警戒の影
前回まで:
棘の翼の温室で起きた人間学生の規則違反を仲裁した私は、吸血鬼公爵家の長男アレクサンドル・ヴァルハラと話す機会を得た。
彼の言葉は、学院の均衡が少しずつ揺らぎ始めていることを示唆していた。
機械の心臓の異常は、まだ静かに続いている。
温室事件の翌日、私は棘の翼の温室で後処理をしていた。
低位の人形たちに指示を出しながら、魔力植物の管理記録を確認していると、アレクサンドル・ヴァルハラが静かに近づいてきた。彼は金色の長い髪を後ろで軽くまとめ、氷藍の瞳で私を見下ろした。
「リリアーナ、昨日の件の続きで、少し話がある。」
「アレクサンドル様、どうぞ。」
彼は温室の隅のベンチに腰を下ろし、穏やかだが真剣な声で言った。
「人間の学生たちの棘の翼への立ち入りが、最近明らかに増えている。表向きは『学習』や『憧れ』と言っているが、実際はただの好奇心だ。我々異類側はすでに警戒を強めている。君は女仆長として両翼の調整を任されている立場だ。このままでは、いつか本当の摩擦が生まれる可能性がある。」
アレクサンドルの言葉には、吸血鬼公爵家としての責任感と、異類を守るための明確な警戒心が感じられた。彼は三年生として、異類学生たちのまとめ役の一人でもあった。
私は淡々と答えた。
「私の任務は学院の秩序維持です。どちらの側にも害が及ばないよう、最大限の調整を行います。」
アレクサンドルは私の答えを聞き、わずかに目を細めた。
「君の答えはいつも完璧だな。……だが、君自身はどう思っている? 人形としてではなく。」
その質問に、私は一瞬言葉に詰まった。
胸の奥で歯車が小さく軋んだ。
ギ……
魔力の流れがわずかに乱れたが、私は即座にそれを押し殺した。
「……私は人形です。感情を持つ必要はありません。秩序を守るだけです。」
アレクサンドルは少しの間、私を見つめていたが、それ以上追及しなかった。
「わかった。君の立場を尊重する。ただし、もし何か異変を感じたら、遠慮なく私に相談してくれ。異類側としても、君の協力は必要だ。」
彼はそれだけ言い残し、温室から去っていった。
私はその場に残り、胸の異常を強く意識した。
これは誤作動だ。
人形にこんな反応は不要だ。刻印の命令に従い、すぐに抑制しなければならない。
午後、私は霧の翼の図書室で低位の人形たちの作業を確認していた。
そこでは、人間学生たちがいつものように賑やかに集まっていた。エミリア・ローズウッドが中心になり、昨日の一件を話題にしている。
「アレクサンドル様、昨日ちょっと怖かったけど……でもやっぱりカッコいいよね。金髪が本当に綺麗で……」
「わかる! でも近づきすぎると危ないって感じがする……」
少女たちの会話は、憧れとわずかな恐怖が混じった微妙なバランスだった。人間側は異類の美しさに惹かれながらも、無意識に「違う存在」であることを感じ始めているようだった。
私は静かに本の整理をしながら、そんな会話を聞いていた。
人形である私は、こうした感情の揺らぎをただ観察するだけだ。
……それなのに、なぜ胸の機械は、今日も静かに回り続けているのだろう。
夕方、両翼の境界付近で、もう一件小さな報告が入った。人間の男子学生が棘の翼の学生に「剣術の練習を見たい」と近づき、軽い口論になったという内容だった。
私はすぐに現場へ向かい、穏やかに仲裁した。
「両翼の学生の皆さん、ここは共存の場です。互いに敬意を持ってください。」
人間の学生は少し不満げだったが、異類の学生は無言で引き下がった。
事件を処理しながら、私は改めて実感した。
学院の均衡は、表面上は保たれている。
しかし、人間側の好奇心と異類側の警戒心の間で、小さな亀裂が少しずつ広がり始めている。
私は女仆長として、その亀裂を埋める役割を担わなければならない。
胸の異常は、まだ続いている。
だが、私はそれを認めない。
人形として、秩序を守り続けるだけだ。
夜、自室に戻った私は、鏡の前に立って自分の姿をじっと見つめた。
完璧な瓷の肌、銀灰色の髪、淡い金と血の赤が混じった瞳。
すべてが設計通りの人形だ。
「……これは、誤作動だ。」
私は静かに呟き、刻印の命令に従って異常を強く抑制した。
しかし、心のどこかで、学院の均衡が今後どうなっていくのか、という疑問が小さく芽生え始めていた。
(第8章 終わり)
次回、学院内の微妙な亀裂が、少しずつ目に見える形になり始める。
人間の好奇心と異類の警戒心の間で、私は女仆長として対応に追われることになる。
機械の心臓の異常は、依然として静かに続いている。
(第9章へ続く)




