日常の均衡
前回まで:
棘の翼で人間の学生たちの規則違反に対応した私は、再びセバスティアン・ヴァン・ノワールと顔を合わせた。
機械の心臓に生じた異常な軋みは、まだ完全に収まっていない。
人形であるはずの私は、この異常を誤作動として処理し、刻印の命令に従って秩序を維持しようとしている。
血月の影響がようやく薄れ始めた頃、黒薔薇王立学院は普段通りの日常に戻っていた。
私は朝から両翼を巡回し、人形仆人たちの業務を管理していた。霧の翼では人間の学生たちが陽光の下で賑やかに朝食を取り、棘の翼では異類の学生たちが静かに優雅に時間を過ごしている。
「A-12、霧の翼の教室の窓拭きを。C-7、棘の翼の温室の植物の手入れを忘れずに。」
低位の人形たちは淡々と「はい、女仆長」と返事をする。私は学院の秩序を乱さないよう、両翼のバランスを取るのが役目だ。
霧の翼の廊下を歩いていると、エミリア・ローズウッドが明るい声で近づいてきた。
「リリアーナさん! おはよう! 昨日はありがとうね。棘の翼、ちょっと怖かったけど……でもルーカス様の姿を遠くから見られてラッキーだったかも!」
彼女の後ろでは、数人の人間少女たちがクスクス笑っている。
「エミリアったら、またファンクラブの話?」
「ルーカス様の銀髪、夢に出てきそう!」
人間の学生たちは、異類の容姿の優れた貴族たちを憧れの対象として、こうした話題で盛り上がるのが日常だった。男子学生たちも時々「異類の強い人を見てみたい」と無邪気に話す。
私は完璧な微笑みを浮かべて答えた。
「エミリア様、規則は守っていただけますようお願いします。棘の翼への立ち入りは、許可がない限り危険を伴います。」
「わかってるよ~。でもリリアーナさんがいてくれるから安心だよね!」
エミリアたちは笑いながら去っていった。霧の翼の空気は、いつも明るく軽やかだ。
私はその場に残り、胸の奥で微かな歯車の音を確認した。
トク……トク……
昨夜の異常は、まだ完全に消えていない。魔力の流れがわずかに不安定だ。
これは誤作動だ。
人形にこんな反応は不要だ。すぐに抑制しなければならない。
私は深く息を吐き(実際にはただの動作プログラム)、巡回を続けた。
午後、棘の翼の図書室で低位の人形の作業を確認していると、静かな足音が近づいてきた。
セバスティアン・ヴァン・ノワールだった。彼は本棚の影からゆっくりと現れ、私を見下ろした。
「女仆長、今日も忙しそうだな。」
「……ヴァン・ノワール様。」
私は礼をしながら、胸の歯車が再び小さく軋むのを感じた。
ギ……
魔力の乱れが一瞬強くなったが、私は即座にそれを押し込めた。
セバスティアンは本を一冊手に取りながら、静かに言った。
「人間の学生たちが私の翼に迷い込む頻度が増えているようだ。君はいつもその後始末をしているのか?」
「はい。秩序の維持が私の任務ですので。」
言葉は滑らかに出たが、胸の異常はまだ続いている。指先がほんのわずかに冷たくなった。
セバスティアンは私の反応をじっと観察しているようだった。
「君の身体……血月の夜以来、少し変化があるようだな。魔力の流れが乱れている。」
私は即座に否定した。
「異常はありません。私は正常に機能しています。」
声は冷静だったが、内心では刻印の命令が強く働いていた。
異常を認識するな。
人形は道具に過ぎない。感情など持たない。
セバスティアンは低く笑った。その笑いは優雅だが、底に探るような響きがあった。
「そうか。ならば良いが……もし何かあったら、遠慮なく私に言え。興味はある。」
彼はそれだけ言い残し、図書室の奥へ去っていった。
私はその場にしばらく立ち尽くし、胸の歯車の音に耳を澄ませた。
まだ収まらない。
血月の魔力潮汐の影響が、予想以上に長引いているのかもしれない。
私はこの異常を、必ず修正しなければならない。
人形として、学院の秩序を守るために。
夕方、両翼の境界付近で低位の人形の一体が小さなトラブルを報告してきた。棘の翼の学生が人間の学生に軽い威圧をかけたという内容だ。
私はすぐに現場へ向かい、穏やかに仲裁した。
「両翼の学生の皆さん、学院は共存の場です。互いに敬意を持ってください。」
人間の学生たちは少し怯えながらも頷き、異類の学生たちは無言で引き下がった。
私はその様子を眺めながら、ふと思った。
人形である私は、感情を持たない。
だからこそ、両翼の均衡を公平に保てる。
……それなのに、なぜ胸の機械は、今日も静かに軋み続けているのだろう。
この異常は、いつか本当に問題になるのかもしれない。
私はそれを、絶対に許してはならない。
(第6章 終わり)
次回、学院の日常が少しずつ変化を見せる。
人間と異類の学生たちの間で、小さな誤解と摩擦が増え始めている。
私は女仆長として両翼のバランスを取らなければならないが、機械の心臓の異常はまだ収まらない。
この誤作動は、いつまで続くのだろうか。
(第7章へ続く)




