十話 大家さん
ピンポーン
家のインターホンが鳴ったことにより、俺は夢も見ないほど深い眠りから目覚めた。体を起こしてクロックスを履いて、扉を開ける。
「はい・・・・・・」
寝起きという事もあり、思ったよりも低い声が出てしまった。外はもう薄暗く、ぱっと見ではインターホンを押した人物が見えなかった。
「あ、忙しかったですか・・・・・・?」
声の主は大家さんだった。大家さんは寝起きの俺を見ると、少し肩をすぼめて申し訳ないと言った顔をした。そんな顔をされるとこちらも申し訳なくなる。
「いや、今起きたばっかりで。全然大丈夫ですけど、何かありましたか?」
「この間、料理に興味があるって言っていたので良ければと思って・・・・・・。あ、でも、旅行帰りで疲れてますよね・・・・・・。失礼しました!」
頭を下げて足早に階段を降りて行く大家さん。その後ろ姿を見ていると、アカメの時に抱いた胸の痛みが再び蘇ってきた。
わざわざ大家さんが気を使って、俺に料理を教えようと来てきてくれたのだ。このまま悪い思いをさせて、帰してしまってはいけない。
「大家さん!料理って今から教えてもらってもいいんですか?」
階段を降りきっていた大家さんが振り向き、少し驚いたような表情を浮かべる。
「今日の晩御飯もまだだったし、今からできるならありがたいんですけど・・・・・・」
「ぜひ!」
そうして俺は大家さんの家で料理を教えてもらえることになった。大家さんの家はもちろん玄関に布団など敷いてるはずもなく、同じ作りのはずなのにどこか明るく感じた。
「ところで、俺から言い出してあれなんですけど料理って何を教えてもらえるんですか?」
「ちょうどお裾分けに行こうと思ってたチャーハンです!割と簡単に作れるんですよ」
料理初心者の俺からすればチャーハンなど中華料理は難しいイメージがあるが、本当に簡単なのだろうか。
俺の不安をよそに大家さんは手際よく食材を並べて行く。
「ネギは市販の刻みネギ。ハムやニンジンは簡単に切れますし、玉ねぎも切り方を覚えれば一瞬でみじん切りにできます。味付けにはこれまた市販のチャーハン用粉末を。あとは香りづけのお醤油を加えればもう出来上がりです」
もう出来上がりと言われても、今の説明の半分も分からなかった。しかし、習うより慣れよ精神で何事も挑戦だ。
「まずは手を洗って。食材を持つ方の手は猫の手で。玉ねぎは最初にヘタの部分を切って、それから半分にすると皮を剥きやすいですよ」
「は、はい」
「そうそう、上手です!ニンジンや玉ねぎは火が通りにくいので、先に炒めておきましょう次はご飯ですね。ご飯をフライパンに入れる前に、卵をご飯と絡めましょう。これをすると、ご飯同士がくっつかなくなるので簡単にパラパラチャーハンができるんです!」
「先にニンジンと玉ねぎ・・・・・・。ご飯と卵を一緒に交ぜる・・・・・・」
教えてもらったことを必死に頭の中で繰り返し、それと同時に食材が焦げないように手を動かす。メモする暇もないほどに忙しいが、大家さんのフォローのおかげで何とか作り終えることが出来た。
「お疲れ様でした!穂川さん、初めてとは思えないくらい上手ですよ!」
初めて作ったチャーハンはところどころ焦げが見えるものの、ちゃんと形になっている。
「あとの盛り付けは私がするので、穂川さんは椅子に座って休んでいてください」
教える側の大家さんの方がよっぽど疲れていると思うが、腕が震えるほどに痛むのでお言葉に甘えることにする。
大家さんは手際よくチャーハンとコップを運び、俺の前に座った。
「それじゃ冷めないうちにいただきましょう!」
「いただきます」
チャーハンをスプーンですくい、口にする。失敗と思っていた焦げも良いアクセントと思えるほどの出来で、初めてにしては上出来と言うべきか大家さんに手伝ってもらいながら、不甲斐ないというべきか。
「んー!美味しいです!穂川さん、料理の才能ありますよ!」
お世辞尾は思うが、大家さんも笑顔を浮かべてチャーハンを口にしてくれている。
こうして顔を合わせて食事をするなんて、彼女の祖母が亡くなって以来だ。思えば大家さんには辛い思いをさせてきた。
大家さんが唯一の身内だった祖母を亡くしたのは高校二年生の頃。独りになるにはあまりに早すぎる年ごろ。そんな時に一番近くにいたはずの俺は、大家さんから離れた。
寄り添うことも、声をかけることもせずに。
俺には仕事があったから。大家さんは高校生の頃からしっかりしていたから。
そんな自分勝手なエゴを少女に押し付け、何も言わずに距離を置いた。
大好きだった祖母を亡くし、それと同時に親しかった俺から距離を置かれ。そんなことをされて大家さんがどんな気持ちになったと思う。俺は自分が何をしたのか分かっているのか。何も分かっていない。大家さんがどんな気持ちで今日まで俺に話しかけてくれた。どんな気持ちで洗濯機を使えと、晩御飯を分けてくれたと。
お婆さんを思い出した時、何と思った。
今思えば、相当な恩知らず。
どの口が言う。どの立場で言う。お前がしたことは恩を仇で返しただけだ。それも、大家さんの祖母に向かってだけだ。今まで大家さんに対して何か思ったことはあるか。
あるはずがない。むしろ、お節介な人だと思っていたはずだ。だから、コインランドリーから返ってきた時も、大家さんの顔を見ずに済んで胸をなでおろした。
そんな俺がどうして大家さんの家で晩御飯を食べている。どんな顔で。どんな気持ちで。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なさい」
不意に漏れた。
「穂川さん、何か言いましたか?もしかして、お口に合いませんでしたか?」
やめてくれ。話しかけないでくれ。
ほら、また逃げようとしてる。いつも逃げて逃げて、隠れて隠れて。だから田舎から逃げた。だから仕事に逃げた。今回もまた逃げる。だんまりか。それとも走って逃げるか?
それでも大家さんは次の日に自分が悪いことをしたんだという顔で、頭を下げてくるだろう。それからもお前はまた逃げる。
「穂川さん?無理しないで下さいね?またレシピ考えておきますんで!これはもう捨てちゃいましょうか!」
やめてくれ。俺を逃がそうとしないでくれ。
逃げてるのはお前だろ。大家さんをこれ以上言い訳に使うな。お前はもう大家さんの前から消えろ。邪魔なだけだ。お前は大家さんの障害にしかならない。
「穂川さん・・・・・・?あ、お水新しいのに変えてきますね!」
「・・・・・・・・・・・・すみ、ま、せん、でした・・・・・・・・・・・・」
口に出したのか、それとも心の中で思っただけか。だが、水を変えに行こうとした大家さんが無言で席に戻ったことで気持ちの整理が少しだけできた。
「・・・・・・俺、今まで、自分の事しか、考えられなくて。大家さん、お婆さんは俺のことずっと見てくれてたのに・・・・・・、俺はお節介な人だって思ってて・・・・・・」
言わなくていい事というのは分かっている。だが、一度開いた口は閉じず、溢れだした感情はもう止まらない。罪悪感に胸が悲鳴を上げ、痛みだす。
「でも、お婆さんは俺にいつまでも優しくしてくれて・・・・・・。それなのに、俺はお葬式にも、お墓参りにも・・・・・・。それだけじゃない。一人になった大家さんに、声をかけてあげられたはずなのに・・・・・・。俺は、たぶん、心のどこかで、解放、されたって・・・・・・」
涙と嗚咽が込み上げるが、両手の平に爪を食い込ませて全てを止める。俺に涙する資格などない。半端に謝ることも許さない。俺がしていいのは、ただひたすらに許しを請うことだけだ。
「今も話して、楽になりたいんじゃないかって。でも、それでも、俺は謝りたい、です・・・・・・」
両手の平から血が出て爪が赤黒くなっているが、痛みなどどうでもいい。いつまでも下を向いて、今ですら逃げている顔を上げなければ。
どんな顔をしているか。涙は出ていない、と思う。鼻水は確実に出ている。歯はガタガタと震えていて、噛みしめることすらできない。
なぜかぼやけて、何もはっきり見えない視界で大家さんの方へ顔を上げる。
笑っている。
手元にあるスプーンの輪郭もはっきりしない視界の中で、大家さんが彼女の祖母と同じ顔をして優しく笑っているのが分かった。
「・・・・・・・・・・・・嬉しい、です」
大家さんの声が耳に入り、頭の中を駆け巡る。言葉の意味を理解することもなく、ただ大家さんの声が、言葉が頭の中で鳴り響く。
「私、おばあちゃんが死んだとき辛かったです。自分は一人なんだって。あの時、実は私も死のうかなって本気で思ってました。だから、亡くなった日の夜からお葬式の夜まで家に引きこもって出て来なかったんです。一日中公園のブランコに座って、お腹が空いたら水だけ飲んで。このまま死んでもいいなーって思ってました」
大家さんの口から出る言葉に、俺は親近感を抱いた。その感情はよく知っているから。俺が酒を飲むようになったのも、大家さんと同じ理由だったから。
「でも、お葬式だけには出たかったんです。本当に大好きだったから最後までちゃんと一緒にいようって。それで、眠ったおばあちゃんの顔を見て、おばあちゃんが言ってたことを思い出したんです。なんて言ってたと思いますか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「しお、遥祐さんと助け合いなさい」
その言葉で穏やかな笑みを浮かべたお婆さんの顔が浮かんだ。とても落ち着いていて、静かで。それでも力強くて、聞くだけで安心できる声。
「実は思い出した時になんで私が、って思いました。だって、十個以上歳も離れてますし、穂川さんはもう一人暮らしだったし。今でも思って当たり前と思いますよ?」
大家さんは笑いながら話すが、誰だってそう思うだろう。
「それで、お葬式にも来ない穂川さんに一言言ってやろう!って思って、帰りをずっと待ってたんです。あの時は十二時をとっくに過ぎてましたね。それもあって、結構イライラしてました。そこから更に一時間くらい待ちました」
大家さんが亡くなった日からの記憶はほとんど無いが、あの当時は終電を降りてからも朝日が昇るまで駅で飲んでいた。そして、家にも帰らず出社していた。
「アパートの前でずっと待っていたら駅から歩いてくる人影が見えて、近寄って怒鳴ってやろう!って息を吸ったら、穂川さん目の前で倒れたんですよ?」
「そう、なんですか・・・・・・?」
「はい。目の前で倒れて、お酒臭くて。もうこんな人放っておいて、アパートから追い出してやるって思って、穂川さんの荷物投げるためにアパートに戻ろうとしたんです。そしたら、穂川さんが小さく何か言ってるのが聞こえてきました」
今の大家さんからは考えられないほど過激だが、されても仕方ないことだと思う。
「ごめんなさい、ごめんなさいって。血と涙で顔べとべとにして、必死に謝ってたんです。何度も何度も。そんなので許せるか、って思ってずっとそんな穂川さんを見てました」
大家さんはそこまで言い、一度息を吐いて背を椅子の背もたれに着いた。
「それで、気付いたら空が明るくなり始めました。それでやっと分かったんです。あぁ、この人は私よりももっともっと弱くて、優しい人なんだなって」
「・・・・・・優しい、ですか?」
「だって、血を流しながら倒れてるのに、ずーっと謝ってるんですよ?私以外の人が見てたら、絶対に引きます。ドン引きですよ」
その光景は想像するだけでひどい物だ。
「で、このままじゃ他の人の迷惑になるから、部屋の前まで運ぶことにしました。さすがに抱えられなかったので、肩を貸して足を引きずりながらですけど。で、なんとか階段を上り終えたところで、穂川さんが私の名前を出したんです。しおちゃん、ごめん、って」
本当に一切の記憶がないが、いつかの出勤でズボンの膝が無くなって笑われた記憶だけは存在するのでその日の事だろう。
「ずるいですよ。あんな状況で名前呼ぶなんて・・・・・・。呼ばれた身にもなってください」
「・・・・・・すみま──」
謝ろうとした俺の唇を大家さんが人差し指で抑えた。
「もうあの時に謝罪は十分すぎるほど貰いました。だから、今は、今からはありがとう、って言って欲しいです」
様々な感情が溢れ出て、抑えられている口元が大きく震える。
「ぁ・・・・・・」
無理に吸い込んだ息でありがとうを出そうとするが、その一言が胸でつっかえて出てこない。
「穂川さん、まずは水を飲んでください」
大家さんがコップを俺の前に突き出し、俺は震える手で水を口にする。
「次はチャーハンを。少し冷めてるかもですが、おばあちゃん秘伝のチャーハンです。良く味わってくださいね」
コップを倒さないように慎重に置いて、スプーンを手にしてチャーハンを口に入れる。一口目、口に入れた時は過去を思い出して味わう暇などなかったが、今食べればどこか懐かしい味で、自然と震えが収まって行く。
「穂川さんには内緒にしてましたけど、盛り付けの時に隠し味を追加したんです。ちゃんとありがとうが言えたら、それが何か教えてあげますね」
大家さんは茶化すように言ってくれ、それが俺の中でつっかえていた何かをすんなりと払ってくれた。
「・・・・・・大家さん、ありがとう、ございました。今まで俺の事、見ててくれて。心配してくれて。これから、少しずつでも返していくので、これからも、よろしくお願いします」
「・・・・・・はい。これから少しずつゆっくり返してもらいますね」
気が付けば、チャーハンを食べ終えて外はすっかり暗くなっている。早く帰ってやらないと、アカメが駄々をこねだすだろう。
「それじゃ、今日はありがとうございました。ご飯までご馳走になって」
「いえいえ、またいつでも」
扉を開けると、冷たい空気が肌に触れ、季節の変わり目を感じる。
「あ、そうだ。穂川さん」
「はい?」
「今度の休み、一緒にお墓参りに行きましょう!」
お世話になったお婆さんのお墓参り。行きたいのはやまやまだが、まだ気が引ける。
俺が返答に迷っていると、
「返してもらうお礼の一つ目です!」
「・・・・・・はは、それなら行くしかないですね。お花、買っておきます」
「はい!おばあちゃんに元気な顔、見せてあげてくださいね!」
「遅い!」
俺が家に入った時、アカメは俺の布団の上で腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「悪い悪い、大家さんに料理を教えてもらっててさ」
「ほんと!?大盛り!大盛りで作って!」
「分かった、分かったから押すなって!」
大家さんから余った貰った食材を台所に広げ、お米はレトルトを電子レンジに放り込む。
余った食材を持ち帰りたいと言った時は、何に使うのかと聞かれたが、練習と言えば少し多めに食材を分けてくれた。
頭で工程を必死に思い返すが、その後の印象が強すぎて良く思い出せない。しかし、今出来ないと言えばアカメが何をしでかすか分からない。
おぼろげな記憶を頼りに料理する事、十分。なんとかそれらしい料理はできた。
「待たせた!アカメ、食べてみてくれ!」
アカメは目の前に置かれたチャーハンを少し見つめた後、口に運んだ。
「どうだ・・・・・・?」
自分の作った料理を食べてもらうのは案外緊張する。アカメは数回咀嚼して、喉に通した。
「うん、美味しい!ようすけ、頑張ったね!」
「そ、そうか!って、頑張ったねってお前な・・・・・・」
ツッコミながらも内心では飛びあがるほどに嬉しい。うろ覚えだったが、どうにかちゃんとチャーハンを作れて一安心。
アカメは本当に美味しそう口へと運び、あっという間に大盛に作ったチャーハンを食べきった。
「ごちそう様!お腹いっぱいになったし、お風呂入ってくるね!」
アカメはてきぱきとお皿を台所に置き、風呂場へと向かう。
「ようすけ」
「ん?」
「頑張ったね。偉いよ」
「はいはい、ありがとな。さっさと入れよー、俺も入りたいんだからな」
アカメが風呂場に入った後、食器を洗おうとしたところでフライパンに一口だけ残っていたチャーハンを摘まんで口に入れた。
すると、ご飯がべちゃべちゃでニンジンと玉ねぎは固く、お世辞にも美味いとは言えない。
「あいつ、また気遣ったな・・・・・・。今度こそ、ちゃんとしたのを食わせてやる!」
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