第二十話 同じ気持ち
それは、日常と呼ぶには異常な時間だった。
このクラスでは、いじめが行われていた。
いじめられているのは、一人の男子生徒。
原因は、少し臭い。
ただ、それだけだった。
家が貧しいらしく、いつも少し古びた、ぼろぼろの学生服を着ている。
実際には、臭くなんてない。
ただ、誰かが言った。
「なんか、臭そう」
たったそれだけの一言だった。
机に落書きがされる。
紙クズを投げられる。
カバンを隠される。
いつしか、その男子生徒に近づく者はいなくなった。
僕は、それを見ているのが嫌だった。
ある日、男子生徒の背中には「バカ」と書かれた紙が貼られていた。
僕はそれを剥がした。
「大丈夫か?」
男子生徒は、何も答えなかった。
ただ、俯いていた。
僕は周りを見渡した。
「もうさ……やめねーか。こんな事」
誰も答えなかった。
それでも、その時の僕は少しだけ自分が誇らしかった。
ちゃんと間違っていないことをした。
そう思っていた。
でも。
それは、翌日にはあっさりと後悔に変わった。
誰も僕に話しかけなくなった。
目を合わせようともしない。
休み時間になっても、僕の周りだけぽっかりと空いていた。
机に落書きされても。
紙クズを投げつけられても。
カバンを隠されても。
それでも、自分は良い事をした。
それだけが僕の心を支えていた。
そしてある日。
それまでいじめられていた、あの男子生徒までもが僕を無視した。
その瞬間、胸の奥が冷たくなった。
次の日から、僕は学校に行かなくなった。
布団の中で、何度も同じことを考えた。
どうして僕だけ。
なんで僕だけ、こんな思いをしなきゃいけないんだ。
僕は、間違っていたのかな。
あの時。
手を差し出さなければ。
そんなことを考えているうちに。
僕の身体は、宙へ投げ出されていった。
♦︎
夜の涙橋は、昼間とは違う顔をしていた。
橋の上を通る車の音が、遠くで響いている。
その橋の淵に、ぼんやりと一人の少年が立っていた。
高校生くらいだろうか。
俯いたまま、何かを呟いている。
「……なんで僕だけ」
そんな声が聞こえて、僕は足を止めた。
トキ兄さんも、少し離れたところで少年を見ている。
「……あれ、幽霊ですよね?」
「うん」
トキ兄さんが頷く。
その瞬間だった。
「……え?」
頭の中に、知らない光景が流れ込んできた。
教室。
机。
落書き。
床に落ちた紙クズ。
そして、一人の男子生徒。
『大丈夫か?』
声が聞こえる。
次の瞬間、景色が変わった。
誰も自分を見ない。
それまでいじめられていた男子生徒まで、僕を無視する。
胸の奥に、冷たい感情が流れ込んでくる。
寂しい。
怖い。
どうして僕だけ。
「……っ」
僕は思わず頭を押さえた。
「レン?」
トキ兄さんが振り返る。
「今……何か、見えました」
「何かって?」
僕は、今見えたものを説明した。
するとトキ兄さんは、少し考えるように腕を組んだ。
「あー……」
「何か分かるんですか?」
「たぶん、波長が合ったんだと思う」
「波長……?」
「生きてる人間と幽霊ってさ。たまーに、波長が合うことがあるんだよ」
トキ兄さんは少年を見る。
「波長が合うと、幽霊の感情が流れ込んできたりする。声が聞こえることもあるし、今のレンみたいに、その霊が抱えてる想いが断片的に見えることもある」
「そんなことが……」
「あるんだよ」
トキ兄さんは、いつもの調子で言った。
「ただ、感受性が強すぎる奴だと、想いが流れ込みすぎて、自分の感情なのか幽霊の感情なのか分からなくなったりする。場合によっちゃ、取り憑かれたみたいになることもある」
「……怖いですね」
「まあ……」
トキ兄さんは僕を見る。
「レンは、なんか大丈夫そうだけどな」
「なんですか、それ……」
「いや、まぁなんとなくな」
そう言って、トキ兄さんは笑った。
僕はもう一度、橋の淵に立つ少年を見る。
今なら、少しだけ分かる。
この少年が、どんな想いを抱えているのか。
「僕は大丈夫……なんですよね」
「ん、まぁな」
僕は、ゆっくりと歩き出した。
「レン?」
「……少し、話してみます」
トキ兄さんは何も言わなかった。
ただ、僕の後ろからついてくる。
少年の近くまで歩く。
「ねえ」
少年が、ゆっくりと顔を上げた。
「……何か用?」
「うん」
僕は少しだけ迷った。
でも、口にした。
「僕も、同じだったんだ」
「……え?」
「僕も昔、ずっと一人みたいな気がしてた」
少年は黙っている。
「周りに人はいるのに、自分だけ異質でそこにいないみたいで……」
胸の奥が、少し痛くなった。
「ひとりぼっちって……寂しいよな」
気づけば、僕の頬を涙が伝っていた。
少年が、目を見開く。
「……どうして、泣くの?」
「分からない……」
僕は涙を拭った。
「でも、君の気持ちが……少し分かるから」
少年の表情が、少しずつ崩れていく。
「僕……」
少年は俯いた。
「間違ってたのかな」
「違うよ」
僕は、少年に手を差し出した。
「君は、間違ってなんかないよ」
少年が、その手を見る。
触れることはできない。
それでも。
少年は、ゆっくりと手を伸ばした。
その瞬間。
少年の中に残っていた何かが、少しずつほどけていくような気がした。
僕の涙が、一滴、少年の手の上に落ちた。
もちろん、触れてはいない。
それでも少年の顔から、少しずつ苦しさが消えていった。
「……僕」
少年が、小さく呟いた。
「成仏……できるのかな」
その言葉に、トキ兄さんが一歩前へ出た。
「ああ」
少年がトキ兄さんを見る。
「できるよ」
トキ兄さんは、優しく笑った。
「あんたが心から成仏したいと想えば、いつだって成仏出来るんだ」
「……僕が?」
「ああ」
トキ兄さんは空を見上げた。
「前に進むってのも、悪くないもんだぞ」
少年は黙っていた。
しばらくして。
ゆっくりと顔を上げた。
「……僕」
その目から、一筋の涙がこぼれた。
「僕、前に進みたいです」
トキ兄さんは、ニコッと笑った。
「なら、やる事は一つだな」
そして、少年に向かって言った。
「大丈夫。オレらが見届けてやるよ」
少年は静かに笑みを浮かべた。
その顔は、生きていた頃と同じ笑顔だったのかもしれない。
「……ありがとう」
その身体が、少しずつ淡くなっていく。
霧のように。
夜の空気に溶けるように。
そして少年は、静かに空へ昇っていった。
僕は、ただそれを見送っていた。
♦︎
「……行っちゃいましたね」
「ああ」
静かになった涙橋。
僕は、しばらく空を見上げていた。
「……撮影、出来なかったですね」
「そーだな」
「……すいません」
「レンが謝る事じゃねーさ」
そして、隣にいるトキ兄さんを見る。
「僕……」
「ん?」
「僕、トキ兄さんと会えて本当良かったです」
「……っ」
トキ兄さんの顔が、少し赤くなった。
「ばーーか。泣きながら何言ってんだよ!」
そう言って、トキ兄さんは僕に背を向けた。
そして、小さく呟いた。
「それは、オレの方なんだよ」
「……?」
僕には聞こえなかった。
トキ兄さんは、もう一度だけ小さな声で呟く。
「お前に会えて良かったのは、オレなんだよ」
「え? なんですか?」
「なんでもねーよ!」
その様子を、じっとアイちゃんが見ていた。
そして、トキ兄さんの手元で小さく呟く。
『男ってめんどくさい生き物ね』
僕は、その言葉に首を傾げた。
トキ兄さんは、ますます顔を赤くしていた。
「あーあ!撮影出来なかったし、もー帰るぞー」
「あ、待ってくださいよ」
先に行くトキ兄さんを追いかけて、僕はその隣に並んで歩いた。




