↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無色の輝石使い  作者: 神代シン
第二章 拒絶の都

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/40

第七話 名前を持たない子供たち

1 名前を呼ばれない朝

「……リナ」


少女は返事をしなかった。


シンは歩みを止め、彼女を振り返った。


地下通路の天井から、細い水滴が落ちている。


壁に埋め込まれた古い導光石は半分以上が砕けており、残った光も頼りない。数歩先で道が折れ曲がり、その向こうには闇が口を開けていた。


リナは、シンの外套の裾を握っている。


片手には、壊れた人形。


もう片方の手は、胸元を押さえていた。


そこにある透明な輝石を、誰かに見られることを恐れるように。


「リナ?」


「……その名前」


ようやく返事があった。


「誰から聞いたの?」


「さっき、兵士たちが呼んでいた」


「そう」


「君の名前じゃないのか?」


リナは首を横に振った。


「それは、呼ばれていた音」


「音?」


「リナって。兵士さんが言っていた。お前がリナかって。だから、私はそうなんだと思う」


シンは、すぐには答えられなかった。


名前を知らないという話なら、理解できる。


記憶を失った人間もいる。生まれたときに名をつけられなかった者も、家族と離れて本名を忘れた者もいるだろう。


しかし、この少女は違った。


自分の名前を忘れたのではない。


自分が名前を持っているということ自体を、誰かに教えられなければ理解できないようだった。


「じゃあ、君は自分のことを何て呼んでいる?」


「私?」


「そう」


「……私、かな」


「それは名前じゃないよ」


「じゃあ、何?」


シンは言葉に詰まった。


自分を自分と呼ぶこと。


それは当たり前すぎて、普段なら説明しようとも思わない。


だが、目の前の少女は、その当たり前の手前に立っている。


「自分のことを、自分だってわかるための言葉……かな」


「それなら、私にもあるよ」


リナは少しだけ顔を上げた。


「私、は、私」


そう言ってから、彼女は不安そうに付け加えた。


「でも、私が私だって、誰が決めたの?」


地下通路の奥で、水が落ちる音がした。


シンは、答えられなかった。


背後からガルドの声が飛んでくる。


「シン、立ち止まってる場合じゃない。追っ手が来る前に隠れ場所を探すんだろ」


「ああ。わかってる」


「わかってる顔じゃないけどね」


「……少し考えていた」


「考えるのはあと。今はこの子を安全な場所へ連れていく」


ガルドはそう言って、リナの前にしゃがみ込んだ。


赤い髪の女戦士は、普段なら相手が誰であろうと遠慮なく睨みつける。だが、今は少女の目線に合わせ、できるだけ声を低くしていた。


「ねえ、あんた。歩ける?」


リナは頷いた。


「なら、私の後ろを歩きな。何があっても、勝手に走り出さない。わかった?」


「……はい」


「よし」


ガルドは立ち上がる。


その背中を見て、リナが小さく尋ねた。


「お姉さんは、名前があるの?」


「はあ?」


「ガルドっていうのが、お姉さんの名前?」


「そうだよ」


「誰が決めたの?」


「親だね」


「親って?」


ガルドの表情が、わずかに変わった。


シンはそれを見逃さなかった。


この少女は、知らないことを知らないままにしているのではない。


知っているはずのものを、根元から抜き取られたような話し方をする。


親。名前。自分。


それらが彼女の中では、一本の線でつながっていない。


「……あんた、どこで暮らしてたんだい?」


ガルドが尋ねる。


「下」


「下?」


「みんな、下にいたよ」


「みんなって、誰だ?」


リナは首を傾げた。


「みんな」


その答えに、ガルドは舌打ちしかけて、やめた。


シンは少女の壊れた人形を見た。


布で作られた、小さな人形だった。


片方の腕がなく、顔に描かれた目も片方が消えている。


それでも、リナは大切そうに抱えている。


「その人形は?」


「……私の」


「名前はある?」


少女は人形を見つめた。


そして、しばらく考えてから答えた。


「ないよ」


「君が名前をつけてあげればいい」


「私が?」


「そう」


リナは困ったように笑った。


「名前をつけていいの?」


その問いに、シンはようやく答えられた。


「いいんだよ」


けれど、その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。


本当に、いいのだろうか。


人は名前を与えられる。


生まれたときに。家族から。社会から。時には、所属する組織から。


そして、名前と一緒に、役割も与えられる。


兵士。医師。犯罪者。異常者。


零号。


名前があることは、誰かに自分を認識してもらうことだ。


だが、認識されるということは、分類されることでもある。


シンは、地下の測定装置に表示されていた文字を思い出した。


観測対象:零号。


あれは、彼の名前ではなかった。


それでも、教団はその呼び方で彼を追っている。


名前を与えることと、名前を奪うこと。


その二つは、思っていたより近い場所にあるのかもしれなかった。


「行こう」


シンはリナへ手を差し出した。


「君の名前が本当にリナなのか、今すぐ決めなくてもいい。少なくとも、君が自分でそう呼びたいと思うなら、俺はそう呼ぶ」


少女は差し出された手を見つめた。


やがて、恐る恐る手を伸ばす。


「……シン」


「ん?」


「あなたは、シンなの?」


「ああ」


「誰が決めたの?」


シンは一瞬だけ笑った。


「……難しいことを聞くなあ」


答えは、まだ出なかった。


それでも彼は、少女の手を取った。


「今は、それでいいだろ」


リナは小さく頷いた。


地下通路の奥へ、三人の足音が消えていく。


その背後で、古い導光石が一つ、音もなく明滅した。


まるで、彼らの会話を記録しているかのように。


2 地下にある、もう一つの街

隠れ場所は、古い水道施設のさらに奥にあった。


かつて光冠都市へ水を供給していた貯水区画。


今では一部が崩落し、天井から伸びた根が石壁を覆っている。根の隙間には、白い鉱物の筋が走っていた。


そこに、人々が暮らしていた。


十人、二十人ではない。


少なくとも、百人以上。


子供もいれば、老人もいる。片足を引きずる男、片目を布で覆った女、片手の指が動かない青年。


彼らの衣服は粗末だったが、誰もが何かしらの仕事をしていた。


水を汲む者。


食料を分ける者。


壊れた導光石を修理する者。


壁際に座って、古い布を縫い合わせる者。


「……こんな場所が」


シンは思わず呟いた。


ガルドも周囲を見回している。


「街の地下に、これだけの人間が暮らしてるなんてね」


「隠れているんだ」


セラが答えた。


彼女は先ほどから、通路の分岐を確認しながら先導していた。


「教団の管理網に登録されていない人たち。あるいは、登録されていたのに、途中で記録から消された人たちよ」


「記録から消された?」


「理由はいろいろ。輝石の反応が不安定だった者。蓄積地に損傷があった者。能力が既存の分類に合わなかった者。教団の検査で、危険性があると判断された者……」


セラは、言葉を切った。


「そして、検査を受けたあと、戻ってこなかった者」


ガルドの眉が寄る。


「戻ってこなかったって、どこへ?」


「公式記録では、治療施設への移送。あるいは、蓄積地の安定化処置。けれど、すべての人間が帰ってきたわけじゃない」


「それを知っていて、あんたは衛兵をやっていたのかい?」


セラは否定しなかった。


「知らなかったこともある。知っていて、疑問を持ちながら従ったこともある」


「ずいぶん正直だね」


「自分を正当化するために、嘘をつくのはやめたの」


セラの声には、怒りよりも疲労があった。


「私がここにいるのは、過去にしたことが帳消しになったからじゃない。あの子たちを助けられなかったことも、命令に従ったことも、なくならない」


シンは彼女の横顔を見た。


この街には、単純な善人と悪人だけがいるわけではない。


人を助けるために制度へ入った者が、その制度の一部として人を傷つける。


制度に逆らえば、救えるはずの人間を救えなくなる。


そして、従い続ければ、いつか自分が何を守っていたのかさえわからなくなる。


白冠教団の白は、人々を守るために使われている。


だからこそ、その白を拒絶することは難しい。


「セラ」


「何?」


「ここにいる人たちは、どうやって暮らしている?」


「食料は、地上の市場から少しずつ運び込んでいる。地下水もある。外部とつながる通路はいくつかあるけれど、すべてが安全というわけではないわ」


「教団は、この場所を知らないのか?」


「知らないわけがないでしょう」


セラは、低く答えた。


「正確な場所を知らない者もいる。でも、地下に未登録者がいることは、管理部門も把握しているはずよ」


「なら、どうして放置している?」


「放置しているのか。それとも、今は放置する必要があるのか」


「どういう意味?」


セラは答えず、通路の先を指した。


広い区画の中央に、小さな台が置かれていた。


その上には、白い石板がある。


石板には、整然とした文字が刻まれていた。


そこへ、人々が一人ずつ近づき、自分の名前らしきものを指でなぞっている。


「何をしているんだ?」


「名前を確認しているの」


セラが答えた。


「この場所では、記録から消された人間が多い。自分の名前を忘れてしまった人もいる。ここに来る前の記憶が曖昧な人もいる。だから、互いに名前を確かめる習慣があるの」


シンは石板に近づいた。


そこには、多くの名前が刻まれていた。


だが、いくつかの名前は削られている。


名前が刻まれていたはずの場所に、白い粉だけが残っている。


「これは?」


「消えた人の名前よ」


「誰が消したんだ?」


「わからない」


セラは、石板を見つめた。


「最初は、亡くなった人の名前を消していたらしい。でも、いつからか、ここを離れた人の名前も消すようになった。本人が望んだ場合もあるし、誰も理由を知らない場合もある」


「名前が消えたら、その人はいなかったことになるのか?」


「いいえ」


セラは、きっぱりと答えた。


「ここにいたことまで、なくなるわけじゃない」


その言葉は、静かな場所に落ちた。


けれど、石板の前に立っていた老人が振り返った。


「本当に、そうかな」


老人は痩せていた。


白髪は少なく、顔には深い皺が刻まれている。胸元にある輝石は、色を失ったような灰色だった。


シンは、地下の入口で見かけた老人を思い出した。


あの老人と同じ、足を引きずる歩き方。


「あなたは……」


「覚えていたか」


老人はシンの顔を見た。


「名は、マレナから聞いた。お前たちが地下の測定装置を動かしたこともな」


「あなたは、何者なんですか?」


「昔、鐘の管理をしていた技師だ。今は、ここにいる連中の世話をしている」


老人は、石板の削られた名前へ目を向けた。


「俺はな、昔は名前を消す仕事もしていた」


ガルドの表情が険しくなる。


「……どういう意味だい?」


「管理網から外れた者の記録を整理する仕事だ。異常値を消し、不要な情報を削り、記録の不整合を直す。そういう名目だった」


「人間を消していたってこと?」


「人間そのものを消したわけじゃない。少なくとも、俺はそう思っていた」


老人は自嘲するように笑った。


「記録から消すことと、存在を消すことは違う。そう考えれば、仕事はできた。だがな……記録から消された人間を、誰も探さなくなったらどうなる?」


誰も答えなかった。


「名前がなければ、捜索願も出せない。移送記録がなければ、どこへ行ったのかもわからない。家族が訴えても、記録上は最初から存在しない。誰かがいなくなっても、管理網は正常だと報告する」


老人は、削られた名前の一つに指を置いた。


「俺が消した名前の中には、子供の名前もあった」


リナが、シンの背後へ隠れた。


老人はそれを見て、目を伏せた。


「……だから、この石板だけは残している。誰がここにいたのか、誰がいなくなったのか。完全には記録できなくても、忘れないためにな」


「じゃあ、どうして名前を削るんですか?」


リナの声だった。


老人が顔を上げる。


少女は、壊れた人形を抱いたまま、石板を見ていた。


「忘れないためなら、消さなければいいのに」


老人は、長いこと答えなかった。


やがて、静かに言った。


「……その通りだ」


3 名前のない子供たち

地下の広場には、子供たちが集まっていた。


大人たちとは違い、彼らはシンたちを見ても、すぐに警戒しなかった。


珍しいものを見つけたように、遠巻きに眺めている。


その中に、リナと同じ年頃の少女がいた。


彼女は壁際に座り、木片を積み上げて遊んでいた。


木片は不揃いで、ところどころに数字や記号が刻まれている。


「ねえ」


少女がリナに声をかけた。


「その人形、壊れてるの?」


リナは人形を抱きしめた。


「……うん」


「直せるよ」


少女は木片を置き、立ち上がった。


「私、直すの得意なんだ」


リナは少し迷ってから、人形を差し出した。


少女は人形を受け取ると、片腕の縫い目を確かめた。


「布が足りないね。あとで持ってくる」


「ありがとう」


「ううん」


少女は笑った。


「名前は?」


リナは、言葉を失った。


少女は首を傾げる。


「あなたの名前」


「……リナ」


「リナっていうの?」


「たぶん」


「たぶん?」


「兵士さんが、そう呼んでいたから」


少女は少し考えた。


「じゃあ、あなたがそう呼ばれたいなら、リナでいいんじゃない?」


リナは、驚いたように顔を上げた。


「自分で決めていいの?」


「うん。私はそうしてる」


少女は自分の胸を指差した。


「私の名前は、まだないの」


「……ないの?」


「うん。前にいたところでは、番号で呼ばれてたから。ここに来てからも、みんな私をどう呼べばいいかわからないんだって」


彼女は明るい声で言った。


「でも、名前がないと困ることもあるんだよ。呼びかけられないし、順番もわからないし、誰かが私のことを話しているのかもわからない」


「じゃあ、名前をつければいいよ」


リナが言った。


さっきシンに教わったばかりの言葉だった。


少女は目を丸くした。


「私が、自分で?」


「うん」


「自分の名前を?」


「うん」


少女はしばらく黙り込んだ。


そして、木片の一つを拾った。


そこには、かすれた文字で「ミ」と刻まれていた。


「……ミ?」


少女はそれを見つめた。


「これ、昔、誰かが呼んでた音なの。何の意味かはわからない。でも、聞いたことがある気がする」


「じゃあ、ミでいいんじゃない?」


リナが言った。


少女は、ゆっくりと笑った。


「うん。じゃあ、私はミ」


彼女は木片を胸に抱いた。


「今日から、ミ」


たったそれだけのことだった。


新しい力を得たわけではない。


失われた記憶が戻ったわけでもない。


教団の記録が書き換わったわけでもない。


それでも、少女は初めて、自分の名前を自分で決めた。


「ミ」


リナが呼ぶ。


「なあに?」


「……ミ」


もう一度呼ぶ。


「なあに?」


少女は笑った。


リナも笑った。


シンは、その光景を見つめていた。


名前を持つこと。


自分の名前を決めること。


誰かに呼ばれて、返事をすること。


その何気ないやり取りが、なぜかひどく大切なものに思えた。


「シン」


ガルドが隣に立つ。


「どうしたんだい?」


「いや……」


シンは首を振った。


「名前をつけるだけで、あんなに嬉しそうにするんだなって」


「当たり前だろ」


ガルドは、子供たちを見た。


「自分がここにいるって、誰かに伝えられるんだから」


「……そうだな」


「でも、気をつけな。名前を与えることが、いつも優しいこととは限らない」


シンは彼女を見た。


ガルドは、壊れた人形を直そうとしている子供たちを見つめていた。


「戦場じゃ、名前を呼ばれなくなった人間から死んでいくことがある。番号で呼ばれ、役割で呼ばれ、最後には、誰だったかさえ覚えられなくなる」


彼女の声が、わずかに低くなる。


「だから、名前を呼ぶことは大事だ。でも、呼んでやったからって、相手を理解したことにはならない」


シンは何も言わなかった。


「その子が自分で決めた名前を、あんたが勝手に意味づけするなよ」


「……うん」


「助けることと、決めてやることは違うんだ」


その言葉は、以前にも聞いたことがある気がした。


色を得ることと、色を理解することは違う。


力が人を選んだとしても、その人が何をするかまで力に決めさせてはいけない。


そして今度は、名前だった。


名前を与えることと、本人の代わりに本人を決めることは違う。


シンは、リナを見た。


少女はミと一緒に人形を直している。


壊れた腕に布を巻き、ほつれた糸を結び直していた。


彼女たちの指先には、輝石の力などなかった。


けれど、そこには、誰かの存在を確かめるための小さな営みがあった。


シンは、そのことを忘れないようにした。


4 記録にない名前

「全員、こっちへ」


マレナの声が広場に響いた。


人々が集まり始める。


彼女は古い計測器の前に立っていた。装置の中央には透明な結晶がはめ込まれ、周囲には複雑な刻印が並んでいる。


「教団の管理網が、地下区画の一部を再走査している。さっきの騒ぎで、ここまでの通路が見つかった可能性がある」


人々の顔色が変わった。


「どれくらい時間がある?」


セラが尋ねる。


「正確にはわからない。だが、いつもの巡回より早い。誰かが意図的に探索範囲を広げている」


「リナを探しているのか?」


シンの問いに、マレナは頷いた。


「それだけじゃない。あなたたちが動かした測定装置が、古い同期網へ信号を送った。教団の通常の管理部門だけでは説明できない反応が出ている」


「どういうことだい?」


ガルドが尋ねた。


マレナは計測器の表示を確認した。


「この装置は、昔の色相分類適合試験に使われていたものよ。輝石の色や蓄積地の反応を測り、管理網へ登録する。そのための装置だった」


「それは前にも聞いた」


「ええ。でも、古い型は、現在の管理網とは違う仕組みで動いていたの」


マレナは装置の側面を開いた。


中には、白い導線と透明な結晶が組み合わされた構造がある。現代の機械に見られる金属部品とは異なり、導線の一部は鉱物のように成長し、互いに絡み合っていた。


「当時の技術者は、輝石を個別に測定するだけではなく、複数の輝石が互いにどう反応するかを調べていた。特定の色に属さない反応。遠く離れた蓄積地と同期する反応。周囲の輝石が、測定対象に引き寄せられるように振る舞う現象……」


「それが、零号?」


「そう。少なくとも、記録上はね」


マレナは表示板を指した。


「ただし、零号という分類ができた理由は、ひとつじゃない。測定できなかった例もあれば、測定器の誤作動と判断された例もある。複数の反応が混ざって、既存の色相へ分類できなかった例もあった」


「つまり、零号と呼ばれる人間が、全員同じ能力を持っていたとは限らない」


シンが言うと、マレナは頷いた。


「その通り。だから、零号という言葉だけで、あなたとリナが同じ存在だと判断することはできない」


リナはシンの外套の陰から顔を出した。


「じゃあ、私とシンは違うの?」


「わからないわ」


マレナは率直に答えた。


「同じ反応を示す部分がある。でも、それだけでは同じとは言えない。輝石の反応が似ていることと、持ち主が同じ存在であることは別の話だから」


「……そう」


リナは胸元の輝石を押さえた。


「私は、シンにならなきゃいけないの?」


「そんな必要はない」


シンは、すぐに答えた。


「似ているところがあっても、君は君だよ」


「でも、みんなが同じだって言ったら?」


「みんながそう言ったとしても、君がどう思うかまで決めることはできない」


「……難しいね」


「俺も、そう思う」


シンが苦笑すると、リナはほんの少しだけ安心したようだった。


マレナは、装置の表示を切り替えた。


古い文字が浮かび上がる。

色相分類:該当なし

蓄積地反応:確認

外部共鳴:複数

同期網適合率:測定不能

観測対象:零号


その下に、別の記録が現れた。

第二対象:応答確認

第一対象との共鳴:継続観測

接触状態:維持


「第二対象……」


セラが呟いた。


「やっぱり、教団はリナの存在を知っていたのね」


「知っていた、というより……」


マレナは眉をひそめた。


「第二対象が現れることを、あらかじめ想定していた可能性がある」


「待ってくれ」


シンは表示を見つめた。


「俺とリナが出会うことを、誰かが予定していたってことか?」


「そこまでは言えないわ」


マレナは首を振った。


「この記録がいつ作られたものか、まだ特定できていない。それに、観測計画が存在していたからといって、出会いそのものを誰かが引き起こしたとは限らない」


「じゃあ、誰がこんな計画を?」


「わからない」


「教団の最深部が関係しているんじゃないのか?」


セラが言った。


「通常の管理部門を通さずに記録を送る命令があった。古い測定器が動いた直後に、管理網が反応した。偶然にしては、つながりすぎている」


マレナは、しばらく沈黙していた。


そして、装置の裏側から、薄い記録板を取り出した。


「これを見て」


記録板には、古い計画名が刻まれていた。


零号観測計画――接続試験記録。


「接続試験?」


シンが尋ねる。


「何かと何かをつなぐための試験だったようね。何をつなごうとしていたのかは、記録が欠落している」


「輝石と管理網じゃないのか?」


「それなら、わざわざ零号観測計画と名づける必要はない」


マレナは記録板を裏返した。


裏面には、さらに古い文字が残っていた。

接続先:判読不能

記録層:不明

同期対象:複数

逆流防止:未完成


最後の一行だけ、妙に鮮明だった。


「逆流防止……?」


ガルドが眉を寄せる。


「何かをつないだら、向こうからも何かが流れてくるってことかい?」


「可能性はある」


マレナは答えた。


「ただし、今の段階で、それ以上のことはわからない。古代の技術なのか、教団が独自に改造したものなのかも判断できない」


シンは、透明な結晶を見た。


自分の力が反応したとき、この装置は何を読み取ったのだろう。


彼の輝石なのか。


リナの輝石なのか。


二人の間に生まれた共鳴なのか。


それとも、彼ら自身が知らない何かを。


「……シン」


リナが、彼の袖を引いた。


「どうした?」


「この機械、さっきから私のことを呼んでる」


その瞬間、透明な結晶が淡く光った。


装置の内部で、導線が震える。


音は聞こえない。


けれど、シンにはわかった。


音にならない振動が、壁を伝い、地下の根を伝い、さらに遠くへ伸びている。


そして、その振動の向こうに――。


誰かがいる。


そう感じた。


ただし、それが人間なのか、記録なのか、装置そのものなのかはわからない。


声が、再び響いた。


『……第二……』


音は途切れた。


『……応答……』


透明な結晶が、ぱきりと音を立てた。


マレナが、慌てて装置の電源を落とす。


光が消える。


地下の広場が、静けさを取り戻した。


誰も口を開かなかった。


やがて、ガルドがシンの肩を叩いた。


「今のは何だい?」


「……わからない」


シンは正直に答えた。


「でも、少なくとも、俺たちに話しかけていたように聞こえた」


「誰が?」


「それも、わからない」


リナは胸元の輝石を押さえていた。


その指先が、かすかに震えている。


「私……あの声、知ってる気がする」


シンは少女を見た。


「覚えているのか?」


「ううん。覚えてない。でも、初めて聞いた気がしない」


「どこで聞いたんだろう?」


リナは首を振った。


「わからない」


その答えは、今までと同じだった。


しかし、シンは気づいていた。


彼女は、単に何も知らないわけではない。


彼女の中には、本人が言葉にできない何かが残っている。


それは記憶なのか。


感情なのか。


あるいは、記憶と呼ぶには曖昧すぎる、もっと深いところにある反応なのか。


シンには、まだ判断できなかった。


5 教団の記録にない命令

同じころ、光冠都市の中央聖堂では、監察官ヴァイスが古い記録を読み返していた。


室内には、白い光が満ちている。


壁には管理網の構造図が映し出され、街の各所に設置された同期石の状態が、細かな数字となって流れていた。


異常なし。


異常なし。


異常なし。


画面の大部分は、そうした表示で埋め尽くされている。


その中に、一つだけ、異常な反応があった。


地下区画。


古い観測装置。


零号。


第二対象。


ヴァイスは、表示された記録を指で拡大した。


「……やはり、あの装置が動いたか」


背後で扉が開いた。


白い制服を着た職員が入ってくる。


「監察官。地下区画の捜索部隊から報告です。対象の少女は発見できていません。同行者三名も、追跡範囲から離脱した模様です」


「同行者三名?」


「神代シン、ガルド、元衛兵のセラです」


ヴァイスは目を細めた。


「セラまで関わっているのか」


「はい。規律違反として、拘束命令を発行できますが」


「待て」


ヴァイスは、表示を切り替えた。


通常の管理画面から、権限を要求する。


しかし、画面には拒否の文字が現れた。

権限不足。


「……何だ?」


もう一度、操作する。


同じ表示。

権限不足。


ヴァイスは自分の認証石をかざした。


通常なら、監察官として閲覧できる記録は多い。


だが、今開こうとしている階層は、彼の権限を受けつけなかった。


「この記録は、誰の管理下にある?」


「申し訳ありません。管理者情報が表示されません」


「そんなはずはない」


ヴァイスは声を強めた。


「すべての管理系統には責任者がいる。記録には作成者があり、命令には発令者がある。管理者のいない命令など存在するはずがない」


職員は答えられなかった。


ヴァイスは画面を見つめる。


そこに、先ほどの命令が表示されていた。

第二対象を確認した場合、零号との接触を維持せよ。

対象同士の共鳴を妨害してはならない。

観測結果は、白冠管理部門を経由せず、最深部へ送信すること。


ヴァイスは、命令の発行日時を調べた。


日付が表示されない。


発行者の名前もない。


記録番号だけが存在していた。


しかも、その記録番号は、現在の教団が採用している形式とは違っていた。


「この形式……」


彼は、過去の資料を検索した。


数秒後、古い文書が一つ表示された。


文書の題名は、こうなっていた。


色相分類適合試験・旧式接続記録。


ヴァイスは、その文書を開いた。


内容の大半は破損している。


だが、末尾に一行だけ残っていた。

接続先からの応答を確認。

観測者は、応答を人格と誤認しないこと。


ヴァイスの手が止まった。


「……人格と、誤認するな?」


職員が尋ねる。


「何か問題が?」


「いや」


ヴァイスは画面を閉じた。


「この件は、私が直接調べる。捜索部隊には、対象の身柄を確保することを最優先にするなと伝えろ」


「ですが、教団の規則では――」


「規則は私が理解している」


ヴァイスの声は冷たかった。


「命令の出所がわからない以上、通常の拘束手順を適用することはできない。対象を傷つければ、観測計画に影響する可能性がある」


職員は一礼し、退出した。


一人になったヴァイスは、もう一度、記録を開いた。


そして、誰にも聞こえない声で呟いた。


「誰が、零号を観測している?」


答えはない。


画面には、管理網の正常を示す白い光だけが流れていた。


6 白い網に映らないもの

地下区画では、マレナが計測器の結晶を取り外していた。


「装置はしばらく使えないわ。内部の共鳴部が壊れた」


「修理できるのか?」


シンが尋ねる。


「部品はある。でも、同じ反応が起きれば、また壊れるでしょうね」


「なら、使わないほうがいいんじゃないか?」


「そうかもしれない」


マレナは結晶を布で包んだ。


「でも、何も調べなければ、わからないままよ」


「調べることで、危険が増えることもある」


「ええ。だから、どこまで調べるかを決める必要がある」


彼女は、シンを見た。


「あなたは、あの装置が何に反応したと思う?」


シンは考えた。


「俺の力かもしれない。リナの輝石かもしれない。二人の共鳴かもしれない」


「それ以外は?」


「……装置の向こうにある何か」


マレナは、少しだけ頷いた。


「私も、そう考えている」


ガルドが腕を組む。


「向こうって、どこだい? 街の外か?」


「距離の問題とは限らないわ」


マレナは言った。


「この装置は、通常の測定器とは構造が違う。単に輝石から出る力を測るのではなく、別の場所にある反応を参照しているように見える」


「別の場所?」


「それが地理的な遠方なのか、古い記録なのか、別の何かなのかはわからない。今は断定できないわ」


シンは、装置の破片を見つめた。


「もし、記録を参照しているとしたら?」


「可能性はある。だけど、記録に書かれた情報を読み取ることと、その記録に書かれた人物そのものに接触することは違う」


「……どう違うんだ?」


マレナは、すぐには答えなかった。


「たとえば、あなたが亡くなった人の日記を読んだとする。そこには、その人が何を考え、何を恐れ、誰を愛していたかが書かれているかもしれない。でも、日記を読んだからといって、その人が今ここにいることにはならないでしょう?」


「そうだな」


「記録は、存在の痕跡を残せる。でも、痕跡と本人は同じではない」


シンは頷いた。


それは、わかる。


だが、先ほどの声は、ただの記録にしては奇妙だった。


『第二……』


『応答……』


まるで、こちらの存在を認識し、返事をしようとしていたかのように聞こえた。


「じゃあ、もし記録の中にある情報が、こっちに反応してきたら?」


シンが尋ねる。


マレナは目を細めた。


「その場合も、すぐに本人がいると考えるべきではないわ」


「どうして?」


「記録を読み取る機構が、記録の内容をもとに応答を生成している可能性がある。過去の言葉を組み合わせて、今の質問に答えているだけかもしれない」


「それでも、答えが返ってくるなら?」


「答えが返ってくることと、相手が誰なのかを理解することは別よ」


シンは黙った。


その言葉は、妙に胸に残った。


人は、誰かの言葉を聞くと、その向こうに人格を想像する。


声があれば、話し手がいると思う。


名前があれば、本人がいると思う。


記憶があれば、その記憶を持つ人間が存在していると思う。


だが、もし、そのすべてを別々に再現できる者がいたら?


外見を再現し、記憶を再現し、話し方を再現し、本人らしい反応を再現する。


それでも、その存在は同じ本人なのだろうか。


シンは、まだ答えを持っていなかった。


「……マレナ」


「何?」


「この装置の向こうに、誰かがいると思う?」


彼女は、慎重に言葉を選んだ。


「いるかもしれない。いないかもしれない。記録だけかもしれないし、私たちが理解できない仕組みかもしれない」


「それじゃ、何もわからないのと同じだ」


「そうね」


マレナは、苦笑した。


「でも、わからないことを、わかったことにしない。それが最初の一歩だと思う」


シンは、壊れた装置を見つめた。


この世界には、わからないことが多すぎる。


輝石はなぜ人に宿るのか。


色とは何なのか。


白冠教団は、何を恐れているのか。


そして、自分の無色の力は、何をつなぎ、何を断ち切るために存在しているのか。


今までは、目の前の問題を解決することで、少しずつ答えへ近づいているつもりだった。


けれど、今回の問題は違う。


答えを探すことそのものが、誰かの観測対象になっている可能性がある。


自分が何かを知ろうとする行為まで、あらかじめ計画の一部だったとしたら。


シンは、ゆっくりと息を吐いた。


「……それでも、調べるよ」


マレナは彼を見た。


「危険かもしれないわ」


「わかってる」


「教団が追っているのは、あなたたちだけじゃない。地下にいる人たちまで巻き込まれる可能性がある」


「だからこそ、慎重にやる」


シンは、リナを見た。


少女はミの隣で、壊れた人形を抱いていた。


片腕は、まだ完全には直っていない。


それでも、二人は嬉しそうに笑っている。


「俺たちが調べなければ、リナやミたちのことを、誰かが勝手に決めてしまうかもしれない」


「……そうね」


「でも、俺が代わりに決めていいわけでもない」


シンは、自分の手を見つめた。


「だから、知りたいんだ。誰が、何のために、この子たちを分類しているのか」


マレナは、しばらく彼を見つめていた。


やがて、静かに頷いた。


「なら、最初に調べるべきなのは、地下の記録ではないかもしれない」


「どういうこと?」


「この子たちが、ここへ来る前にいた場所よ」


マレナは、広場の奥を指した。


そこには、古い扉があった。


扉の表面には、削り取られた文字の跡が残っている。


「この地下区画へ来た子供たちの中には、施設から移送されてきた者がいる。教団の記録では、治療施設と呼ばれている場所ね」


セラの顔が強張った。


「……その施設の場所を知っているの?」


「正確な場所は知らない。でも、ここへ来た人の中に、施設の標章を覚えている者がいる」


「なら、その人に話を聞こう」


シンが言った。


マレナは頷きかけた。


そのときだった。


地下の天井から、低い振動が伝わってきた。


最初は、遠くを走る荷車の音に似ていた。


次第に強くなる。


壁の導光石が、ひとつ、またひとつと白く光り始めた。


マレナの顔色が変わった。


「……そんな」


「何だい?」


ガルドが尋ねる。


「管理網が、地下区画の位置を特定した」


「さっきの装置が原因か?」


「わからない。でも、この反応は通常の巡回信号じゃない」


マレナは装置の残骸を見た。


「何かが、こちらを探している」


その言葉に、広場の人々がざわめいた。


子供たちは大人の背後へ隠れ、老人たちは荷物をまとめ始める。


セラは剣を抜いた。


ガルドも拳を握る。


シンは、リナの前に立った。


少女の透明な輝石が、淡く光っている。


それに呼応するように、地下の壁に埋め込まれた白い鉱物が震えた。


まるで、二つのものが互いの存在を確かめ合っているようだった。


だが、シンには、別のことが気になっていた。


白い網は、地下の人々を探している。


それなのに、なぜリナの輝石は、網に反応しながらも、その網に認識されないのだろう。


存在を示す反応がある。


それでも、存在そのものは記録されない。


まるで、白い網の側に、彼女を正しく分類するための場所がないかのように。


「シン……」


リナが、彼の服を握った。


「私、見つかっちゃうの?」


シンは、彼女を見下ろした。


「……たぶんね」


嘘はつかなかった。


「でも、君が何者なのかを決めるのは、あの網じゃない」


リナは不安そうに彼を見つめた。


「じゃあ、誰が決めるの?」


シンは、少しだけ考えた。


「君自身だよ」


「私が?」


「そう」


彼は、少女の目を見て答えた。


「ただし、一人で全部を決めなくてもいい。わからないことは、誰かに聞けばいい。迷ったら、一緒に考えればいい。でも、君が何者なのかを、最初から他人に決めさせなくていいんだ」


リナは、ゆっくりと頷いた。


その瞬間、地下に鐘の音が響いた。


朝でも、夕方でもない。


光冠都市の鐘が、決められた時刻以外に鳴ることはないはずだった。


それなのに、音は確かに響いていた。


一度。


二度。


三度。


人々が耳を塞ぐ。


シンの輝石が震えた。


リナの透明な輝石が、白い光を返す。


そして、地下の壁に刻まれた古い文字が、光の中に浮かび上がった。


誰も知らないはずの文字。


マレナでさえ、すぐには読めなかった。


ただ、最後の一行だけは、現代の文字とよく似ていた。

観測対象が自らの名を選択した場合、記録の固定を解除せよ。


シンは、その一文を見つめた。


「……自分の名前を選んだ場合?」


リナが小さく呟く。


「私が、リナって呼ばれたいって言ったから?」


「わからない」


シンは答えた。


「でも、これは……」


言葉が続かなかった。


古い文字は、数秒後、光を失った。


同時に、鐘の音が止まる。


白い導光石も、元の暗さへ戻っていった。


静寂が訪れる。


誰も動かなかった。


やがて、マレナが震える声で言った。


「今の記録……管理網から送られてきたものじゃない」


「じゃあ、どこから?」


セラが尋ねる。


マレナは、ゆっくりと首を横に振った。


「わからない。地下の装置が表示した記録とも違う。今の文字は、壁そのものに浮かび上がった」


「壁に刻まれていたわけじゃないのか?」


「違う。あれは、今、現れたのよ」


ガルドが舌打ちする。


「つまり、街の管理網とは別の何かが、この場所に干渉しているってことかい?」


「可能性はある」


マレナは、言葉を慎重に選んだ。


「ただし、それが誰かの意思なのか、古い仕組みが自動的に反応したのか、それすらわからない」


シンは、壁があった場所を見つめた。


名前を選んだ場合。


記録の固定を解除せよ。


その言葉が、頭の中で繰り返される。


記録が固定されている。


誰かの名前が、誰かの意思とは関係なく記録されている。


そして、自分で名前を選ぶことが、その固定を解除する条件になっている。


それは、いったい何を意味するのか。


シンは、リナを見た。


少女は、壊れた人形を抱きしめていた。


「……私、リナでいいのかな」


「君がそう呼ばれたいなら、いいと思う」


「でも、昔の名前があるかもしれない」


「あるかもしれないね」


「それを探したほうがいいのかな?」


シンは、すぐには答えなかった。


昔の名前があるのなら、知る価値はある。


自分がどこから来たのか。


誰に育てられたのか。


なぜ透明な輝石を持っているのか。


それらを知ることは、彼女の過去を取り戻すことにつながるかもしれない。


だが、過去の名前が見つかったとして、それを今の彼女に押しつけていいのだろうか。


「探してもいい」


シンは答えた。


「でも、見つかった名前を必ず使わなきゃいけないわけじゃない」


リナは、彼の顔を見た。


「昔の名前があっても?」


「うん」


「みんなが、その名前で呼べって言っても?」


「うん」


「……どうして?」


シンは、少しだけ笑った。


「名前は、君を説明するためのものだから。君を閉じ込めるためのものじゃない」


リナは、その言葉をゆっくりと繰り返した。


「……閉じ込めるためのものじゃない」


彼女は胸元の輝石に触れた。


透明な石は、もう光っていない。


けれど、シンには、そこに確かな振動が残っているように感じられた。


それが何を意味するのかは、まだわからない。


彼女が何者なのかも。


零号とは何なのかも。


白い網の向こうに、何があるのかも。


それでも、ひとつだけ、わかったことがあった。


この街では、人々を守るために、名前が記録される。


名前が記録されることで、人は管理される。


管理されることで、人は分類される。


そして、分類から外れた者は、存在しないものとして扱われることがある。


だからこそ、シンは決めた。


この子を、番号では呼ばせない。


この子が自分で選んだ名前を、記録が消そうとしても。


誰かが、彼女は別の存在だと決めつけても。


少なくとも、彼女が自分をリナと呼ぶ限り、シンはその名前を呼ぶ。


それは世界を変えるほど大きな力ではない。


白冠教団を倒すことも、地下の人々を全員救うことも、今すぐにはできない。


それでも、目の前にいる一人の人間を、記録の数字だけにしないことはできる。


「リナ」


シンは、少女を呼んだ。


彼女は顔を上げる。


「なあに?」


「行こう。ここにいる人たちを守る方法を考えないと」


リナは、頷いた。


「うん」


その返事は、今までよりもはっきりしていた。


彼女は、自分の名前を選び始めている。


そして、その小さな選択が、誰かの作った記録を揺らし始めていた。


7 最深部へ

光冠都市の中央聖堂。


ヴァイスは、管理網の表示が一斉に乱れた瞬間、椅子から立ち上がった。


地下区画の記録が、数秒間だけ白く染まった。


続いて、すべての数値が消える。


そして、ひとつの文字だけが現れた。

記録固定:解除要求


ヴァイスは息を呑んだ。


「……そんな機能が、まだ生きていたのか」


彼は、すぐに管理権限を呼び出した。


拒否。


もう一度、認証する。


拒否。


画面の隅に、見慣れない記号が現れていた。


白冠教団の紋章ではない。


現代の管理網にも登録されていない。


それでも、その記号は、古い接続試験記録の末尾にあった印と一致していた。


ヴァイスは、記号を拡大した。


その下に、文字が浮かび上がる。

接続状態:不安定

逆流防止:未完成

応答主体:識別不能


「応答主体……?」


彼は呟いた。


そのとき、画面の中央に、さらに一行が表示された。

観測者へ通知。


ヴァイスは動かなかった。


表示が続く。

あなたは、何を観測している?


次の瞬間、画面が暗転した。


管理網は正常状態へ戻る。


地下区画の位置情報も、再び表示された。


だが、ヴァイスはしばらく動けなかった。


今の問いは、誰が送ったのか。


教団の内部にいる誰かか。


古い観測装置か。


それとも、接続先と呼ばれていた何かか。


答えはわからない。


しかし、ひとつだけ確かなことがあった。


零号は、ただ測定されるだけの存在ではない。


観測される側から、観測する側へ。


その境界が、今、揺らぎ始めている。


ヴァイスは、静かに端末を閉じた。


「……この件を、上層部へ報告するわけにはいかないな」


彼は、自分の胸元にある白い輝石を見下ろした。


白い石は、いつもと変わらず輝いている。


それなのに、なぜか今は、その光がひどく頼りなく見えた。


「最深部……」


ヴァイスは、その言葉を口にした。


教団の最深部。


白冠管理部門のさらに奥。


通常の管理権限では触れられない、古い記録の保管領域。


そこに、何があるのか。


誰が、そこを管理しているのか。


そして、なぜ、零号と第二対象の接触を維持しようとしているのか。


ヴァイスは、決意した。


自分の目で確かめる。


教団の規則に従うためではない。


教団を裏切るためでもない。


このままでは、自分が何を守っているのかさえ、わからなくなるからだ。


白い光が、聖堂の壁を照らしていた。


人々は、明日の朝も鐘が鳴ると信じて眠るだろう。


鐘が鳴れば、街はいつも通りに動き始める。


市場が開き、子供たちが学校へ行き、衛兵が巡回し、病人は治療を受ける。


平和な一日が始まる。


その平和が、どのような仕組みで維持されているのかを知らないまま。


そして地下では、名前を持たなかった子供が、自分の名前を選び始めていた。


誰かが作った記録の中では、彼女は第二対象だった。


誰かが管理する網の中では、彼女は分類不能だった。


けれど、彼女自身は、少しずつ自分のことを理解しようとしている。


その小さな変化が、古い装置を揺らし、白い網に異常を起こし、聖堂の奥に眠る記録へ届いた。


世界が、彼女を見つけたのか。


彼女が、世界のどこかに触れたのか。


それとも、ずっと前から存在していた何かが、ようやく彼女の声を聞いたのか。


まだ、誰にもわからない。


ただひとつ。


名前を持たない子供たちは、もう、記録の中だけにいる存在ではなかった。


彼らはここにいる。


息をしている。


笑っている。


誰かを呼び、誰かに呼ばれ、明日のことを考えている。


その事実だけは、どんな記録にも消せなかった。


第二章第七話・了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。