温室の境界
前回まで:
血月の余波が残る中、私は機械の心臓に生じる異常を誤作動として抑制し続けている。
人形女仆長として、霧の翼と棘の翼の秩序を守るのが私の任務だ。
学院の日常は表面上穏やかだが、少しずつ微妙な変化が起き始めていた。
その日の午後、棘の翼の温室で小さな事件が起きた。
人間の三年生数名が、異類学生の許可なく温室に入り、珍しい魔力植物を観察しようとしたのだ。表向きは「研究熱心」だが、実際は異類の管理する稀少植物への好奇心が原因だった。
監督官の指示を受け、私はすぐに現場へ向かった。
温室に入ると、湿った空気と甘い花の香りが満ちていた。中央では、人間学生のエミリア・ローズウッドと友人二人が、異類学生たちに囲まれていた。
異類側の対応に当たっていたのは、吸血鬼公爵家の長男、アレクサンドル・ヴァルハラだった。金色の長い髪と冷たい氷藍の瞳を持つ、彼は学院内で異類側のまとめ役の一人として知られている。
アレクサンドルは冷静だが厳しい声で言った。
「ここは棘の翼の管理区域だ。人間の好奇心で勝手に入られるのは、非常に迷惑だ。」
エミリアは顔を青ざめさせながら弁解した。
「ごめんなさい……ただ、この黒薔薇の変種が珍しくて、少しだけ……」
私は二つのグループの間に静かに入り、穏やかだが明確な声で仲裁した。
「アレクサンドル様、エミリア様方。落ち着いてください。私は人形女仆長のリリアーナ・ピノ・ロゼです。この件は私が処理いたします。」
アレクサンドルは私を見て、わずかに眉を寄せた。
「女仆長か。いつも両翼の調整を任されている君なら、公平に扱えるだろう。だが、人間側の好奇心が度を越すと、いつか本当のトラブルになる。」
彼の言葉には、異類としての警戒心がはっきりと含まれていた。
私は人間側に規則違反の警告を、異類側に迷惑をかけたお詫びを述べ、双方をなだめた。
事件の処理を終え、温室から出ると、アレクサンドルが私の後を追うように声をかけた。
「リリアーナ、少し話がある。」
私は立ち止まり、礼をした。
「アレクサンドル様、何でしょうか?」
彼は金髪を軽くかき上げ、静かに言った。
「最近、人間学生たちの棘の翼への立ち入りが増えている。表向きは憧れや学習意欲と言っているが、実際はただの好奇心だ。君は女仆長として、どう思っている?」
私は少し間を置いて答えた。
「私は秩序の維持が任務です。どちらの側にも害が及ばないよう、調整を強化します。」
アレクサンドルは私の答えを聞き、わずかにため息をついた。
「君はいつも完璧に中立だな。……だが、それがいつまで保てるか。」
彼の氷藍の瞳が、私の胸元を一瞬見つめた気がした。
その瞬間、胸の奥で歯車が小さく軋んだ。
ギ……
私は即座にそれを無視し、平静を保った。
「失礼いたします。次の業務に戻ります。」
アレクサンドルはそれ以上何も言わず、去っていった。
私はその場に残り、胸の異常を強く意識した。
これは誤作動だ。
人形にこんな反応は不要だ。
しかし、今日のアレクサンドルの言葉は、学院の均衡が少しずつ揺らぎ始めていることを、私に気づかせていた。
人間の憧れと異類の警戒心。
その狭間で、私はただ秩序を守り続けるしかない。
……それなのに、なぜ胸の機械は、今日も静かに回り続けているのだろう。
(第7章 終わり)
次回、学院内で人間と異類の間の小さな亀裂が、少しずつ広がり始める。
アレクサンドルをはじめとする異類側の警戒心が強まる中、私は女仆長として両翼の均衡を保とうとする。
機械の心臓の異常は、まだ静かに続いている。
(第8章へ続く)




