第弐話 手のぬくもり
幼い頃。
レンには、大好きな人がいた。
それは、一緒に暮らしていた祖父だった。
「おじいちゃん!」
「おう。レン、今日はどうした?」
祖父は、いつも優しく笑っていた。
レンが学校であったことを話せば、楽しそうに聞いてくれる。
くだらない話でも、最後まで聞いてくれる。
そして何より。
レンにしか見えないものの話をしても、決して疑わなかった。
「今日も、あの公園におじさんいたよ」
「そうか」
「うん。ずっと僕のこと見てた」
「怖かったか?」
「ちょっとだけ」
そう言って祖父は、レンの頭を優しく撫でた。
「大丈夫だ」
そして、いつものようにレンの手を握る。
「いつでもおじいちゃんが守ってやるからな」
「うん!」
その手は、とても温かかった。
レンにとって、それだけで十分だった。
母親には見えないもの。
周りの人には見えないもの。
それでも、祖父だけはレンの言葉を信じてくれた。
だからレンは、祖父が大好きだった。
♦︎
ある日のこと。
「おじいちゃん、今日は何釣れるかな?」
「どうだろうなぁ。レンが大物を釣ったら、おじいちゃんにも見せてくれよ」
「うん!」
その日、二人は釣りに出かけていた。
海の近くにある、小さな桟橋。
レンは竿を握りながら、楽しそうに海を眺めていた。
「……まだ釣れないなぁ」
「焦るな焦るな。魚だって、いつでも腹を空かせてるわけじゃない」
「そうなの?」
「ああ。人間と一緒だ」
「おじいちゃんも?」
「おじいちゃんは、もう腹減ってるぞ」
「僕もちょっと減ったー」
レンは笑った。
しばらくして、祖父が立ち上がる。
「ちょっと飲み物取ってくるからな」
「うん!」
桟橋のすぐ近くに停めてある車へ向かっていく祖父を見送る。
レンは一人で海を眺めていた。
太陽の光を受けて、水面がキラキラと輝いている。
その下を、小さな魚たちが群れになって泳いでいた。
「わぁ……」
レンは身を乗り出す。
魚たちが光の中を泳いでいく。
まるで空を飛んでいるみたいだった。
レンは夢中になって海を覗き込んだ。
そして。
「……あれ?」
魚の群れの中に、何かが見えた。
人の顔。
「……誰?」
水の中に、人のようなものがいる。
レンは不思議そうに目を凝らした。
それは、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
レンを見た。
ニヤリ。
人とは思えない笑みが、水の中で浮かんだ。
「……っ」
次の瞬間。
海の中から、白い腕が伸びてきた。
「うわっ!」
レンの身体が強く引っ張られる。
「やだ!」
必死に桟橋へしがみつこうとする。
けれど、ものすごい力だった。
「おじいちゃーーーん!!」
振り絞ったその声も虚しく。
レンの身体は海へと引き摺り込まれた。
冷たい。
苦しい。
息ができない。
必死にもがく。
けれど、身体はどんどん沈んでいく。
怖い。
助けて。
おじいちゃん。
レンは必死に手を伸ばした。
けれど、何も掴めない。
次第に身体から力が抜けていく。
目の前が暗くなっていく。
もう、何も考えられない。
その時だった。
ギュッ。
誰かに手を握られた。
温かい。
その感触だけは、はっきりと分かった。
「レン……」
誰かが、自分の名前を呼んだ気がした。
その声を聞いた瞬間。
レンの意識は、暗闇の中へ沈んでいった。
♦︎
「……ん」
目を開ける。
白い天井。
消毒液の匂い。
「レン!」
母親の声が聞こえた。
次の瞬間、母親がレンを強く抱きしめる。
「よかった……本当によかった……」
母親は泣いていた。
レンは何が起きたのか分からなかった。
「お母さん……?」
「うん……うん……」
「おじいちゃんは?」
その言葉を聞いた瞬間。
母親の顔が歪んだ。
「……おじいちゃんはね」
母親は涙を拭った。
「レンを助けて……亡くなったの」
「……」
レンは黙った。
大好きだった。
いつも一緒にいてくれた。
自分の言うことを信じてくれた。
手を握ってくれた。
大好きだったはずなのに。
なぜか。
悲しくなかった。
「……おじいちゃん」
思い出そうとする。
笑った顔。
声。
温かい手。
何かを思い出せそうなのに。
頭の中に霞がかかっている。
「……あれ?」
レンは、自分の胸に手を当てた。
悲しいはずなのに。
涙が出てこない。
大切な人を失ったはずなのに。
その人の顔さえ、うまく思い出せない。
心の真ん中にぽっかりと穴が開いているような感覚。
それが、レンには怖かった。
♦︎
それからだった。
レンに見えるものが、以前よりもはっきりするようになった。
家の隅に立つ人影。
誰もいない場所から聞こえる声。
道の向こうから、じっとこちらを見つめる何か。
母親には見えない。
他の人にも見えない。
でも、レンには見える。
そして、あの日を境に髪も白くなっていった。
その異質な様子に、周囲の人間はレンを見る目を変えていった。
「……あの子、ちょっと変じゃない?」
「なんか怖いね」
そんな声が聞こえてくる。
レンは、何も言わなかった。
昔のように、自分にしか見えないものの話をすることもなくなった。
ただ、一つだけ。
どうしても気になることがあった。
思い出せない記憶。
思い出したい温もり。
そして自分が見えて、みんなには見えないもの。
あの日から変わってしまった自分のこと。
それを調べれば。
何かが分かるかもしれない。
そうすれば。
頭の中にかかった、この霞も晴れるかもしれない。
大切な何かを、取り戻せるかもしれない。
根拠など、何も無かったが。
不思議と、そう思った。
だからレンは、調べ始めた。
本を読み。
図書館へ通い。
誰も知らないようなことまで、黙々と調べ続けた。
どうして自分には見えるのか。
あの日、海で何が起きたのか。
そして。
自分は何を忘れてしまったのか。
大切な何かを取り戻したい。
ただ、それだけだった。
そんなレンの背後。
誰もいないはずの場所に、二つの影があった。
一つは、とても恐ろしい目をしていた。
もう一つは、とても優しい目をしていた。
二つの影は、黙ってレンを見つめている。
レンはまだ知らない。
その二つの存在が。
これから先もずっと、自分のそばにいることを。
そして。
その二つの強い「想い」が、自分自身に大きな影響を与えていることを。
レンはまだ、何も知らなかった。




