9話 貴方を待ってる花一華《はないちげ》(前編)
「いってらっしゃまし、旦那様」
体を寄せた緑が、潤んだ目で見つめてくる。
つい唇を寄せそうになるのを、ノアは寸でのところで耐えた。視界の端には、心配そうにこちらを見ている家族がいる。
――何をしようとしているんだ、俺は。
「留守を頼むぞ。リュー」
「はい。お任せくださいまし」
「では母上、行ってまいります」
「ええ。気を付けて」
緑を残してノアは宮殿を出発する。
マグナリア王国の皇都から半日ほど離れた場所には、大きな港をもつ交易都市がある。その騎士団の叙任式にノアは出席することになった。
どうしても宿泊を必要とする公務で、緑を連れていくか否か、ずいぶんノアは悩んだ。あれから食事に毒が入っていたことはなかったが、緑の毒見がなければ食事をするのは苦しいと、家族全員が思っている。
結果、成長途中の妹たちから安全な食事を奪うことはできず、ノアは緑を置いていく決断をした。
「ノア様、魔女殿のトランクはいかがいたしましょう。馬車の中に持ち込まれますか?」
「ああ、そうしてくれ」
指示すると、近衛騎士のクレスが黒いトランクを馬車の座席の上に置いて行った。中身はワインと黒パン、そして干し肉。どれも緑の毒見済みの、この旅の貴重な食糧だ。
動き出した馬車の中で一人、ノアは考える。
――一人になるのは、久しぶりだな。
一人きりの馬車はやけに広く感じられた。心に感じるざわめきを、ノアは目を閉じることで押し殺す。
半日をかけて馬車は交易都市についた。まとわりつくような潮風が新鮮だった。
近衛騎士のクレスを連れて、出迎えた領主達の歓待を受ける。その途中で、ノアは海に面した小高い丘に、少し煤けた女神像が一体あるのに気づいた。紫の花が、像の足元に咲き乱れている。
「なんですか、あれは」
「海を向いた女神像ですね? あれは慰霊と安全祈願で建てられたものです。うちには、船に女を乗せたら沈む、なんて古い伝承がありましてね」
窓越しに女神像を見て、案内をしていた領主は苦笑する。
「それを信じて、昔は誰も女を船に乗せて出港しなかったんですが、旅客船が流行ってからはもうそういうわけにいかなくなって。そこで、領民の希望もあってあの女神像を立てたんです。まあ、気休めです」
「なるほど」
ノアは納得して、海を向く女神像の背中を見た。一人海を見続けるその背中は、なんとなく寂しそうに見えた。
夜、領主のもてなしを卒なくこなし、客室に戻ったノアはようやく一息をついた。横でクレスがトランクから出したパンとワインをテーブルに並べるのを、ソファーに身を沈ませながら黄昏る。
「クレス、お前、リューをどう思う?」
唐突に、ノアが問い掛けた。クレスは苦い顔をして、テーブルセッティングを終えるとノアに向き直る。
「……正直、不気味です。ですが、強力なカードです。今のノア様には、必要な人材かと」
「そう思うか」
「はい。第一王子の毒殺に成功した輩は必ず殿下を狙ってきます。来たるべき日のために、一人でも強い兵を揃えておくべきです」
騎士らしいクレスの答えに、ノアは笑った。
「そうだな。兄上の側近は、誰も残らなかったからな」
第一王子についていた側近たちは、全員、処分されるか職を辞していった。酷い者は王都から田舎へ移ったものまでいる。
彼らに第二王妃派が接触していたことは既に掴んでいる。これまでにも側近が第二王妃派閥に引き抜かれることがあったため、予想はしていたが、誰もノアの元に残らなかったのは計算外だった。
「兄上は、人望の無さで死んだようなものだ。俺も、人当たりには十分気を付ける」
テーブルの上のパンに手を伸ばしながら、ノアは死んだ兄を思い出す。横暴で権力を笠に着た、嫌味な男だった。
「ノア様なら、大丈夫です。必ず玉座へたどり着いてくださると我々は信じております」
クレスの言葉にノアは笑って、黒パンを頬張った。
それが起こったのは、夜中だった。
その小さな音に、ノアは閉じていた目を開けた。緑に会えない夜は、長くて退屈で、眠りにつけないことでノアは少し苛立っていた。
寝台の中から、耳を澄ますとまた聞こえた。
こんこん、と。ノックのような音が、聞こえる。
最初は、クレスが来たのかと思った。隣接する部屋の方向に意識を集中させて、扉越しに彼が話しかけてくるのを待つ。
だが、筋肉質な野太い声は、いつまでたっても聞こえない。
こんこん、と。再びノックが聞こえる。
ノアは気づいた。音がしているのは扉ではない。窓だ。
カーテンの閉められた、海を見渡すために作られた大窓から音は聞こえる。
昼に見た時、大窓の外には眺めのいい海が広がっているだけだった。足場になるようなものは、なにもなかった。
血の気が引いた。
こんこん、と、ノックが聞こえる。
海を向いた女神像。女を乗せると沈む船。
こんこん。
何かが、窓の外にいる。
こんこん。
飽きもせずに、窓を叩いている。
こんこん。
こんこん。
朝日が昇るまで、その音は続いた。
次回、ホラーの後のロマンスです。
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