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無色の輝石使い  作者: 神代シン
第二章 拒絶の都

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第八話「消された名前の行方」

1 名前のない名簿

「この名前、見覚えはないか?」


マレナが差し出したのは、黄ばんだ紙片だった。


地下区画の小さな作業部屋。


机の上には古い記録板、破損した導光石、文字の消えかけた帳簿が積み重なっている。壁際では、住民たちが避難に備えて荷物をまとめていた。


鐘は止まった。


少なくとも、地上から聞こえてくる定時の鐘は、今のところ鳴っていない。


それなのに、地下の人々は落ち着かなかった。


何人かは、壁に耳を当てている。


何人かは、胸元の輝石を布で覆っている。


そして、子供たちは大人たちの様子をうかがいながら、できるだけ声を出さないようにしていた。


シンは、その光景に違和感を覚えた。


誰も、逃げろとは言っていない。


誰も、静かにしろとは命じていない。


それなのに、彼らは自分から声を潜めている。


長いあいだ見つからないように暮らしてきた人々の習慣なのだろう。


見つかれば、何をされるかわからない。


だから、見つからないことを最優先にする。


それが当たり前になってしまった人々の姿だった。


「……これが、旧治療施設の記録?」


シンは紙片を受け取った。


「そうよ」


マレナが答える。


「正確には、旧治療施設へ送られた人たちの移送記録の一部。地下に来た人たちの証言と照らし合わせて、ようやく見つかったの」


紙片には、何人もの名前が記されていた。


その横に、移送日、検査番号、処置区分が並んでいる。


だが、不自然な点があった。


記録の途中から、名前だけが消えているのだ。


文字が薄れたわけではない。


紙が破れたわけでもない。


名前が記されていた部分だけ、まるで最初から何も書かれていなかったかのように白くなっていた。


一方で、移送日と検査番号は残っている。


「名前だけを消したのか?」


「そう考えるのが自然ね」


マレナは別の記録板を机に置いた。


「こちらは同じ移送番号を、別の帳簿から探し出したものよ」


シンは二つの記録を見比べた。


片方には名前がある。


もう片方では、名前が消えている。


だが、移送番号は一致していた。


「……この子」


シンの指が止まった。


名前が残っているほうの記録には、こう書かれていた。


リナ・識別番号不明・透明輝石反応。


その下には、別の欄があった。

処置区分:第零観測候補

移送先:第七治療区

移送結果:記録照合不能


シンは、ゆっくりと顔を上げた。


「リナ……これ、君のことかもしれない」


部屋の隅にいた少女が、こちらを向いた。


リナは、すぐには近づかなかった。


「私の名前?」


「記録には、そう書いてある」


「じゃあ、私はリナだったの?」


シンは答えに迷った。


以前の名前が見つかったからといって、それが彼女の望む名前だとは限らない。


記録に書かれているからといって、その記録が正しいとも限らない。


そして、たとえ本当に彼女の名前だったとしても、それを今の彼女が使うかどうかは別の話だ。


「……少なくとも、誰かが君をそう呼んでいた可能性はある」


シンは慎重に答えた。


「でも、この紙だけで全部がわかったわけじゃない」


リナは紙片を見つめた。


「第七治療区って、どこ?」


「それを調べているところよ」


マレナが言った。


「今の地図には、その名前の施設はない。古い施設の名称が変わったのかもしれないし、別の施設へ移送されたのかもしれない」


「じゃあ、そこへ行けば、私のことがわかる?」


「わかるかもしれない」


「……そう」


リナは、紙片から目を離さなかった。


その表情に、シンは覚えがあった。


自分が何者なのか知りたい。


どこから来たのか知りたい。


自分に何が起きたのか知りたい。


その願いは、当然のものだ。


けれど、答えを知ることが、必ずしも救いになるとは限らない。


記録に何が書かれていようと、それを知る権利があるのは彼女自身だ。


そして、知ったあとにどうするかを決めるのも、彼女自身でなければならない。


「リナ」


シンは、声をかけた。


「この記録を調べてみよう。ただし、途中でやめたくなったら、そう言っていい」


「……どうして?」


「君の過去を調べることだから。俺たちが勝手に進めていいことじゃない」


リナは少し考えた。


「でも、私、一人じゃ何もできないよ」


「だから、一緒に調べるんだ」


「一緒に?」


「ああ」


シンは頷いた。


「君の代わりに答えを決めるんじゃなくて、君が答えを選べるようにするために」


リナは、ゆっくりと紙片へ手を伸ばした。


指先が、名前の上で止まる。


「……リナ」


彼女は小さく、自分の名前を呼んだ。


今度は、誰かに呼ばれたからではなかった。


自分で、確かめるために。


その瞬間、紙片の端に埋め込まれた古い識別石が、ごく淡く光った。


マレナが目を見開く。


「今の反応……」


「どうしたんだ?」


「識別石が、リナの輝石に反応した」


「それは、記録が本物だということか?」


「まだ断定できないわ。記録の照合に使われる石なら、同じ反応を示すことはある。でも……」


マレナは、紙片を持ち上げた。


「この識別石は、旧式のものよ。現行の管理網に直接接続されていない。それなのに、反応した」


「つまり?」


「この記録とリナの輝石は、何らかの共通点を持っている可能性がある」


リナは、紙片を握りしめた。


シンは、彼女の手が震えていることに気づいた。


嬉しいのか。


怖いのか。


それとも、その両方なのか。


「大丈夫か?」


リナは、少しだけ頷いた。


「……わからない」


「そっか」


シンは、それ以上は聞かなかった。


わからないものを、無理に言葉にする必要はない。


ただ、彼女が自分の手で紙片を持っていることだけは、確かな事実だった。


2 消された名前は、どこへ行く

「一つ、奇妙なことがある」


セラが言った。


彼女は別の帳簿を広げ、移送番号を指でなぞっていた。


「この記録、名前が消された時期が一致していないの」


「どういうこと?」


ガルドが尋ねる。


「移送されたのは、五年前、七年前、十年前。時期はばらばらよ。けれど、名前が消された記録の一部は、同じ日に処理されている」


「まとめて消したってことか?」


「そう考えられるわね」


「だったら、名前を消した人間がいるってことだろう?」


ガルドの声が険しくなる。


「そいつを見つければ、何があったかわかるんじゃないのかい?」


「そう簡単にはいかない」


セラは首を振った。


「名前が消された記録の中には、教団の旧式端末で処理されたものもある。けれど、処理者の署名がないの」


「署名がない?」


「普通なら、誰が記録を変更したか残る。少なくとも、当時の管理規則ではそうだった」


セラは帳簿を閉じた。


「なのに、この記録には、名前を削除した痕跡だけが残っている。処理者がいないのか、処理者の記録まで消されたのか、それとも別の仕組みが動いたのか……」


「また、わからないか」


ガルドが苛立たしげに言う。


「今のところはね」


セラは、あっさり認めた。


「でも、わからないからこそ、記録を分けて考える必要があるわ」


彼女は三枚の紙片を並べた。


「一つ目。実際に施設へ移送された記録。二つ目。名前が削除された記録。三つ目。現在の管理網に登録されていない人々の記録」


「それぞれが同じとは限らない、ということか」


シンが言った。


「そう。移送された人全員が行方不明になったわけではないし、記録から名前が消えた人全員が地下へ来たわけでもない」


「けど、重なっている人間がいる」


「ええ」


セラは、シンを見た。


「その重なりが、今回の事件の手がかりになる」


シンは記録を見下ろした。


数字。


日付。


処置区分。


移送先。


それらは、ひどく整然としている。


人間の人生を表す記録としては、あまりにも整然としすぎていた。


誰かが病気になった。


誰かが家族を失った。


誰かが、自分の名前を忘れた。


誰かが、自分の名前を持つことさえ教えられなかった。


その一つ一つが、紙の上では一行にまとめられている。


そして、その一行から名前を消せば、その人が何者だったのかを探す手がかりは急激に減ってしまう。


「……名前が消されても、番号は残っているんだな」


シンが言った。


「そうね」


「なら、番号を追えばいい」


マレナが頷く。


「だから、移送番号を照合しているの。施設が移転していたとしても、番号の形式がわかれば、旧式の地図から位置を推測できる可能性がある」


彼女は古い地図を広げた。


光冠都市の現在の地図とは、かなり違っている。


今では広場になっている場所に、かつては施設があった。


現在の市場の下には、旧式の水路が走っている。


そして、街の北側には、現在の地図から消された区画が描かれていた。


「ここが第七治療区の候補地よ」


マレナが指したのは、中央聖堂から北東へ伸びる旧市街だった。


「今は何があるんだ?」


「地上には倉庫と行政施設。地下は、一部が封鎖されている」


「教団が封鎖しているのか?」


「公式には、地盤の劣化による立入禁止区域よ」


ガルドが鼻を鳴らした。


「便利な言葉だね。立入禁止にしておけば、誰も何があるか調べない」


「実際に地盤が危険な可能性もあるわ」


セラは、冷静に言った。


「そこを確かめる前に、教団が嘘をついていると決めつけるわけにはいかない」


「わかってるよ」


ガルドは腕を組んだ。


「でも、今までの話を聞けば、疑いたくもなるだろう」


「それもわかる」


セラは言い返さなかった。


彼女もまた、教団を信用していない。


それでも、疑うことと、事実を確かめることは違う。


シンは、地図の封鎖区画を見つめた。


「そこへ行こう」


「今すぐ?」


マレナが尋ねた。


「まだ情報が足りないわ。地下の人たちを動かす準備も必要だし、封鎖区域の警備状況もわからない」


「なら、情報を集めながら準備する」


シンは答えた。


「ただし、先に一つだけ確かめたい」


「何を?」


「この移送記録に書かれている子供たちが、今も生きている可能性があるかどうか」


部屋が静かになった。


リナが顔を上げる。


ミも、人形を抱いたままシンを見た。


セラは、しばらく考えてから答えた。


「……あるわ」


「本当か?」


「記録の最後に、死亡処理がされていない人がいる。移送後の情報が途切れているだけで、生死が確認できていない」


「なら、探そう」


シンは、はっきりと言った。


「リナの過去を知るためだけじゃない。ここにいる人たち以外にも、記録から消された人がいるかもしれない」


ガルドは、彼を見つめた。


「また、全部背負うつもりかい?」


「違うよ」


シンは首を振った。


「俺一人で全員を救えるなんて思ってない。でも、探せるのに探さない理由にはならない」


ガルドは、しばらく黙っていた。


やがて、短く息を吐く。


「……なら、無茶をする前に相談しな」


「ああ」


「本当にわかってるんだろうね?」


「努力する」


「そこは、わかってるって言いな!」


地下の作業部屋に、わずかな笑い声が起きた。


ほんの一瞬だった。


けれど、その笑い声を聞いたリナが、少しだけ表情を緩めた。


名前を消された人々。


記録から外された人々。


その中には、まだ帰ってこられる人がいるかもしれない。


そう考えるだけで、未来が少しだけ開けた気がした。


しかし、マレナは笑っていなかった。


彼女は地図を見つめたまま、指先で封鎖区域の境界をなぞっていた。


「……おかしいわ」


「今度は何だい?」


ガルドが尋ねる。


「第七治療区の位置よ」


「さっき、ここだと言っただろう?」


「ええ。でも、この地図が正しいなら、施設は現在の中央聖堂よりも古い」


マレナは、別の地図を重ねた。


「ところが、移送記録には、中央聖堂が完成した後の日付があるの」


シンは地図を見た。


「つまり?」


「この施設は、中央聖堂が建つ前から、同じ場所に存在していた可能性がある」


「古い施設を、後から聖堂の下に組み込んだってことか?」


「そう考えれば説明できる。でも、なぜそんなことをしたのかはわからない」


マレナは、地図の中心に描かれた白い円を指した。


「そして、この円は、今の聖堂の地下構造とよく似ている」


シンの背筋に、冷たいものが走った。


零号観測計画。


第二対象。


記録の固定解除。


そして、古い接続試験。


それらが、すべて中央聖堂の地下へつながっているのだとしたら。


白冠教団は、街を守るために古い仕組みを利用しているだけなのか。


それとも、教団そのものが、古い仕組みの一部を引き継いでいるのか。


「……最深部」


シンは呟いた。


セラが顔を上げる。


「何?」


「ヴァイスが調べている場所だ。あそこに、何か手がかりがあるかもしれない」


「でも、今は近づけないわ」


「わかってる」


シンは地図を畳んだ。


「だから、まずは第七治療区を調べる。そこから最深部へつながる道が見つかるかもしれない」


マレナは、頷いた。


「それがよさそうね」


だが、彼女が地図をしまおうとした瞬間、紙の端に小さな文字が見えた。


今まで誰も気づかなかった、薄い記載。

移送対象は、施設到着後、識別名を再設定すること。


その下には、さらに小さな文字が続いていた。

旧識別名は保存対象としない。


シンは、目を細めた。


「……旧識別名は保存対象としない?」


マレナの手が止まる。


セラが、ゆっくりと顔を上げた。


ガルドの表情から、先ほどの笑みが消えた。


名前を消された人々。


その名前を消すことが、最初から施設の規則として組み込まれていた。


つまり、名前の削除は単なる記録整理ではなかった。


少なくとも、名前を保存しないという方針は、意図的に定められていたのだ。


リナが、小さく呟いた。


「……じゃあ、私の名前も?」


誰も、すぐには答えられなかった。


シンは、彼女の前にしゃがみ込んだ。


「リナ。今の記録が正しいかどうかは、まだわからない」


「でも……」


「確かめよう」


シンは、彼女の目を見た。


「君の名前が何だったのか。どうして消されたのか。そして、君がこれから何と呼ばれたいのか。その全部を、君自身が選べるように」


リナは、唇を引き結んだ。


そして、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


彼女は胸元の輝石に触れた。


透明な石は、光らなかった。


けれど、彼女の手は、もう震えていなかった。


3 誰もいないはずの施設

旧市街の北東。


封鎖された区画を、二人の白衛兵が巡回していた。


街の中心から離れたこの場所には、市場の喧騒も、朝の鐘に合わせて歩く人々の姿もない。


白い壁は古く、ところどころにひびが入っている。


路地の入口には立入禁止の標識が置かれ、建物の窓は白い板で塞がれていた。


その地下に、古い施設が眠っている。


少なくとも、地図上ではそうなっていた。


「……異常なし」


一人の衛兵が、手元の記録石を確認した。


もう一人は、周囲を見回している。


「最近、この辺りの巡回が増えたな」


「地下区画で騒ぎがあったらしい」


「地下?」


「未登録者が集まっていたとか」


「またか。どうしてああいう連中は、わざわざ危険な場所に住みたがるんだ」


「さあな。地上にいれば、教団の保護を受けられるのに」


二人は、封鎖区画の入口を通り過ぎた。


そのとき。


地下から、ごく小さな音がした。


こつ。


衛兵の一人が立ち止まる。


「……今、何か聞こえなかったか?」


「何が?」


「地下から音がした」


二人は、入口へ戻った。


封鎖扉には、白冠教団の管理印が刻まれている。


施錠は正常。


結界も正常。


地下から誰かが出入りした記録はない。


「気のせいだろ」


もう一人が言った。


「この下には、何もない。古い水路と、崩落した施設だけだ」


衛兵は、扉に手を置いた。


冷たい。


そして、かすかに震えていた。


彼は手を離した。


「……報告しておこう」


二人は巡回路へ戻った。


誰もいなくなった入口で、白い管理印が一度だけ明滅した。


扉の向こうから、声がした。


「……番号、確認」


別の声が続く。


「……識別名、未登録」


さらに、もう一つ。


「……観測対象、照合不能」


静寂。


やがて、最後の声が響いた。


「記録を継続します」


扉は開かなかった。


中に誰かがいるのか。


古い装置が動いているだけなのか。


それは、外からはわからなかった。


ただ、封鎖された施設の地下では、今も何かが記録を続けていた。


4 記録を持つ者

「その施設へ行く前に、会ってほしい人がいる」


マレナが言った。


地下区画の作業部屋。


シンたちは、旧治療施設へ向かうための準備を進めていた。


しかし、マレナは地図を見つめたまま、まだ出発の許可を出そうとしなかった。


「誰だ?」


セラが尋ねる。


「元・記録管理官。名前はヨルン」


「教団の人間か?」


「昔はね。今は、地下区画にもあまり顔を出さない。自分が何をしたのか、ずっと悩んでいる人よ」


「名前を消した人間か」


ガルドが言った。


マレナは頷いた。


「直接、削除処理をしたわけではない。でも、記録の移送や分類に関わっていた。旧治療施設の帳簿を扱ったこともある」


「なら、最初からそう言えばよかったのに」


「彼が話してくれるとは限らなかったから」


マレナは、目を伏せた。


「ヨルンは、昔、自分が担当した記録を見せてほしいと頼まれても、断り続けていたの。自分が関わった仕事の結果を知るのが怖かったんだと思う」


シンは、少しだけ眉を寄せた。


「……それでも、聞く必要があるんだな」


「ええ。記録の仕組みを知っている人間は、今ではほとんど残っていないから」


彼らは地下区画の奥へ向かった。


通路は、貯水施設からさらに下へ続いていた。


途中から壁の材質が変わる。


石壁ではなく、白い鉱物を混ぜたような滑らかな素材。


古い刻印が、ところどころに残っている。


シンは、壁に手を触れた。


微かな振動があった。


けれど、今までの同期網とは違う。


鐘のように規則正しいものではない。


生き物の呼吸に似た、不揃いな振動だった。


「どうした?」


セラが尋ねる。


「……この壁、何かに反応している気がする」


「また輝石か?」


「いや。もっと、別の……」


シンは言葉を探した。


「遠くから聞こえる音を、壁が覚えているような感じだ」


マレナが足を止めた。


「音を覚えている?」


「ああ。俺が触れたことで反応したというより、前からここにあった振動が、今になって聞こえてきたような……」


シンは、首を振った。


「うまく説明できない」


「無理に説明しなくていいわ」


マレナは、壁を見た。


「この場所は、教団の古い施設の一部だった可能性がある。今の技術では説明できない構造があっても不思議じゃない」


「そういうものなのか?」


「そういうものがある、ということしかわからないのよ」


彼女は苦笑した。


「少なくとも、私はそういうものを見てきたわ」


通路の先に、小さな部屋があった。


扉は半分開いている。


中には、古い机と椅子、記録板、そして一人の老人が座っていた。


痩せた男だった。


髪は白く、指先には古い火傷の跡がある。


彼は、シンたちが入ってきても、すぐには顔を上げなかった。


机の上に、一枚の紙を置いている。


そこには、名前が書かれていた。


一つではない。


何十もの名前が、細かい字で並んでいた。


「ヨルン」


マレナが呼びかけた。


老人は、ゆっくりと顔を上げた。


「……来たのか」


「話を聞かせてほしいの」


「何をだ?」


「旧治療施設の記録について」


ヨルンは、机の上の紙を見た。


「また、その話か」


「あなたが知っていることを、教えてほしい」


「知っていることなど、もうほとんど残っていない」


「それでも、聞きたいの」


ヨルンは、しばらく黙っていた。


やがて、シンを見た。


「お前が、零号か」


シンの表情が変わった。


「……どうして、それを?」


「記録を見た」


「どの記録です?」


「古い記録だ」


ヨルンは、机の上の紙を指で叩いた。


「ここにある名前は、すべて、かつて俺が扱った記録に関係している」


シンは紙を見た。


その中に、リナの名前はあるだろうか。


彼は探そうとした。


だが、ヨルンが紙を裏返した。


「先に聞いておきたい」


老人は、シンをまっすぐ見つめた。


「お前は、記録に名前があれば、その人間がそこにいたと信じるのか?」


シンは答えた。


「記録だけでは、断定できないと思います」


「では、名前が消えていたら?」


「その人がいなかったことにはならない」


「誰も、その人を覚えていなかったら?」


シンは、言葉に詰まった。


ヨルンは、静かに続けた。


「記録が消え、名前が消え、誰も覚えていない。それでも、その人間が生きていたという事実は変わらないのか?」


「……変わらないと思います」


「なぜだ?」


「記録がなくても、人は生きていたからです」


ヨルンは、目を閉じた。


「そうか」


彼は、しばらく動かなかった。


そして、机の引き出しから、小さな金属箱を取り出した。


箱には、古い管理印が刻まれている。


「これを見ろ」


箱の中には、薄い記録板が何枚も収められていた。


それぞれに、番号が刻まれている。


「これは、削除処理を行う前の記録だ。正式な帳簿からは消されたが、処理前の控えだけは残していた」


「なぜ、これを?」


セラが尋ねた。


ヨルンは、苦い顔をした。


「怖かったからだ」


「怖かった?」


「自分が何をしたのか、わからなくなるのが怖かった。だから、証拠を残した。自分が命令に従ったことも、誰かの名前を消したことも、忘れないためにな」


彼は箱をシンの前へ押し出した。


「だが、残しておけば、いつか誰かが見つける。そうなれば、俺は責任を問われる。だから、ずっと隠していた」


「……あなたは、名前を消したんですか?」


シンが尋ねる。


ヨルンは頷いた。


「一部はな」


「どうして?」


「命令だった」


「それだけですか?」


老人の目が、鋭くなった。


「それだけではない」


彼は、ゆっくりと言った。


「俺は、規則に従うことが正しいと思っていた。記録の不整合を直せば、管理網が正常になる。管理網が正常になれば、街の人々が守られる。そう信じていた」


ヨルンは、自分の手を見つめた。


「だが、ある日、記録から名前を消した子供の母親が、俺のところへ来た」


部屋の空気が変わった。


「母親は、自分の子供がどこへ行ったのか知りたがっていた。俺は、移送記録を調べた。だが、名前は消されていた。移送番号だけが残っていた」


「……それで?」


「俺は、記録がないと答えた」


ヨルンは、顔を上げなかった。


「母親は、何度も聞いた。名前がないなら、番号で探してくれと。どこへ移送されたのか、教えてくれと。俺は、できないと答えた」


「どうして、できなかったんですか?」


「……できなかったのではない」


ヨルンの声が震えた。


「やらなかったんだ」


シンは、何も言えなかった。


「俺は、命令に従った。規則に従った。そうすれば、誰かが責任を取ってくれると思っていた。だが、誰も責任を取らなかった。記録は正常だと報告され、母親は帰っていった」


老人は、拳を握った。


「それから、俺は名前を消す仕事をやめた。だが、やめたからといって、消した名前が戻るわけじゃない」


彼は箱を見た。


「だから、これを残した」


シンは、金属箱の中にある記録板を見つめた。


その中に、リナの名前があるかもしれない。


彼女の過去を知る手がかりがあるかもしれない。


しかし、それを知るためには、誰かが名前を消したという事実を直視しなければならない。


シンは、箱を閉じなかった。


「……見せてください」


ヨルンは頷いた。


「わかった」


そして、老人は一枚の記録板を取り出した。


そこには、こう記されていた。

対象名:リナ

旧識別番号:不明

輝石反応:透明

処置区分:零号観測候補

移送先:第七治療区

付記:対象の自己認識に関する記録は、保存対象外とする。


シンの目が止まった。


「自己認識に関する記録……?」


ヨルンは、苦しそうに頷いた。


「そうだ」


「それは、どういう意味ですか?」


「その子が自分をどう認識しているか。何を覚えているか。何を自分の名前だと思っているか。そういう情報は、記録に残さないという意味だ」


リナが、息を呑んだ。


「……どうして?」


ヨルンは、少女を見た。


その目には、恐れと後悔が浮かんでいた。


「わからない。俺は、命令の理由までは知らなかった」


「でも、記録を消したんでしょう?」


セラの声は冷たかった。


「あなたは、何も知らなかったわけじゃない」


「その通りだ」


ヨルンは、反論しなかった。


「俺は、知らないことを理由にして、知ろうとしなかった」


その言葉に、セラは口を閉じた。


シンは、記録板を見つめた。


リナの自己認識。


彼女が自分を何者だと思っているか。


彼女が何を覚えているか。


彼女が何という名前を選ぶか。


それらは、記録されるべきではないと判断されていた。


なぜだ。


どうして、そこまでして、本人の認識を記録から外す必要があったのか。


シンは、ヨルンを見た。


「この記録を消すよう命じたのは、誰ですか?」


ヨルンは、しばらく黙っていた。


やがて、記録板の端を指差した。


そこには、命令者の署名があるはずだった。


しかし、署名欄には、名前がなかった。


代わりに、古い管理印が刻まれている。


白冠教団の印ではない。


現在の教団が使うものより、はるかに古い形式だった。


「……これを見ろ」


ヨルンが言った。


「俺は、これが誰の印なのか知らなかった。上層部の人間に尋ねても、答えてもらえなかった。ただ、命令は有効だとだけ言われた」


シンは、管理印を見つめた。


その形は、どこか見覚えがあった。


古い接続試験の記録。


零号観測計画。


逆流防止。


それらの資料に残されていた印と、よく似ている。


同じものなのか。


それとも、似た形式を使っているだけなのか。


まだ断定できない。


だが、少なくとも、この記録を扱っていた者たちは、現在の白冠教団だけではなかった可能性がある。


「……ヨルンさん」


シンは、静かに尋ねた。


「この印について、ほかに何か知っていることはありませんか?」


ヨルンは首を横に振った。


「ひとつだけ」


「何ですか?」


「この印が使われる命令には、必ず同じ注意書きがついていた」


老人は、記録板を裏返した。


そこに、小さな文字が刻まれていた。

記録は対象を保存するためのものであり、対象そのものではない。


シンは、その文を読んだ。


そして、思わず呟いた。


「……そんなこと、わかっているはずなのに」


ヨルンは、静かに答えた。


「わかっていることと、実際に守れることは違う」


その言葉は、シンの胸に深く残った。


5 記録の中の少女

ヨルンは、箱からさらに数枚の記録板を取り出した。


「リナの記録は、これだけじゃない」


彼は、記録板を一枚ずつ机に並べた。


「同じ移送番号で照合すると、ほかにも関連記録が見つかる。ただし、名前はない。年齢も不明。家族関係も不明。どこで生まれたのかもわからない」


「それでも、関連記録だとわかるんですか?」


「輝石の反応と、処置区分が一致しているからだ」


シンは、記録板を見た。


そこには、断片的な情報が残っていた。

対象は、他者の輝石反応に対して不規則な応答を示す。


別の記録には、こうある。

対象の反応は、既存の色相分類に適合しない。


さらに別の記録には、こう書かれていた。

対象が自己を特定の識別名で呼んだ場合、周辺の観測値に変化が生じる可能性がある。


シンは、息を止めた。


「……名前を呼ぶと、観測値が変わる?」


「そう記録されている」


ヨルンは答えた。


「だが、何が起きるのかまではわからなかった。記録には、観測値の変化があったとしか書かれていない」


「それで、自己認識の記録を消したんですか?」


「そうかもしれない。だが、命令の理由は不明だ」


シンは、記録板を並べ直した。


この施設では、リナの名前だけでなく、彼女が自分をどう認識しているかまで、記録対象から外されていた。


それは単なる管理のためなのか。


彼女の能力を調べるためなのか。


あるいは、彼女が自分自身を認識することで、何かが変わることを恐れていたのか。


まだ、何もわからない。


しかし、ひとつだけ、確かなことがある。


リナは、自分の名前を自分で選んだ。


その瞬間、古い装置が反応した。


そして、記録の固定を解除するという文字が現れた。


この二つが無関係だと考えるには、あまりにも似ていた。


「リナ」


シンは、少女に尋ねた。


「君は、自分の名前を選ぶ前に、何か覚えていることはない?」


リナは、少し考えた。


「……暗い部屋」


「暗い部屋?」


「うん。白い壁があって、椅子があって、誰かが私に何かを聞いていた」


「何を聞かれたんだ?」


「わからない。でも、何度も同じことを聞かれた」


「同じこと?」


リナは目を閉じた。


「……あなたは誰ですか、って」


シンの表情が変わった。


「君は、何と答えたんだ?」


「最初は、わからないって答えたと思う」


「そのあとは?」


「……覚えてない」


リナは、胸元を押さえた。


「でも、誰かが怒っていた気がする。私が、違う答えをしたから」


「違う答え?」


「うん」


リナは、苦しそうに眉を寄せた。


「本当は、何て答えたのか、わからない。でも、あの人は、私が言ったことを嫌がっていた」


シンは、彼女にこれ以上思い出させようとはしなかった。


無理に記憶を引き出そうとすれば、彼女を傷つけるかもしれない。


何より、彼女が思い出すことを望んでいるのかどうか、確かめる必要がある。


「今は、思い出さなくていい」


シンは言った。


「……いいの?」


「うん。知りたくなったら、少しずつ調べよう」


リナは、ほっとしたように息を吐いた。


だが、その会話を聞いていたヨルンは、青ざめていた。


「……まさか」


「何ですか?」


シンが尋ねる。


ヨルンは、記録板を一枚取り上げた。


「この記録には、対象への質問内容が残されていない。だが、処置の手順には、同じ質問を繰り返すという記載があった」


「何と聞くんです?」


ヨルンは、紙面を見つめた。


「……あなたは誰ですか、と」


部屋が静まり返った。


リナは、シンの背後へ半歩下がった。


ヨルンは、続けた。


「対象が自分をどう認識しているかを調べるため、同じ質問を繰り返したらしい。だが、なぜそれが必要だったのかはわからない」


「それで、リナは何と答えたんですか?」


セラが尋ねた。


「記録には残っていない」


「記録に残っていないんじゃなく、残さないようにしたんでしょう?」


「……そうかもしれない」


ヨルンは、苦しそうに答えた。


「だが、今の話を聞く限り、彼女は何かを答えたのだろう」


シンは、リナを見た。


少女は、壊れた人形を抱きしめている。


名前を選ぶ前に、誰かから何度も問われた。


あなたは誰ですか。


その質問に、彼女は何と答えたのか。


その答えを、誰かは記録しなかった。


あるいは、記録から消した。


シンの中で、怒りがゆっくりと形になった。


「……人を調べるために、本人の答えを消すなんて」


彼は呟いた。


「それじゃ、何のために聞いたんだ」


ヨルンは答えなかった。


答えられなかったのかもしれない。


シンは、記録板を握りしめそうになり、手を止めた。


怒りに任せて、記録を壊してはいけない。


ここに残された情報は、リナの過去を知るための手がかりだ。


誰かの責任を追及するための証拠でもある。


そして、今度こそ、彼女自身が自分の過去を知るために使えるものなのだ。


シンは、記録板を丁寧に机へ戻した。


「……この記録は、リナに渡します」


ヨルンが顔を上げる。


「いいのか?」


「もちろん。彼女のことが書かれているんだから」


「だが、危険かもしれない」


「危険かどうかを調べるのは、俺たちです。でも、彼女が自分の記録を見るかどうかは、彼女が決めることです」


ヨルンは、しばらくシンを見つめていた。


そして、ゆっくりと頷いた。


「……そうだな」


彼は記録板を箱に収めた。


「今度こそ、俺は名前を隠さない」


その言葉に、セラが目を伏せた。


彼女もまた、過去に命令へ従った人間だった。


誰かの記録を守るために、誰かの命を危険にさらした。


それでも、過去をなかったことにはできない。


だからこそ、これから何をするかを選ばなければならない。


シンは、箱を受け取った。


その重さは、見た目よりもずっと大きかった。


6 追跡の始まり

部屋を出た瞬間だった。


シンの足が止まった。


「……待って」


ガルドが振り返る。


「どうした?」


シンは、通路の壁に手を触れた。


振動がある。


先ほどよりも、はっきりしていた。


規則正しい。


一定の間隔で、遠くから近づいてくる。


「何かが、こっちへ向かっている」


セラの顔が険しくなる。


「足音?」


「いや……足音もある。でも、それだけじゃない」


シンは、目を閉じた。


壁の向こうを、複数の振動が流れている。


地下水路を伝わる水の動き。


導光石の微かな振動。


遠くの鐘楼から届く、白い同期網の周期的な波。


その中に、異質な振動が混ざっていた。


複数の輝石が、同じ拍子で反応している。


それぞれの人間が持つはずの、個別の振動。


それが、ひとつの大きな波にまとめられていた。


「……管理網が、何かを探している」


シンは目を開けた。


マレナが顔を強張らせる。


「そんなはずは……」


「どうしたんだい?」


ガルドが尋ねた。


「白の同期網が、地下区画の位置を再走査しているのよ」


「さっきも、そんな話をしていたじゃないか」


「違うわ。今の反応は、もっと広い範囲を対象にしている」


マレナは、壁に手を当てた。


「地下区画の場所だけじゃない。ここにいる人々の輝石反応を、まとめて拾い上げている」


セラが息を呑んだ。


「……全員を?」


「ええ」


「そんなことをしたら、どこに隠れていても見つかるじゃないか」


「だから、まずは同期網から離れなければならない」


マレナは、急いで部屋へ戻った。


「ここにいては危険よ。古い水路の中には、白の同期網が届きにくい場所がある。そこへ移動しましょう」


「待ってくれ」


シンが言った。


「どうして急に、追跡が始まったんだ?」


「わからない」


マレナは首を振った。


「地下の装置が信号を送ったからかもしれない。リナの輝石が反応したからかもしれない。あるいは、教団が別の理由で探索範囲を広げたのかもしれない」


「また、わからないことばかりだな」


ガルドが低く言った。


「ええ。でも、ひとつだけ確かなことがある」


マレナは、シンを見た。


「今、ここにいる人たちが、追跡対象になっている」


その言葉と同時に、地下のどこかで警報が鳴った。


甲高い音だった。


一度。


二度。


三度。


住民たちが、一斉に動き始める。


子供を抱き上げる母親。


荷物を背負う老人。


壁際に隠していた食料を運ぶ青年。


誰もが、慣れた手つきで避難の準備を始めた。


その様子を見て、シンは胸が痛くなった。


彼らは、こうした事態に慣れている。


何度も、見つかりそうになったのだろう。


何度も、逃げなければならなかったのだろう。


この場所が、彼らにとっての家であるにもかかわらず。


「シン」


セラが呼ぶ。


「子供たちを先に避難させる。あなたは私と一緒に、東側の水路へ向かって」


「わかった」


「ガルドは?」


ガルドは、拳を鳴らした。


「追っ手を引きつける」


「待て、ガルド」


シンが言った。


「一人で相手をするつもりか?」


「誰が一人だって言った?」


ガルドは、口元を吊り上げた。


「ここには、私のほかにも腕っぷしの立つ人間がいる。全員で戦う必要はないけど、全員で逃げる必要もない。追っ手を別の通路へ誘導すれば、子供たちが逃げる時間を稼げる」


「でも……」


「シン」


ガルドの声が、少しだけ低くなった。


「さっき、自分一人で全部背負うつもりはないって言ったね」


「ああ」


「だったら、あんたも私に任せな」


シンは、言葉を失った。


ガルドは、いつもそうだ。


誰かを助けるために危険を引き受けることを、彼女は否定しない。


だが、誰かが自分を犠牲にすることを、無条件に美しいとも思っていない。


生き残った者には、生き残った者の責任がある。


だからこそ、彼女は今、追っ手を引きつけようとしている。


自分が戦うことで、他の人間が逃げられるなら。


それは、無意味な自己犠牲ではない。


少なくとも、そうなるように戦うつもりなのだ。


「……無茶はするなよ」


シンが言うと、ガルドは笑った。


「誰に言ってるんだい?」


「ガルドにだよ」


「なら、心配する相手を間違えてるね」


彼女は背を向けた。


「私より、そっちの子供たちを頼んだよ」


シンは、頷いた。


「……わかった」


ガルドは、地下の分岐路へ走っていった。


その背中が闇に消える。


シンは、リナとミを見た。


二人は、互いの手を握っている。


リナの手は、少しだけ震えていた。


「シン……」


「大丈夫」


彼は、そう言いかけて、口を閉じた。


大丈夫だと断言できる状況ではない。


だから、別の言葉を選んだ。


「一緒に逃げよう」


リナは頷いた。


「うん」


ミも、強く頷く。


「私、走れるよ」


「よし。じゃあ、セラの指示に従ってくれ」


シンは、二人の手を離さないようにしながら、避難路へ向かった。


背後で、警報が鳴り続けていた。


白い網が、人々を探している。


そして、その網の中で、彼らはまだ、名前を持つ人間として扱われていなかった。


7 白い網の正体

避難路は、地下水路のさらに奥にあった。


古い貯水区画から南へ伸びる通路。


現在の街の地図には存在せず、白冠教団の巡回路からも外れている。


だが、通路の壁には、白い鉱物が細く埋め込まれていた。


セラは、それを見て足を止めた。


「……ここにも、同期網の導線がある」


「ここは管理網の外側じゃないのか?」


シンが尋ねる。


「完全な外側ではないわ。古い水路の一部には、昔の同期網が残っている。今の管理網とは接続されていないはずだけど……」


セラは壁の鉱物に手を触れた。


白い光が、指先の下を走った。


「そんな……」


「どうした?」


「この導線、動いている」


「つまり?」


「管理網が、古い水路まで信号を送っているのよ」


シンは、壁に手を当てた。


振動が伝わってくる。


今度は、はっきりとわかった。


白の同期網は、個々の輝石を別々に追っているのではない。


街の中にある輝石の反応を、ひとつの大きな網として扱っている。


一人ひとりの反応は、個別の情報として管理されている。


だが、追跡の段階では、その反応をまとめて処理している。


人間を、一人ずつ探すのではない。


まず、輝石の反応が集まっている場所を探す。


そこにいる人間を、後から特定する。


だから、地下区画の住民たちは、どこに隠れていても見つかる可能性がある。


「……これじゃ、逃げても見つかる」


シンは呟いた。


「ええ」


セラが答える。


「少なくとも、同じ輝石反応を保ったままならね」


リナが、不安そうに胸元を押さえた。


「私も、見つかるの?」


シンは、彼女を見た。


「……今のままだと、可能性はある」


「じゃあ、どうすればいいの?」


シンは壁の振動に意識を集中させた。


白の同期網。


街中の輝石の反応。


そのひとつひとつが、異なる振動を持っている。


赤い輝石は、熱を帯びた鋭い振動。


青い輝石は、流れる水のような揺らぎ。


緑の輝石は、ゆっくりと広がる波。


そして、白の同期網は、それらをひとつの拍子へ整えている。


だが、整えることと、同じものにすることは違う。


シンは、そこに可能性を見た。


「……反応を隠すんじゃなくて、追跡の基準をずらせばいい」


セラが振り返る。


「どういうこと?」


「管理網は、複数の輝石反応をまとめて追っている。なら、その反応のまとまり方を変えれば、どこにいるのか特定しにくくなるはずだ」


「そんなことができるの?」


「試してみないとわからない」


シンは、壁に両手を当てた。


音を探す。


振動を探す。


白の同期網が発する、一定の拍子。


その拍子に合わせて、シンは自分の力を流した。


強引に遮断するのではない。


破壊するのでもない。


網の中にある、わずかなずれを探す。


そのずれを広げ、別の反応と重ねる。


まるで、複数の楽器が演奏する曲の中で、一つの音を別の音に紛れ込ませるように。


白い鉱物が、淡く光った。


セラが息を呑む。


「……光が、変わった」


シンは、歯を食いしばった。


難しい。


自分の力を使うだけなら、まだいい。


だが、これは街全体の網に触れている。


一つの反応をずらせば、別の場所に影響が出るかもしれない。


誰かの輝石を不安定にしてしまうかもしれない。


だから、力任せにはできない。


シンは、網の中で重なっている反応を一つずつ確かめた。


子供たちの輝石。


老人たちの輝石。


地下区画の住民たちの輝石。


それらを、別々のままにする。


違いを消すのではなく、違いを保ったまま、追跡のためのまとまりから外す。


その瞬間、白い鉱物の光が一斉に弱まった。


壁の向こうで、何かが震えた。


そして、遠くから響いていた追跡の振動が、ほんのわずかに乱れた。


「……できたの?」


セラが尋ねた。


「一時的に、追跡信号をずらせたと思う」


シンは、息を吐いた。


「でも、長くは持たない。管理網が別の方法で再走査すれば、また見つかる」


「それでも、十分よ」


セラは、子供たちを見た。


「この時間で、避難路を確保できる」


リナは、シンの手を見つめていた。


「シンは、白い網を壊さなかったんだね」


「ああ」


「どうして?」


シンは、少し考えた。


「この網が、悪いことだけをしているわけじゃないから」


「……そうなの?」


「うん。街の人たちを守っている部分もある。だから、全部を壊せば、別の人たちが困るかもしれない」


シンは、壁に手を置いたまま答えた。


「でも、守るための仕組みが、君たちを見つけて、無理やり連れていくために使われるなら、その使い方は変えなきゃいけない」


リナは、しばらく黙っていた。


やがて、小さく頷いた。


「……難しいね」


「そうだな」


シンは笑った。


「俺も、まだよくわからない」


セラが、二人の間に割って入った。


「感想会はあと。追跡信号が乱れたなら、向こうも異常に気づくはずよ」


「そうだった!」


シンは慌てて手を離した。


ガルドがいない今、追っ手を引きつけている時間は限られている。


シンたちは、再び避難路を進み始めた。


その背後で、白い鉱物の光がゆっくりと戻っていく。


網は壊れていない。


追跡機能も、完全には止まっていない。


ただ、ほんの短い時間だけ、地下に暮らす人々の反応が、その網の中で見えにくくなった。


それだけだった。


だが、そのわずかな時間が、彼らにとっては命綱になり得る。


そして、シンは気づいていなかった。


彼が追跡信号をずらした瞬間、地下の古い接続構造にも、かすかな変化が起きていたことに。


街の管理網とは別の、もっと古い仕組み。


そこに残された記録の一部が、ほんの一瞬だけ、読み取り可能な状態になっていた。


それは誰かが意図的に動かしたものなのか。


古い機構が自動的に反応しただけなのか。


まだ、誰にもわからない。


8 消された名前の一覧

避難路の先には、小さな空洞があった。


天井から根が伸び、床には浅い水が流れている。


ここなら、しばらくの間、管理網の直接的な追跡を避けられる。


セラは、子供たちを壁際に座らせた。


「ここで少し待っていて。大人たちが合流したら、次の場所へ移動するわ」


ミは、直したばかりの人形を抱きしめていた。


まだ片腕の縫い目は不格好だったが、以前よりもずっと形が整っている。


リナは、シンの隣に座った。


「……シン」


「ん?」


「私、昔の名前を知りたい」


シンは、彼女を見た。


「うん」


「でも、怖い」


「……そうだな」


「もし、昔の私が、今の私と違ったら?」


シンは、すぐには答えなかった。


リナは、続けた。


「もし、昔の私は、リナじゃなかったら。もし、今の私が覚えていないことを、昔の私は覚えていたら。もし、昔の私が、今の私とは違うことを考えていたら……」


彼女は、胸元の輝石に触れた。


「私は、どっちが本当の私なの?」


シンは、静かに息を吐いた。


難しい質問だった。


記憶が変われば、人は変わる。


考え方が変われば、人は変わる。


過去の自分と、今の自分が、まったく同じとは限らない。


けれど、変わったからといって、過去の自分が嘘になるわけでもない。


「……どっちも、君なんじゃないかな」


シンは答えた。


リナが顔を上げる。


「どっちも?」


「ああ。昔の君が何を考えていたのか、俺にはわからない。でも、今の君がここにいることは確かだ。昔の君がどうだったとしても、今の君が選ぶことまで、昔の君に決められるわけじゃない」


「でも、昔のことを知らないままでいいの?」


「知らないままでいいかどうかも、君が決めていい」


シンは、リナの手元にある記録板を見た。


「知りたいなら、一緒に調べよう。知りたくないなら、無理に調べなくてもいい。どっちを選んでも、君が君であることは変わらないと思う」


リナは、しばらく黙っていた。


やがて、記録板を握りしめた。


「……知りたい」


「うん」


「怖いけど、知りたい」


「わかった」


シンは頷いた。


「じゃあ、一緒に調べよう」


リナは、小さく笑った。


そのとき、セラが戻ってきた。


「シン。マレナから連絡があったわ」


「どうした?」


「ヨルンの記録板を調べた結果、移送対象の一覧が見つかったそうよ」


「一覧?」


「ええ。旧治療施設へ送られた人たちの名前と、移送番号の対応表。かなりの数があるらしい」


シンは立ち上がった。


「それなら、ほかの子供たちの行方もわかるかもしれない」


「そうね。ただし、すべての名前が残っているわけではないそうよ」


「消された名前もあるのか」


「ええ」


セラは、少しだけ声を落とした。


「そして、その一覧には、もう一つ奇妙なことがあった」


「何?」


「同じ人物に、複数の識別名が割り当てられている例があるの」


シンは眉を寄せた。


「複数の名前?」


「ええ。ある記録では、一人の人間として登録されているのに、別の記録では、別の名前で登録されている。移送番号は一致しているけれど、名前が違う」


「単なる記録ミスじゃないのか?」


「最初はそう考えた。でも、同じような例が複数あるらしい」


セラは、記録板を差し出した。


そこには、二つの名前が並んでいた。


同じ移送番号。


同じ処置区分。


同じ輝石反応。


しかし、名前だけが違う。


「……どういうことだ?」


シンは呟いた。


「名前を変えられたのか。それとも、別の人間の記録が混ざっているのか」


セラは首を振った。


「まだわからない」


シンは、記録板を見つめた。


人間の名前を消す。


名前を変える。


複数の名前を割り当てる。


その違いは、単なる記録の不整合ではないのかもしれない。


誰かが、人間を管理するために、名前を使い分けている。


あるいは、名前と記憶と人格を、別々のものとして扱っている。


シンは、以前マレナが言った言葉を思い出した。


記録にある情報と、その情報が示す本人は同じではない。


もし、ある人間の記憶や話し方を記録できたとしても、それだけで本人が存在していることにはならない。


反対に、名前が変わったとしても、同じ人間が別人になったわけではない。


そのはずだ。


けれど、教団の記録では、その境界が曖昧になっている。


「……セラ」


「何?」


「この一覧、全部確認できるかな?」


「マレナが整理しているわ。時間はかかると思う」


「なら、急がないと」


「急ぐのはいいけれど、焦らないで」


セラは、彼を見た。


「記録に書かれていることを、そのまま真実だと考えないこと。書かれていないことを、存在しなかったと考えないこと。今回の調査では、それが一番大事よ」


シンは頷いた。


「わかってる」


「本当に?」


「……努力する」


セラは、呆れたように息を吐いた。


「まったく」


それでも、その声には少しだけ笑みが混じっていた。


9 もう一つの名前

その夜。


地下区画の人々が、避難先へ移動する準備を進めているころ。


リナは、シンから受け取った記録板を見つめていた。


古い文字。


見慣れない番号。


そして、自分の名前。


リナ。


彼女は、その文字を指でなぞった。


自分が、自分の名前を読める。


それだけのことが、どこか不思議だった。


昔から知っていた名前なのか。


誰かに与えられた名前なのか。


それとも、今の自分が選んだ名前と、たまたま同じだっただけなのか。


わからない。


けれど、わからないからこそ、知りたかった。


リナは、目を閉じた。


暗い部屋。


白い壁。


椅子。


誰かの声。


――あなたは誰ですか。


その問いが、記憶の底から浮かび上がる。


彼女は、答えようとした。


だが、声が出ない。


自分は誰なのか。


自分は何者なのか。


自分は、何と呼ばれていたのか。


その答えを探そうとすると、何かが邪魔をする。


記憶がないのではない。


記憶の手前で、何かに遮られているような感覚だった。


リナは、胸元の輝石を握った。


透明な石が、わずかに温かくなる。


その瞬間、耳の奥で、かすかな音がした。


『……識別名を確認』


リナは目を開いた。


誰もいない。


周囲の子供たちは眠っている。


大人たちも、避難の準備に疲れ、壁際で休んでいた。


それなのに、声は続いた。


『……旧識別名、照合不能』


リナは、息を止めた。


『……新規識別名、確認』


胸元の輝石が、淡く光る。


『……記録固定、解除待機』


声が途切れた。


リナは、しばらく動けなかった。


今の声は、誰のものだったのか。


古い装置の残響なのか。


記録板が反応したのか。


それとも、自分の記憶が作り出したものなのか。


わからない。


ただ、ひとつだけ。


その声は、彼女を「リナ」と呼んだわけではなかった。


新しい識別名。


そう呼んだ。


リナは、記録板を胸に抱いた。


「……私は、リナ」


小さく呟く。


誰かに聞かせるためではない。


誰かに認めてもらうためでもない。


自分が、そう呼ばれたいから。


「私は、リナ」


二度目は、少しだけはっきりと。


そのとき、記録板の端に刻まれた古い管理印が、淡く光った。


光は、ほんの一瞬で消えた。


誰も気づかなかった。


ただ、遠く離れた中央聖堂の地下で、古い記録装置が一つ、静かに起動した。


その画面に、短い文字が表示される。

新規識別名:確認

旧記録との照合:未完了

観測状態:継続


そして、最後に。

対象の自己認識を、記録へ反映しますか?


画面には、二つの選択肢が表示されていた。

はい

いいえ


誰も、その画面を操作していない。


それでも、選択肢の片方が、ゆっくりと点滅し始めた。


どちらが選ばれたのか。


それは、まだ誰にもわからない。


10 名前を探すということ

翌朝。


地下区画の人々は、二つの集団に分かれて避難を始めていた。


一方は、古い水路を通って、教団の管理網が届きにくい区域へ向かう。


もう一方は、地下の別区画に残り、追っ手を警戒しながら食料や水を守る。


マレナは、避難先の確保と記録の整理を担当していた。


ヨルンは、箱に保管していた記録板をすべて提供すると申し出た。


セラは、旧治療施設へ向かうための経路を調べている。


ガルドは、追っ手を引きつけたあと、無事に戻ってきた。


「……まったく、面倒な街だね」


ガルドは椅子に腰を下ろし、水を飲んだ。


「どうだった?」


シンが尋ねる。


「追っ手は、思ったより多かった。しかも、あいつら、地下区画の場所を探しているだけじゃなかった」


「どういうこと?」


「輝石の反応を追っていた。壁の向こうに何人いるか、どこに集まっているか、どの反応が移動しているか。そういう情報を、まとめて拾っていたように見えた」


シンは頷いた。


「やっぱり、白の同期網は、個々の輝石をまとめて追跡しているんだ」


「ああ。だから、単純に隠れるだけじゃ逃げ切れない。移動するたびに反応が変わるから、追跡される可能性がある」


「今後は、追跡信号をずらす方法を使う。ただし、長くは持たない」


「なら、別の方法も考えなきゃね」


ガルドは、腕を組んだ。


「それより、リナの記録はどうなった?」


シンは、机の上に置かれた記録板を見た。


「いくつか、わかったことがある。リナは第七治療区へ移送された可能性が高い。それから、彼女の自己認識に関する情報は、保存対象から外されていた」


「自分が誰なのか、何を覚えているのか。そういう情報を残さないようにしていたってことかい?」


「ああ」


ガルドの表情が険しくなる。


「……何のために、そんなことを」


「わからない。でも、名前を消すことが、施設の規則に組み込まれていたのは確かだ」


「人間を番号で管理するだけじゃ足りなかったのかね」


ガルドは、吐き捨てるように言った。


「自分が誰なのかまで、他人に決められるなんて」


シンは、何も言わなかった。


リナは、少し離れた場所でミと話している。


二人は、壊れた人形を直していた。


リナが布を押さえ、ミが糸を通す。


その手つきは、まだ不器用だった。


それでも、二人は諦めずに作業を続けている。


「……ガルド」


「何だい?」


「俺たちがやろうとしていることは、正しいのかな」


ガルドは、すぐには答えなかった。


「何をもって正しいとするかによるね」


「リナの過去を調べることも、地下の人たちを助けることも、教団の記録を暴くことも。全部、誰かの人生に関わることだ」


「そうだね」


「俺たちが正しいと思ってやったことが、誰かを傷つけるかもしれない」


ガルドは、シンを見た。


「それを怖がって、何もしないのかい?」


「……そういうわけじゃない」


「なら、やるしかないだろう。ただし、自分が正しいと思っていることを、相手にも押しつけないことだ」


彼女は、リナたちを見た。


「助けたいと思うのは、あんたの自由だ。でも、助けられる側が何を望んでいるのかを聞くのも、あんたの責任だ」


シンは、ゆっくりと頷いた。


「……そうだな」


「それに、失敗したら、やり直せばいい。失敗したことを隠して、最初から正しかったことにするのが、一番まずい」


ガルドは立ち上がった。


「私は、昔、それを何度もやったからね」


その声は、いつもの調子だった。


だが、シンには、彼女が自分の過去を思い出していることがわかった。


ガルドもまた、すべてを正しく選べたわけではない。


彼女は何度も間違えた。


そのたびに、誰かを傷つけたかもしれない。


それでも、今は自分の選択を見つめ直そうとしている。


シンは、彼女に言った。


「……ありがとう」


「礼を言うなら、次はちゃんと相談しな」


「わかった」


「本当に?」


「……努力する」


「だから、そこは断言しなって!」


二人のやり取りを聞いて、ミが笑った。


リナも、つられて笑った。


シンは、その笑顔を見て、少しだけ安心した。


すべての謎が解けたわけではない。


リナの過去も、旧治療施設の正体も、古い接続機構の目的も、まだわからない。


それでも、彼女たちは今、自分の名前を呼び、誰かと一緒に笑っている。


その事実は、記録に残っていなくても、確かにここにある。


シンは、机の上の記録板を手に取った。


その一枚一枚に、消された名前がある。


消された人生がある。


誰かが、存在しなかったことにしようとした人々がいる。


だからこそ、彼はそれを調べる。


誰かを裁くためだけではない。


失われたものを、すべて元に戻せると信じているからでもない。


ただ、知らないままにしておけば、同じことが繰り返されるかもしれないからだ。


「……行こう」


シンは、仲間たちへ声をかけた。


「第七治療区へ」


セラが頷く。


ガルドが剣を背負い直す。


マレナは記録をまとめ、ヨルンは最後に一枚の紙を箱へ収めた。


リナは、記録板を胸に抱いて立ち上がった。


「私も行く」


シンは、彼女を見た。


「本当にいいのか?」


「うん」


リナは、はっきりと答えた。


「私のことだから」


その言葉に、シンは頷いた。


「ああ。一緒に行こう」


地下の通路の先には、まだ見ぬ施設が待っている。


そこには、彼女の過去が残されているかもしれない。


そして、過去を記録した者たちが、何を恐れ、何を守ろうとしていたのか。


その答えが、待っているかもしれない。


しかし、彼らはまだ知らなかった。


旧治療施設の記録は、単に過去を保存するためだけに作られたものではない。


そこには、名前を消された者たちの記録と同時に、名前を変えられた者たちの記録も残されていた。


そして、その中には、まだ生きている人間の名前もあった。


記録から消された名前は、どこへ行くのか。


その答えを追う旅は、ようやく始まったばかりだった。


第二章第八話・了

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