はどこに? 呼んできてくれ」
クレスが侍女達に指示を出しているのをノアは目を閉じて聞いていた。もう自分で何かをする余力は残っていない。
侍女達が動く足音を半分意識を手放しながら聞く。
――リューが来たら食事をとって、その後はもう眠ってしまおう。湯浴みももういい。昨夜の話をリューにしたいが、果たしてそれまで気力が持つかどうか。
目を閉じたままそんなことを考えていると、激しく扉を開く音がした。
ノアが目を開ける。その時には、もう緑が目の前にいた。緑は無言でノアの襟首をつかむ。
唇を、重ねられた。
そのまま、暖かくて柔らかい舌がノアの口内に入り込んでくる。突然の侵略にノアは慌てて緑を引きはがそうとするが、緑は存外力強かった。
険しい緑の黒い瞳と困惑に染まったノアの金の目が間近で溶けあう。
突然始まった主の情事に、クレスは部屋の端で慌てていた。止めたい気持ちと、魔女が怖い気持ちがせめぎ合う。
侍女が部屋に入ってくる音がして、彼は即座に扉を封鎖した。ソファーの上で押し倒されていく主からは、そっと目を離す。
長い時間をかけて緑はノアを蹂躙した。漸く体を離した頃には、彼は完全に昂ぶっていた。
なぜか緑から潮の香りがしたが、それを指摘する余裕はなかった。
「なにを、するんだ」
乱された髪と服を直す余裕もなく、ノアは緑を睨み付ける。だが、緑も不満げな顔で彼を見下ろしていた。
「旦那様ったら酷い人。私というものがありながら、浮気をなさるなんて」
「なんの話だ」
緑は、珍しく語気の強い言葉を放っていた。話の見えないその態度にノアが苛ついていると、彼女はノアの手首を掴んで持ち上げる。手首にまかれた赤紐は今にもちぎれそうな程痛んでいた。
「こんなになるまで、昨夜は随分お楽しみだったのですね」
昨夜、という言葉に、熱くなっていたノアの体は急激に体温を下げた。
あの不気味な音が耳に蘇る。
「な、にを知っている」
「こんなに他所の女の余韻を持っていらして。私が気づかないとでもお思いですか?」
「待て。待ってくれリュー」
緑は、わかりやすく拗ねていた。
「昨夜、俺は誰にも会ってはいない。部屋番をしていたクレスに聞けばわかる……一晩中、窓の外に何かはいたが、接触はしていない。誓う」
「……本当ですの?」
「本当だ。不気味すぎて、寝れなかったぐらいだ。お前に嘘は言わない」
ノアの真剣な説得で、ようやく緑はノアの上から退いた。
濃霧が立ち込める庭園で、緑はノアに背中を向けていた。
「リュー、そろそろ機嫌を直してくれ」
ノアは心から緑に懇願する。
今日の庭園は、様子がおかしかった。いつもは雪のように白い霧が、今日はなんだか薄暗く見える。案山子は時折威嚇のように鳴いていた。首のない庭師は仁王立ちをしたままぴくりとも動かない。
「リュー。頼む。昨日は本当に恐ろしかったんだ。お前が居れば、と。何度思ったかわからない」
「……そう、なんですの?」
ようやく、緑が答えた。
雪解けの兆しが見えたことにノアは安堵しながら言葉を続ける。彼の手首には真新しい赤紐が巻かれていた。
「ああ。やはり、お前と過ごすこの庭が、一番落ち着くと再確認した」
「そう、でしたか」
ゆっくりと緑がノアを見た。少しだけ、口が尖っている。
「次は、承知いたしませんよ」
「ああ、気を付ける」
あんな怪奇現象をどう気を付ければいいかはわからなかったが、ノアは答えた。今は、この魔女の機嫌が直らないことのほうが怖い。
「まあ、旦那様は魅力的ですもの。私が居ない時に有象無象が寄ってくるのは仕様のないことですわね」
頬に手を当てて、ようやく緑はいつもの調子に戻った。と、思ったのもつかの間。
「でも、一番は私というのを証明してくださいませ」
面倒な要求に、ほっと息をつこうとしていたノアは固まった。思わず口元がひきつる。
「ど、うやって?」
「どうしてくださいますか?」
ゆっくりと緑がノアに近づく。
「愛を、くださるんでしょう?」
動けばすぐに重なるほど、唇と唇が近づく。緑の黒い瞳が、じっとノアを見つめていた。
――機嫌を取るためだ。
そう自分に言い訳して、ノアは緑に口づけた。触れる柔らかい感触に思考が溶ける。
ちろりと、緑の舌がノアの唇を舐めた。熱い感触に、欲情が揺さぶられる。
今日初めて教えられた情欲は、ノアの中でずっとくすぶっていた。思い出したようにそれは主張を開始する。
耐えられたのは、数秒だけ。
気づけば、ノアは緑を押し倒していた。色欲のまま、緑の口内を貪る。
首のない庭師が花を摘む横で、案山子が、美しい声で歌っていた。
雨降って地固まる。
次回は事件回。
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