広がる影
交流茶会から数日が経った。
学院の日常は表面上変わらないように見えたが、実際には少しずつ空気が重くなり始めていた。
霧の翼では、人間学生たちの会話の中で棘の翼の話題が増えていた。以前は「憧れ」の一言で済ませていたものが、今では「もっと近くで見たい」「本当はどういう人たちなんだろう」という具体的な欲求に変わりつつあった。
棘の翼では、異類学生たちの態度が静かに硬くなっていた。彼らは人間学生が近づいてくるのを以前より警戒し、会話も最小限に抑えるようになっていた。
私は女仆長として、その変化を最も近くで感じ取っていた。
ある午後、両翼の境界にある共同の休憩室で、アレクサンドル・ヴァルハラと再び顔を合わせた。彼はいつものように金色の長い髪を後ろでまとめ、氷藍の瞳で私を見た。
「リリアーナ、最近の学院の雰囲気、どう感じている?」
アレクサンドルは直球で聞いてきた。
私は少し間を置いて答えた。
「人間学生たちの興味が、少し積極的になり始めているようです。一方、異類学生たちの警戒心も強まっているように見えます。」
アレクサンドルは軽く頷き、声を低くした。
「その通りだ。交流茶会以降、人間側は『もっと知りたい』という欲求を隠さなくなってきた。我々異類側は、それを『危険な好奇心』として見ている。君は両翼を自由に行き来できる立場だ。この変化を、どのように捉えている?」
彼の言葉には、吸血鬼公爵家としての責任感と、将来への明確な懸念が込められていた。
私は静かに答えた。
「私は秩序の維持が任務です。両翼の学生が互いに敬意を持って接するよう、調整を続けます。」
アレクサンドルは私の答えを聞き、わずかに目を細めた。
「君の答えはいつも合理的だ。……だが、このままでは、いつか調整だけでは済まなくなる日が来るかもしれないな。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に説明のつかない重さを感じた。ただの物理的な違和感ではない、何かもっと根深いもののように思えた。
私はそれを無視し、平静を保った。
「必要であれば、両翼のルールをさらに明確にします。」
アレクサンドルはそれ以上追及せず、静かに頷いた。
「わかった。君の努力に期待している。」
彼が去った後、私は休憩室の窓辺に立ち、永夜の空を眺めた。
学院の均衡は、まだ保たれているように見える。
しかし、その下では、人間側の好奇心と異類側の警戒心が、静かに、しかし確実にぶつかり合い始めていた。
私は女仆長として、その狭間に立っている。
この変化が今後どう広がっていくのか。
私はただ、秩序を守り続けるしかない。
それが私の存在意義だ。
夜、自室に戻った私は、ベッドに座り、静かに手を胸に当てた。
胸の奥で、何かがゆっくりと動いているような気がした。
私はそれを、深く考えないようにした。
人形である私は、感情を持たない。
だからこそ、この学院の均衡を、できる限り長く保てるはずだ。
(第10章 終わり)




