第八話 バッカみたい
グラスの中で、氷が小さく鳴った。
僅かに残った酒を傾けながら、橘琴子はカウンターに肘をついていた。
店内には、静かなジャズが流れている。
照明は少し暗く、カウンターの向こうには酒瓶が整然と並んでいた。
ぱっと見れば、どこにでもある洒落たバーだ。
ただし。
ここに来るのは…。
人間だけじゃない…。
壁際の席では、影だけが妙に大きな男が一人で酒を飲んでいる。
奥のテーブルでは、誰も触れていないはずのグラスが時折ひとりでに動く。
そんな光景を見ても、琴子は今さら何とも思わない。
そう、何気ないいつもの光景。
「最近は、この世界で生きていくのも大変になってきたねぇ」
独り言のように呟く。
空になったグラスを見て、カウンターの向こうにいる男が静かに手を伸ばした。
白髪の混じった髪。
年齢を感じさせる顔立ちだが、どこか品のある佇まいをしている。
そして、その目元には黒いサングラス。
その奥には、目があるのかすら分からない。
ただ見ていると、そのサングラスの奥には底のない闇が続いているような気がした。
男は何も言わず、一杯のカクテルを琴子の前に置いた。
深い青。
夜の海を閉じ込めたような、静かな色だった。
「あら」
琴子がグラスを覗き込む。
「気がきくじゃない」
「……いえいえ」
男はいつものように、静かに頭を下げた。
「綺麗なお酒だねぇ」
そう言って、グラスを指先で軽く回す。
「なんてお酒だい?」
「……バタフライピー、と言います」
「バタフライ……」
グラスを見つめる目を、少しだけ細めた。
「夜の蝶ってところかしら」
男は何も答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ふふ」
琴子も笑う。
そして、グラスを口元へ運んだ。
一口。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「私、このお酒好きだわ」
「ぬらりひょん様をイメージして、お作りしましたので」
男は淡々と答えた。
「気に入って頂けて良かったです」
「……さすがじゃない」
琴子は少し嬉しそうに笑った。
「それにこの世界では琴子って名前で通ってるんだからね、覚」
「……そう、でしたね」
「ぬらりひょん、なーんて名前じゃ可愛くないじゃない」
「……そうですね」
「だから……そんなに畏まらなくても良いのよ」
「……いえ」
男は静かに首を振る。
「琴子様あっての我ら、ですので……」
「私、そんな大層なもんじゃないわよ」
琴子はそう言うと、照れを隠すようにグラスへ口をつけた。
「本当、美味しいわね。これ」
覚はそんな琴子を見つめていた。
しばらくして。
カウンターの下から、小さな瓶を取り出す。
中には、柑橘系の香りのする透明な液体が入っていた。
「琴子様は、我らにとって代え難い存在なのです」
「またその話?」
「ええ」
覚は小さな瓶の蓋を開ける。
そして。
グラスの中へ、一滴。
ぽたり。
青かったカクテルが、ゆっくりと色を変えていく。
深い青から。
淡い紫へ。
「……すごい」
琴子は目を丸くした。
「綺麗だわ」
「幾重にも姿を変えたとて」
覚は静かに言った。
「その本質に、お変わりなし」
「だからー」
琴子は困ったように笑った。
「そんなんじゃないってば」
紫色になったカクテルを、もう一度口へ運ぶ。
今度は、少し長く味わう。
「……うん」
納得するように小さく頷いた。
「やっぱり美味しい」
そんな二人のやり取りを遮るように。
「ねえ、お姉さ〜ん」
隣の席に、若い男が腰を下ろした。
二十代くらいだろうか。
髪型も服装も、いかにも遊んでいるという雰囲気を漂わせている。
今しがた店に入ってきたが、既にだいぶ飲んでいるようだ。
「一人で飲んでるの〜?」
琴子は何も答えない。
「オレさぁ、さっき見た時からお姉さんのこと気になってたんだよね」
「……」
「めっちゃ美人だよねー」
グラスを傾ける。
男は気にせず続ける。
「オレと一緒に、あっちで飲みながら話そうよ〜」
そこまで聞いて、静かに琴子はグラスを置いた。
そして。
小さく息を吐く。
「……はぁ」
「お客様」
覚が口を開いた。
「他のお客様のご迷惑になるようなことは――」
「いいのよ」
琴子が遮った。
椅子から立ち上がる。
「……マスター」
カウンターに一万円札を置いた。
「美味しかったわ。ありがとう」
「……お客様」
覚の声が、ほんの少しだけ低くなる。
琴子はそれに気づいていた。
けれど振り返らない。
「さて」
ナンパ男へ向き直る。
「坊や」
「ん?」
「私と飲みたいんでしょ?」
「お!」
男の顔がぱっと明るくなる。
「もちろん!」
「じゃあ、違う店で飲み直しましょう」
「マジで? お姉さん良いね〜!」
男は嬉しそうに立ち上がった。
「行こう行こう!」
男より先に琴子は歩き出した。
店の出口へ向かう。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
振り返らず。
右手だけを軽く上げた。
ひらひら。
覚へ向けて、小さく手を振る。
そして、そのまま店を出ていった。
扉が閉まる。
静かな店内に、ジャズだけが戻ってくる。
覚はカウンターに残されたグラスを見つめていた。
琴子が飲んでいたグラス。
その中には、淡い紫色の液体と、溶けかけた氷。
覚はしばらく黙っていた。
やがて。
「……瑠璃色の」
ぽつりと呟く。
「なかに一人の夜を飼う……」
誰に聞かせるでもなく。
「氷の溶ける、音を聴きつつ……」
カラン。
覚の詠む詩に呼応するように。
グラスの中で、氷が音を立てた。
そして。
覚はサングラスの奥で、静かに目を伏せる。
「……琴子様」
その声だけが、誰もいないカウンターに残った。
*
外へ出ると、月が出ていた。
夜風が琴子の髪を揺らす。
その隣を、さっきの男が歩いている。
「いやー、お姉さん本当に美人だよね」
「……そう?」
「そうそう!」
男は上機嫌だった。
「彼氏とかいる感じ?」
「……」
「もしかして、いない?」
「……」
「じゃあ、オレ全然アリじゃない?」
琴子は黙ったまま、月を見上げた。
本当に。
この世界は面倒だ。
昔に比べれば、妖怪が人間の世界に紛れて生きることも難しくなった。
人間の価値観も変わった。
妖怪の存在を信じる者も減った。
それでも。
「ふふっ」
琴子は小さく笑った。
酒の味は……。
昔より、ずっと……美味しくなった。
「ね〜ね〜」
男の声が隣から聞こえる。
「どこで飲み直そうか〜?」
「……」
琴子は足を止めた。
「ん?」
男も立ち止まる。
琴子はゆっくり振り返った。
「……坊や」
「なに?」
「ちょっと、おいたが過ぎるわよ」
「え?」
琴子が一歩近づく。
男が何かを言うより早く。
琴子の顔が、男の目の前まで迫った。
「……っ」
唇が重なる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
男の身体から力が抜ける。
「……へぁ?」
そのまま。
へたり。
男は地面に座り込んだ。
そして、そのまま意識を失った。
琴子は男を見下ろし、少しだけ首を傾げる。
「……まっずい」
それだけ呟いた。
月を見上げる。
夜空には、雲ひとつない。
「どこかに、良い男でも居ないもんかしら」
倒れた男には目もくれず、琴子は歩き出した。
夜の街へ。
月明かりの中へ。
その姿は、やがてビルの影へと消えていった。




