1話 それは私を殺す男
これは、あくまで契約結婚のはず。
それなのに――。
「ほら、ご褒美だぞ」
私の顎が持ち上げられ、無理矢理に唇を押し付けられる。
とろりと蜂蜜のように流れ込んできた唾液は、頭も体も蕩けそうなほどに甘い。
それは、悪魔の私にとって、最もおいしいご馳走で。
「セヴァン、もう、やめっ……」
「なんだ。もうお手上げなのか、俺の可愛い悪魔は」
(思考がまとまらない。体が熱い。これは悪魔の本能のせいで、私は別に――)
セヴァンの指が顎から頬へと滑り、そのまま髪をかき上げるようにして耳に触れた。
「そんな目で見られたら、余計に虐めたくなってしまうな」
「……んっ」
月の光を受けて輝く銀色の髪も、夜に溶けてしまいそうな深く澄んだサファイアの瞳も、すべてが芸術品のように美しいのに、セヴァンは余裕なさげに私だけをじっと見つめていて。
本当なら、聖女のヒロインと結ばれているはずの彼が、悪役の私と二人きりで口づけを交わしているなんて、どうかしている。
「お前だけだ、リリア。俺が欲しいのは」
もう後悔の念に駆られたところで、今更遅いのかもしれない。
だって、私も彼の背中に腕を回して必死に受け入れてしまっているのだから。
――私を殺すはずの男、なのに。
【侯爵様、これは”悪魔”で契約結婚です!】
「お目覚めになったのですか? リリア様!?」
飛び込んできたメイドの声で、私は我に返った。
(……リリア様? というかなんでメイド?)
聞き慣れない名前のはずなのに、どこかで聞いたことがあるような気がして、ぐるぐると頭の中で記憶が巡る。
(なんか、体も軽いし……)
「なんでメイドが」とか、「ここはどこなの」とかとか聞きたいことはたくさんあったのだけれど、自分の手が異様に小さいことに気が付いた私に嫌な予感がよぎった。
恐る恐る視線を上げると、部屋の隅に姿見が置いてあった。そこに映っていたのは、見知らぬ子どもの顔で。
見間違いかと思って鏡に近づけば……薄紫の髪に、真っ赤な瞳のとんでもなく整った幼女がそこにいた。
(ど、どういうことなの!?)
心臓が跳ね上がった。
自分の手を見て、髪を引っ張って、もう一度鏡を見る。どこをどう確認しても、やっぱり見知らぬ誰かの体だった。
「誰、これ……」
「ま、まさか、頭を打たれて記憶喪失にでもなってしまわれました? すぐにお医者様を!」
「えーっと……」
「あなたは、イーキンズ家の唯一の女性です。何かあれば、旦那様がショックで倒れてしまいますよ!」
ばたばたと部屋の外へ駆け出していくメイドの姿を見ながら、私は呆然としていた。
イーキンズ家。
その言葉が耳に入った瞬間、頭の中で記憶がかちりと噛み合ったのだ。
「う、嘘でしょう!?」
私は、どうやら転生というものをしてしまったらしい。
◇
「頭を打ったことによる一時的な記憶障害ですな」
医者がそう診断を下している間も、私の頭の中では嵐が巻き起こっていた。
ここは、間違いなく前世で読んだ小説の世界だ。
タイトルは『聖なる夜に口づけを』。
聖女の主人公が、悪魔を憎む『悪魔狩り侯爵』と共に、人の魂を食べる悪魔たちを討伐していく中で恋に落ちる、王道の恋愛ファンタジーだ。
明るくて真っすぐなヒロインと、そんなヒロインを溺愛する甘々なヒーローが本当に可愛くて、何度も読み返した、大好きな物語だった。
そんな感動のストーリーに立ちはだかるのが、悪魔を操っている黒幕だ。
人間と悪魔のハーフという出自を持ち、その美貌ゆえに男爵家の養女として引き取られた女。
幼い頃から周囲を利用することしか考えず、金も男も大好きで、人間の魂を食べまくっている、生まれながらの悪女。
最後はヒーローに銀のナイフで心臓を一突きされて、あっけなく絶命する。
それが、私。リリア・イーキンズだ。
(……そんな最後は、絶対にお断りよ!)
医者の声が遠くなっていく中、私は布団の上で静かに拳を握った。
今は王都の屋敷に住んでいるが、養父に頼めばイーキンズ男爵領へ行くことはできるはずだ。
男爵領は、のびのびとした田舎で物語には全く関わらないから、引きこもっていれば侯爵に殺されることもないだろう。
人の良い青年と結婚して、スローライフというのも悪くない。
今すぐにでも準備しようと決意を固めようとしたけれど。
(悪魔の犠牲になる人たちは、いなくならない)
私が退場したところで、悪魔はいなくなりはしない。物語が始まる前から、たくさんの人間が魂を喰われて死んでいるのだ。
(どうせ引き籠もるなら、それまでに出来る限りの人を、助けたい!)
今、私は8歳。物語が始まるのは、リリアが18歳のときだ。
猶予はまだ10年もある。
「よし、それなら訓練よ!」
突然叫んだ私に医者がぎょっとした顔をしたけれど、気にしないことにした。
◇
「よっと」
夜の空気を切って、私は屋敷の窓から飛び出した。背中から翼を広げると、ふわりと体が浮き上がる。
(便利な体だこと)
私は悪魔の血のおかげで、人間には到底できないことがいくつもできた。翼で空を飛ぶこと、暗闇の中でも獲物の気配を読むこと、とてつもなく強力な魔法を扱うこと。
訓練を始めてまだ数か月だというのに、夜ごと試すたびに出来ることが増えていく。
問題は、この姿を誰かに見られたらおしまいだということだけど、悪魔というのは身体能力が異常なため、見つかっても逃げられれば全く問題なかった。
今夜も街の上空をゆっくりと旋回しながら、気配を探る。
悪魔の匂いは、人間のそれとは全然違う。慣れてしまえば、遠くからでもすぐにわかった。
(……いる)
翼を畳んで降り立つと、大型犬のような姿の悪魔が少年に迫っていた。
切れ長の青い瞳。幼いながらも端整な顔立ちは泥まみれになっている。
それでも逃げようとせず、ただ真っ直ぐに悪魔を睨みつけていて。
(このままだと危ない!)
考えるより先に、体が動いていた。
地面を蹴って跳び上がった私は、悪魔の頭を踏み台にして魔力を凝縮して首元に叩き込んだ。
悪魔を殺すには銀の剣を使うのが効果的なのだが、剣を握った私の体も焼け焦げてしまうため、こうやって力技に頼るしかない。
だけど、私もまだ幼いから上手く体も動かなくて、仕留め損ねてしまう。
「……痛っ」
びゅっと空気を切る音がするとともに、悪魔の爪が私の頬を切った。
じわりと血が滲み、頬に熱が集まっていく。
「せっかくの綺麗な顔に何するのよ!」
私が怒りに任せて魔力を押し込めば、悪魔は驚いたように顔を歪めた。
それがトドメとなり、霧のように霧散したのを見届けて、私は悪魔の魂を瓶の中に詰める。
「大丈夫? 怪我は無い?」
私が縮こまった少年に声をかければ、小さく頷いた。
「僕は大丈夫だけど、君の顔に傷が……」
「ああ、これは」
あの悪魔、まあまあ派手に傷をつけてくれたらしい。
全く、うら若き少女に傷を負わせるなんて、悪魔としてのプライドも感じられない。
きっと傷跡になってしまうけれど、この少年の命を救えたと思えば安いものだ。
「……君は悪魔狩りなのか?」
少年が、目を丸くして私を見上げた。
「そ、そんなところかしら」
「そっか、まだ僕は全然で。……いつか絶対、悪魔を殺すんだ」
少年はそう言って、腰に下げていた剣を抜いて見せてくれた。子どもの腕には不釣り合いなほど大きな、銀色の短剣だ。
(……ひっ)
瞬間、本能的にぞわりと鳥肌が立った。銀は悪魔にとって天敵だ。
「ああっ、こっち向けないで!」
思わずのけ反った私を見て、少年はきょとんとしたあと、剣を鞘に収めた。
「ごめん。……これ、父様の形見なんだ」
「形見……?」
「僕の家族は、悪魔に殺されたから。だから、僕が仇を討たないといけない」
まだこんなに小さいのに、この子は夜の街をたった一人で、悪魔を探して歩いていたのだ。
「あのねぇ。仇討ちも結構だけど、今死んだら元も子もないのよ。分かる?」
「……でも」
「でもじゃないの。悪魔を殺したいなら、強くなってからにしなさい。それと」
私は少しだけ屈んで、少年と目線を合わせた。
「君は今日、逃げなかった。それだけで十分、偉いわ」
頭を撫でると、少年の青い瞳が、大きく見開かれた。
「……と、とにかく! 気を付けて帰りなさいね。子どもなんだから」
私はそう言って、地面を蹴った。
「君も子どもだろ……って」
彼の言葉を待たずに、私は高く飛び上がったあと、屋根へと降り立つ。じゃあねと軽く手を振って夜の闇に溶けていった。
「じゃあ、いただきまーす」
瓶から取り出して、ぱくりと悪魔の魂を食べた。
お世辞にも美味しいとは言えないが、これで私の欲望は落ち着く。
欲望が暴走して、黒幕にならないために必要なことだ。
「あ、くま……?」
そのとき少年がどんな顔で私を見送っていたか、私は知る由もなかった。
◇
そうして。
月日は流れ、私は17歳になった。つまり、物語が始まるまで、あと1年。
今日も今日とて、私は夜の王都を飛んでいた。
私のおかげなのか否か、王都の治安はずいぶんと良くなっている。
(逃亡計画も上手くいきそうだし……)
先日、お父様に領地へ行きたいと申し出たら、あっさり許してもらえた。
ただ、別れのパーティーでめちゃくちゃ泣かれてしまって、こちらが申し訳なくなるほどだったけれど。
お父様は本当に良い人なので、いつかちゃんとお礼がしたいと思っている。
(こんなに上手くいくなんて……)
自分でも驚くくらい、物事がスムーズに進んでいた。
ただ、大きな悩みが一つあった。
年齢が上がるにつれて、悪魔としての力は増しているのだ。それ自体はいいのだが、問題は、力と一緒に欲望まで強くなってきていることだった。
……人間を、襲いたくなる。
衝動と呼ぶしかない感覚が、夜になると決まって込み上げてくる。
悪魔の魂を食べたら抑えられていたそれは、だんだんと抑えがきかなくなっている。
(絶対に、人間を襲ったりしない!)
自分に言い聞かせながら、今夜も気配を辿って路地裏に降り立つ。悪魔が一体、人間を追い詰めていた。
最近は治安がいいからか、気を抜いて一人で出歩く人間が後を絶たない。
「ほら、早く逃げなさい」
「あっ、ありがとうございます!」
いつも通り、人間を逃がして、秒で悪魔を仕留めた。
リリアの魔力は驚くほど強くて、やはり主人公たちのラスボスになる女なだけあるなと自虐的に感心する。
そうして、仕留めた悪魔の魂をするりと飲み込む。
そう。
ここまでは、何も変わらないルーティンのはずだったのに――
「動くな」
「……きゃっ!?」
気配も足音もなかった。
気づいたときには私は、壁に押し付けられていて、顔の横に鋭い銀のナイフが突き立てられていた。
「お前は何者だ?」
「……た、ただの通りすがりで」
「何者だ、と聞いているんだ」
身動きひとつ取れない。
悪魔の力を使おうにも、銀のナイフを突き立てられていたら魔力も引きだせない。
「悪魔を殺していたな。だが、お前は悪魔狩りではなさそうだ」
「……」
見たところ、彼はかなり手練れの悪魔狩りだ。
きっと、下手な嘘をついても、すぐに見透かされる。
私は諦めたように小さく呟いた。
「……私は悪魔、です」
「殺す」
「待って、待って!」
首元に手がかけられ、ぐっと締め上げられて、息が詰まった。
この人は本気で、私を殺そうとしている。
涙目になりながら、情けなくも命乞いするように弁明する。
「わ、私、悪魔と人間のハーフで! 本当に人間を助けたかっただけなの……」
「悪魔から獲物を取ろうとしただけだろ」
「人間を食べたことは一度もないもの! 本当よ!」
「ふうん」
男はわずかに顔を近づけた。
「だが、俺を見てだらしなく涎が垂れてるぞ」
「……っ」
(そ、それは! 悪魔の血の、本能的な反応で……っ)
心の中で言い訳をしてみるけれど、私がこの男を食べてしまいたいのは事実だった。
悔しいことに、この男は他のどの人間よりも美味しそうに見えるのだ。
一気に銀のナイフが振り上げられ、死を覚悟した瞬間。
月の光が差し込んで、私の顔が明るく照らした。すると、なぜか男の瞳が私の顔を見つめて驚いたように見開かれた。
「お前……」
長い沈黙のあと、私の頬をゆっくりと撫でた。愛おしそうに、私の頬の傷跡をなぞる。
(……?)
やがて、彼のナイフを持つ手が下りて、首元の手が緩んでいく。
ゴホゴホと咽ながら彼のことを見つめれば、彼はなぜか口元を覆いながら目を細めていた。
「気が変わった」
そして、唐突に言った。
「俺と――結婚しろ」
(え……?)
ちょっと待って欲しい。
結婚、と言っただろうか。
今、会ったばかりの相手に、殺そうとした相手に、悪魔の私に、求婚しているというのだろうか。
「は、はい!?」
「一目惚れした」
「そんなはずないでしょ!」
真顔で平然と嘘をつく彼を、ぎりぎりと見上げる。
この人、ちょっとおかしいんじゃないだろうか。
いや、それよりも。
「そもそも! 貴方は一体誰なのよ!」
名乗りもせずに、他人に求婚するなんて非常識も良いところだ。
男はこちらをまっすぐ見下ろしたまま、一拍置いて答えた。
「――俺は、セヴァン・フォン・シルヴァ。悪魔狩りだ」
「えっ」
セヴァン・フォン・シルヴァ。
それは、「聖なる夜に口づけを」のヒーローであり、私を、殺す男の名前だ。
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