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第十六話 声なき声


 夜の街は、昼間とは違う顔を見せる。


 駅前の喧騒から少し離れた場所にある、小さなバー。


 店内には静かな音楽が流れ、カウンターの向こうでは、店主の覚がグラスを磨いている。


 そのカウンター席で、琴子は一人、ゆっくりと酒を飲んでいた。


 琥珀色の液体をグラスの中で揺らしながら、ぼんやりと店内を眺める。


 すると、後ろの席から男たちの話し声が聞こえてきた。


「駅の近くの幽霊マンションあるじゃん」


「ああ、あそこ?」


「あそこ、また飛び降り自殺があったんだってさ」


「マジかよ……。オレ、帰り道でいつも通るんだけど、なんかいつも誰かに見られてるみたいで寒気するんだよな」


「そりゃ怖ぇな」


「あんまり電気ついてる部屋も無いしさ。住人もほとんどいないんじゃねーの?」


「ま、近寄らないのが一番だな」


 琴子は、その会話を聞きながらグラスを傾けた。


 最後の一口を飲み干す。


「ご馳走様、覚。美味しかったわ」


「ありがとうございます」


 琴子は代金をカウンターに置き、席を立った。


 出口へ向かう背中に、覚が声をかける。


「……お気を付けて」


 琴子は振り返らず、軽く手を振った。


「大丈夫。いつもの事よ」


 そう言って、店を出た。


 駅から少し離れた場所に、そのマンションはあった。


 五階建て。


 夜の街灯に照らされた建物には、ほとんど明かりがついていない。


 琴子はしばらく、その屋上を見上げていた。


「……ここね」


 その瞬間だった。


 屋上の縁。


 暗闇の中から、何かが琴子を睨みつけるように見下ろしていた。


 人の形をしているようにも見える。


 だが、輪郭は曖昧で、その周囲には黒い靄が広がっていた。


 琴子は小さく息を吐く。


「……まったく。こんな人通りの多いところで……」


 マンションの中へ入り、階段を上る。


 一段。


 また一段。


 誰もいない建物の中に、琴子の足音だけが響いていた。


 やがて最上階。


 その先にある重い扉を開く。


 冷たい風が吹き抜けた。


 琴子はゆっくりと視線を送る。


 屋上の隅。


 そこには、先ほど見えた黒い靄が広がっていた。


 靄の中心には、一人の女性の影が立っている。


「こんな所に居たんじゃ危ないわよ」


 琴子が声をかける。


 返事はない。


 ただ、影は琴子を睨みつけていた。


「……貴女、名前は?」


 反応はない。


 琴子は少しだけ目を細めた。


「そう……」


 ゆっくりと、影へ近づいていく。


「もう、自分のことも分からないのね」


 影の周囲で黒い靄が大きく膨らんだ。


 まるで琴子を拒絶するように。


 何かを叫んでいるような様子だが、その声は聴こえなかった。


 琴子は足を止めない。


「大丈夫」


 静かな声だった。


「もう、貴女は一人じゃないわ」


 琴子が手を差し出す。


 影はその手を振り払った。


 それでも琴子は、手を引かなかった。


 そのまま一歩、また一歩と近づいていく。


 そして――


 女性の影を、そっと抱きしめた。


「もう、ゆっくり休みなさい」


 腕の中で、影が震える。


 再び、声にならない声を上げる。


 恨みなのか。


 悲しみなのか。


 それとも、助けを求めているのか。


 琴子には分からない。


 ただ、何も言わずに抱きしめ続けた。


 しばらくすると、黒い靄が少しずつ薄くなっていく。


 影の輪郭が、人の形を取り戻していく。


 やがて、女性の頬を一粒の涙が伝った。


「……ごめんなさい」


 消え入りそうな声。


 琴子は微笑んだ。


「気にしないでいいのよ」


 その言葉を最後に、女性の姿は琴子の腕の中でゆっくりと消えていった。


 静寂が戻る。


 琴子はしばらく、その場に立っていた。


 そしてふと、足元に何かが落ちていることに気づいた。


 一台のスマホだった。


「……あら」


 琴子はそれを拾い上げる。


 画面には、笑顔の男性が映っていた。


 その周囲には、微かな黒い靄がまとわりついている。


 琴子は画面をじっと見つめた。


「……こんな所に置いておくのは危ないわね」


 そっとスマホをポケットへ入れる。


 そして、何事もなかったかのように屋上を後にした。


    ♦︎


 翌朝。


 琴子は河原に立っていた。


 昇ったばかりの朝日が眩しい。


 川面に光が反射し、キラキラと輝いている。


 琴子はポケットから、昨夜拾ったスマホを取り出した。


 朝日にかざす。


「ここなら……貴女も、ゆっくり出来るかしらね」


 その場にゆっくりとしゃがむ。


 そのまま琴子はスマホを、そっと地面に置いた。


 画面には、昨夜と同じ男性の笑顔が映っている。


 しばらく眺めていると――


 画面が、ほんの一瞬だけ光った。


 琴子は、それを見逃さなかった。


 だが、何も言わない。


 ただ、静かに微笑んだ。


「……しばらくしたら、また会いに来るわ」


 そう言って立ち上がり、琴子はその場を後にした。


 朝の光の中へ、ゆっくりと歩いていく。


 そして。


 誰もいなくなった河原に、一台のスマホだけが残された。


 画面が暗くなる。


 しばらくして――


 ほんの僅かに、画面が明滅した。


 まるで、眠りから覚める前のように。


 だが、それ以上の変化は何も起こらなかった。


 ただ静かに。


 スマホは、そこで時を過ごした。

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