名前は
「どういうことだ……」
男が不安そうな表情でこちらに問い掛ける。
当然だ。
娘が会って間もない男について行くと言うのだから。
「少しだけ……少しだけ進行が止まったの」
「本当か」
「うん」
少しの沈黙。
「……分かった」
寂しそうな、安堵したような、何とも言えない表情で、男が言う。
「全て終わったら必ず帰るから」
エルもまた表情に影を落としている。
「ああ」
「ありがとう、お父さん」
別れを惜しむ父子は最後にきつく抱きしめあう。
「この子を、どうかよろしくお願いします」
「任せろ。命に変えても守るさ」
低く短く返された言葉に、覚悟を感じた。
ーーありがとう。
その感謝をできることなら覚え続けたいと願う。
……わかっている。
もう、己の名前すら分からないのだから、贅沢であるというのは。
傾き始めた陽が石畳に長い影を作る。
人通りは少なく、二人の歩く音だけが響いていた。
「良かったのか?」
短く聞く。
「……はい。近くにいれば、どんな影響があるのかわかりませんから」
「そうか……」
”記憶浸食症”は、未知の病。
未だに治療法、原因、発生時期が不明だ。
それに患った人間の行く末は決まって悲惨である。
ーー…………
再び、無言で歩く。
しかし、しばらくしてーー
「……お兄さん」
口火を切ったのはエルだった。
足を止めたエルにつられる。
ーー歩く音が止んだ
「なんだ」
「お兄さんの名前、聞いてません」
「必要か?」
「これから行動を共にするのに、名前も知らないなんておかしいと思います」
はっきりと目を見て言う。
しばらく視線が交差する。
先に視線を外したのはーー
「……カイン」
ーーカインだった。
「カイン」
名前をよばれる。
「…なんだ」
言葉が詰まる。
「いえ、呼んだだけです」
そして歩き出す。
「………変な奴」
遅れて歩き出し、肩を並べる。
カイン。
今は。
ーーカインだ。
破壊者は、半身を得る。




