2話 怪しい契約結婚
朝、目を覚ますと私は違和感を覚えた。
見慣れた男爵家の天井ではない。
装飾の施された高い天井、厚手のカーテンの隙間から差し込む朝の光、体を包む上質なシーツの感触。
(……ああ、そうだった)
ゆっくりと記憶が戻ってくる。昨夜の路地裏、壁に押し付けられたナイフ、そして。
セヴァン・フォン・シルヴァ。
私を殺すはずの男の名前が思い出されて、頭が痛くなってきた。
「目が覚めたか」
ノックもなしに入ってきたのは、当然のようにセヴァンだった。昨夜と同じく表情に乏しい顔で、手には書類らしきものを持っている。
「……なんの用ですか」
「イーキンズ男爵には既に連絡を入れた。お前が侯爵家に世話になることになったってな」
彼の持つ書類をよく見れば、それは婚姻届だった。夫婦として私と彼の名前が書かれているのを見て、さらに頭が痛くなってきた。
「勝手なことを……」
「お前の父親は二つ返事で承諾したぞ?」
そりゃあ、侯爵家から圧力をかけられれば、お父様も震えあがって首を縦に振るしかないだろう。
穏やかな田舎の領地行きが遠のいてしまい、私は頭を抱えた。
物語開始まであと1年しかないのに、悠長にヒーローと結婚ごっこをしている暇などない。
「それより」
セヴァンの視線が、私の方に向いた。
「いつまで寝てるつもりだ。朝食が冷めるだろ」
「ご丁寧に朝食まであるんですね」
「夫婦だからな。あと、敬語はやめてくれないか?」
「……わかったわ」
一方的に結婚を押し付けてきたのに何が夫婦だと、私はむすっとしながら渋々身を起こした。
シーツをのけて立ち上がろうとした瞬間、全身に走った違和感で、ぴたりと動きが止まる。
(……なんで)
昨夜確かに着ていたはずのドレスが、ない。冬だというのに私が身に着けているのは、薄いキャミソール一枚だけだ。
頭の中が、真っ白になった。
「ちょ、ちょっと、これどういうこと!?」
「な、ちょっ――」
「なんで私が下着姿なのよ!」
枕を全力でセヴァンに投げつけた。悪魔の膂力で放たれたそれは、セヴァンの顔面に直撃して、ぼふりと凄まじい音を立てる。
怒りと、恥ずかしさと、その他諸々で頭の中がいっぱいになる。
よく見れば、このベッドは一人で寝るにはあまりに広すぎるし、つまりは、そういうことで。
「っ――!」
「初めてだったのに! この、最低! 最低男!!」
私は周囲にあるクッションやぬいぐるみを彼に向かって投げつけた。
セヴァンがクッションを払いのけて叫んだ。
「ごっ、誤解だ!」
「何が誤解なのよ!」
そう言いながらベッドサイドにあった置時計を投げつけると、彼の額にクリーンヒットし、ごっという鈍い音を立てる。
セヴァンは額を抑えながら、よろめいて言った。
「ち、血と泥で汚れていたから、メイドに着替えさせたんだ。俺は一切手を触れていない!」
(えっ)
私はセヴァンを見た。彼は目のやり場に困ったようにそっぽを向きながら赤面していた。
(……メイド、に)
もう一度状況を整理する。確かに昨夜の戦闘で服はぼろぼろだった。血も泥もついていた。それをメイドが着替えさせた。
「つまり?」
「俺たちは何もなかった。お前は、一人でその部屋で寝ていたんだ!」
セヴァンの額に、じわじわと青あざが浮かんできていた。
◇
朝食の席の空気は、それはそれは重かった。
「……さっきはごめんなさい」
「……」
「本気を出すつもりじゃなかったの」
「青あざなんて久々にできたな」
セヴァンは額に手を当てながら、淡々と言った。
打撲の痕になりかけている箇所を見るたびに、私は目を逸らしたくなった。せっかくの綺麗な顔が、台無しだ。
(こればっかりは、私が悪い……)
気まずさを紛らわすように視線を落とすと、悪魔に食べさせるには豪華すぎる食事が並んでいた。
何種類もの焼きたてのパンに、艶やかな果物。ビュッフェのように並べられたそれに思わず手が伸びた。
(……おいしい)
侯爵家の料理人の腕は確かなようだ。
怒りも気まずさも、おいしいものの前では少しだけ霞んでしまう。
しばらく沈黙のまま食事が進んで、カップを置いたセヴァンが口を開いた。
「今後の話をしておく」
向かいに座るセヴァンの目が、真っ直ぐこちらに向いた。
「俺の目的は悪魔の殲滅だ。リリアにはその協力をしてもらう」
「ふうん、契約結婚ってことね」
セヴァンはにこりとも笑うことはせず、淡々としている。
原作では、ヒロインの前では屈託なく笑う彼だが、私に対して微笑んでくれるはずもない。
セヴァンは、家族が悪魔によって殺されている。幼いながらに悪魔狩りとして侯爵位を継ぎ、悪魔に殺されかけたのは数え切れないほど。
幼い時に目元に負った傷は痛々しくて――
(……あれ?)
私はセヴァンの顔をまじまじと見つめる。
小説では、目元に大きな傷を負っていたはずだけれど、彼の顔には傷一つない。スベスベの艶やかな肌である。
「ちなみに、断ったら?」
「……俺が悲しいな」
その言葉に、私は目が点になった。
全く、思ってもいないことを良くもペラペラと話せるものだと感心する。きっと彼には別の思惑があるはずだけど、私には話してはくれないらしい。
「私は半悪魔よ。貴方を食べたら、どうするつもり?」
人間を食べる気なんてさらさらないけれど、このまま侯爵夫人になるのは、「死」の未来しか見えない。
考え直してくれれば本望だが、セヴァンという男はそう簡単な人間ではない。彼は、自分の首元に手を伸ばして何かを指先で示した。
「これが見えるか?」
彼の首には細い、銀色の鎖が付いている。
「リリアの首にも、同じものがある」
驚いて触れてみると、ひんやりとした金属の感覚が指に伝わってきた。いつの間につけられたのだろう。
「その首輪は、俺の魔法と連動してる。仮にお前が人間を襲った瞬間、首輪が締まる。一秒と生きていられない」
「そんな強い魔法、かけられるわけないでしょ」
私は思わず笑った。
なぜなら、死の魔法を扱えるのは悪魔だけだからだ。
一部の例外を除いて、人間は魔法で生き物を殺すことはできない。相手の魔力が、死の魔法を弾くのだ。これは魔法の理である。
そのため、人間は悪魔を殺す際も魔法ではなく、わざわざ銀の短剣を使っているというのに。
そんな魔法の基礎中の基礎をこの人が知らないとも思えないけど――。
「だから俺にも首輪が付いているんだ。お前が人間を食えば、俺も死ぬ。これは、俺の命も賭けた制約魔法だ」
「えっ」
魔法で人を殺せる一部の例外。
それは、自分の命を相手と同じ扱いにした場合である。
とはいえ、そんな高度な魔法の使い手がわざわざ自分の命など賭けることなんて、滅多にない。
私は思わず、言葉に詰まった。
(なんで、そこまでして)
どんな理由があったとしても、彼はこんな危険な賭けをする必要はない。
半悪魔である私を生かしておく理由もないはずだし、まして契約結婚なんてする必要はあるのだろうか。
(この人は何を考えているの……?)
それとも、すでに原作と違う流れになっている以上、私の知らないところで、物語が進んでいるのだろうか。
「一つ確認してもいい?」
「何だ」
「レオノーラという女の子を知ってる?」
レオノーラというのは、「聖なる夜に口づけを」のヒロインである。
ヒロインであるレオノーラとセヴァンは、物語の冒頭で悪魔の襲撃事件の際に出会う。彼がレオノーラを知っていれば、もう物語が始まっていることを意味する。
しかし。
「誰だ、それは」
セヴァンの目が、わずかに細くなった。
(やっぱり、物語は予定通りに動いている)
ということは、私がここにいること自体が既に、原作の流れを乱しているわけで。
侯爵家に囲われた悪役なんて存在しないのだから、なんとしても物語開始前までに逃げ出さなくてはならない。
「じゃあ、ちゃんと貴方に協力すれば離婚してもらえる?」
「は?」
「私は、田舎に引きこもって、素朴な好青年と結婚したいの! 普通の幸せが夢なの!」
領地に引きこもった暁には、性格の良い青年と結婚し、慎ましい結婚式を挙げて小さな家で二人でひっそりと幸せな余生を過ごす予定なのだ。
だが、そんな私の夢を壊すように、セヴァンは立ち上がって私にグッと顔を寄せた。
「他の男の話なんてするなよ。俺の可愛い悪魔」
私の首輪についた、小さな鎖を引っ張ってセヴァンは怪しげに微笑むのだ。
◇
その数日後のことだった。
セヴァンは用事があると言って朝から出かけてしまったので、私は手持ち無沙汰のまま中庭に出てぼんやりしていた。
(あーあ、なんか。とんでもないことになってしまった……)
首元の輪っかをいじりながら、私は盛大な溜息をついた。
私は、小説の流れに抗いたいとか、運命を変えたいなんて大それたことは考えていない。ただ、自分が死にたくなかっただけなのだ。
「普通の人生送りたかったなぁ……」
黒幕にならずに、人並みの幸せを手に入れて物語の隅っこでひっそりと死ぬ。そんなに過ぎた望みではないと思う。
雑草をプチプチと抜いていると、不意に後ろから腕を引かれた。
(なに!?)
振り返りざまに魔力を構えて戦闘態勢を取れば、そこにいたのはセヴァンだった。
「なによ、急に……用事は終わったの?」
「ついてこい」
「どこへ!」
手を引かれながら叫ぶと、セヴァンは何でもないように告げた。
「結婚式を挙げる」
「えっ、まさか今から!?」
「駄目だったか?」
もしかして、さっきまで出かけていたのも結婚式の準備だったり……するのだろうか。
というか、契約結婚の夫婦なのだから結婚式なんて不要なのでは。
「ちょっと待ちなさいよ、話が早すぎ!」
当日知らされる結婚式なんて聞いたことが無いし、あまりに怪しすぎる。
私が彼に抗うようにその場に立ち止まると、突然、ふわりと体が浮き上がった。
(えっ)
気づけば、セヴァンの腕の中にいた。いわゆるお姫様抱っこというやつで、私は完全に宙に浮いている。
「ちょ、ちょっと! 降ろしなさい!」
「嫌がるから抱えた」
「何よそれ!」
暴れようとして、ふと目の前の顔に気づいた。
近い。あまりにも近い。整いすぎた目鼻立ち、長い睫毛、日差しを受けてギラギラと輝く銀髪。
ああ、こんな至近距離で見るものじゃなかった。
「……っ」
「行くぞ」
この意地悪な男はそれだけ言って、私を無理矢理馬車に乗せるのだった。




