トロールVS敷次郎
ドン…。
重い足音が、坑道の壁を震わせた。
ヤマトは出口へ向かおうとしたが、その前に暗闇の奥から巨大な影が現れた。
「……嘘だろ」
そいつは、人の形をした魔物だった。
岩のように盛り上がった筋肉。太い腕。口から突き出た二本の牙。そして、ヤマトを見下ろす大きな顔。
トロール。
この世界の魔物について、ヤマトが読んだ本にも描かれていた。
しかし、知識として知っていることと、目の前に立たれることはまるで違う。
トロールは低く唸り、手にした棍棒を持ち上げた。
「待っ…!」
言葉が通じる相手ではない。
棍棒が振り下ろされた。ヤマトは横へ飛び退く。
轟音とともに床が砕け、石片が頬をかすめる。
まともに受ければ終わりだ。
そう理解した瞬間、体が勝手に動いていた。トロールの懐へ踏み込み、短剣を振るう。刃が腕を浅く切り裂いた。
手応えはあった。
だが。
「は?」
傷口が盛り上がり、避けた肉がみるみる塞がっていく。ほんの数秒で、数は跡形もなく消えてしまった。
再生能力。
そう呼ぶべきものなのだろう。
トロールが再び棍棒を振るう。
ヤマトは転がるように避け、壁際へ逃げた。息が上がり、手のひらが汗で滑る。
怖い。
とにかく怖かった。
逃げ道はトロールの向こう側。狭い坑道では、大きく回り込むこともできない。
それでも、ここで諦めるわけにはいかなかった。
ヤマトは隙を見つけては短剣を突き立てた。腕、脚、脇腹。攻撃が当たるたび、トロールは傷を負う。そして、その傷はすぐに治っていく。
「くそっ!」
息が続かない。
トロールは疲れた様子もなく、ヤマトを追い詰めていく。
やがて、足元の足に躓いた。
「うわっ!」
身体が傾き、膝をつく。
その瞬間、トロールが棍棒を大きく振り上げた。
逃げられない。
ヤマトは反射的に腕を上げた。
死ぬ。
そう思った瞬間、足元を小さな影が駆け抜けた。
管狐だった。
トロールの視界を横切った小さな狐が、ほんの一瞬だけその顔を見上げる。
トロールの動きが止まった。
目の焦点が合わなくなったかのように、巨大がふらつく。
「今だ!」
ヤマトは地面を蹴り、どうにか距離を取った。
管狐はそのまま走り去り、岩陰へと姿を消した。
トロールが頭を振る。
やがて正気に戻ると、低い唸り声を上げてヤマトを探し始めた。
ヤマトは岩陰に身を隠し、荒い息を押し殺した。
助かった。
けれど、一時的な隙にすぎない。トロールはまだ健在で、ヤマトを見つければ再び襲いかかってくるだろう。
どうすればいい。
考えようとしても、恐怖で頭がうまく働かない。
そのときだった。
再び、あの悪寒が襲ってきた。
全身の爪が剥がれるような、激しい悪寒。
トロールも異変を感じたのか、動きを止めて背後を振り返った。
向こうから、何かが歩いてくる。
青白い顔。痩せ細った身体。人間に似ているのに、人間とは思えない不気味な姿。
敷次郎だった。
そいつはトロールの背後に立つと、ぼそぼそと何かを呟いた。言葉なのか、それともただの音なのか。ヤマトには聞き取れなかった。
トロールは敷次郎に気づくと、標的を変えた。
邪魔なものを排除するかのように、棍棒を振り上げて襲いかかる。
敷次郎は、ほとんど動かなかった。
ほんのわずかに体を傾ける。
棍棒が目の前を通り過ぎた。
それだけだった。
攻撃を避けられたトロールは、間髪入れずに二撃目を放つ。
その瞬間、敷次郎の顔が歪んだ。
青白かった頬が引きつり、口が不自然に横へ広がっていく。人の口とは思えないほど大きく開いた顎。そこから覗く、鋭い歯。
次の瞬間、敷次郎が飛びかかった。
トロールの腕に噛みつく。
肉を噛みちぎる音が、坑道に響いた。
「……っ!」
ヤマトは息を飲んだ。
トロールは敷次郎を振り払おうと腕を振る。しかし、敷次郎はすぐに離れ床へ着地した。
トロールの腕から血が流れる。
そして、ヤマトがつけた傷と同じように、肉が盛り上がり始めた。
だが。
噛みちぎられた箇所だけは、塞がらなかった。
血が流れ続けている。
何度も傷を再生させてきたトロールが、初めて傷を負ったまま立っていた。
「まさか…」
ヤマトの脳裏に、先ほど思い出した伝承がよみがえる。
食べ物をねだり、与えられなければ襲ってくる妖怪。
そしてーー。
『噛まれた傷は、仏法でしか治らない』
昔どこかで聞いた一節。
敷次郎。
目の前の存在が、本当にその妖怪なのだとしたら。
トロールが再び襲いかかった。
敷次郎は最小限の動きで攻撃を避け、また噛みつく。
肩。腕。脚。
噛みちぎられた傷は、どれも再生しない。
トロールは暴れ、棍棒を振り回した。だが、敷次郎は攻撃をすり抜けていく。
やがて、トロールの動きが鈍くなった。
血を流し、片脚を引きずりながら、なおも敷次郎を叩き潰そうとする。
しかし、その一撃は空を切った。
敷次郎が飛びつく。
再び、肉を噛みちぎる音。
トロールは大きくよろめき、膝をついた。
最後に低い唸り声を上げ、その巨体が床へ倒れ込む。
坑道に静寂が戻った。
ヤマトはしばらく動けなかった。目の前で何が起きたのか、理解が追いつかない。
やがて、敷次郎が、ゆっくりとこちらを向いた。
視線が合う。
青白い顔が、ヤマトを捉えていた。
敷次郎は一歩、また一歩と近づいてくる。
「……っ」
逃げようにも、足が動かない。
敷次郎はヤマトの目の前まで来ると、口を動かした。ぼそぼそとした声。何かを訴えているようにも聞こえるが、言葉は全く分からない。
ヤマトは、はっとした。
食べ物。
敷次郎は食べ物をねだる妖怪だ。
そう思い出した途端、背負ったリュックの中に昼食が入っていることを思い出した。
ヤマトは震える手で包みを取り出し、敷次郎の前へ差し出した。
「……これ、食べる?」
敷次郎はしばらく包みを見つめていた。
やがて、それを受け取る。
その瞬間、歪んでいた顔がゆっくりと元に戻った。
大きく裂けた口が閉じ、青白い顔からは先ほどまでの異様な気配が薄れていく。
敷次郎は食べ物を手にしたまま、ヤマトを一度だけ見た。
そして、何も言わずに背を向ける。
坑道の暗闇へ、ゆっくりとその姿が消えていった。
ヤマトは最後までその背中を見つめていた。
助かった。
そう思った途端、全身から力が抜けた。
「なんなんだよ、もう…」
声が震えていた。
管狐がどこからともなく現れ、倒れたトロールの脇を通り過ぎる。
ヤマトはその小さな背中を見ながら、深く息を吐いた。この世界には自分のよく知る妖怪が存在する。そして、そのすべてが人間の都合に合わせてくれるわけではない。それを、嫌というほど思い知らされたのだった。
ついに出ました!
二体目の妖怪『敷次郎』。
坑道に出る、坑夫たちの怨念が集まった妖怪ですね。
そこには悲しい物語があるとかないとか…。




