第9話:国元潜入と、じわっと染みるめざしの味
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ついに、俺たちは懐かしき故郷――の、はずである藩の城下町へと潜入を果たした。
しかし、そこに広がっていたのは、俺の脳内時代小説ライブラリーにあるような活気ある城下町の風景ではなかった。いたるところに新家老の息がかかった物々しい具足姿の役人が目を光らせ、町人たちは互いに視線を交わすことすら恐れるように、肩を窄めて足早に通り過ぎていく。
「――ううむ。この、街全体が巨大な監視の檻と化したような、息の詰まる空気。今野敏先生の警察小説に出てくる公安警察の徹底した尾行網、あるいは池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』で、火付盗賊改方の密偵たちが命がけで盗賊の隠れ家に潜入捜査をする時のあの緊迫感そのものじゃないか」
俺は笠の目深さを直し、ボソリと呟いた。
「ツヨシ、お前のその呑気な実況を聞いていると、自分が大罪人として追われている身だということを忘れそうになるな」
横を歩くカエデが、外套のフードの隙間からジト目を向けてくる。
「油断するな、二人とも」
陣内先生が低く、引き締まった声で言った。
「街の要所には臨時の検問があり、人相書きが回っておる。だが、この城下町の路地裏には、かつて私が藩の裏の連絡員として使っていた、絶対に安全な隠れ家がある。そこへ向かうぞ」
「へえ、こういう緊迫した状況で浪人が身を隠す場所といえば、下町の寂れた一膳飯屋(居酒屋)に決まっている。時代小説の黄金パターン、実にワクワクするねぇ」
俺たちは役人の目を盗み、迷路のように入り組んだ路地裏の奥へと滑り込んだ。そこには、色褪せたつみれ布の暖簾が揺れる、小さな一膳飯屋『よろづや』があった。
2
「――秋山陣内様、それにツヨシ様。よくぞご無事で……!」
店の奥の薄暗い座敷で、白髪の老爺――この店の店主であり、かつて藩の隠密頭を務めていた老隠密が、涙を浮かべて俺たちの前に平伏した。
しかし、老店主から語られた藩内の惨状は、想像を絶する重苦しいものだった。
「新家老一派の恐怖政治は、日を追うごとに激しくなっております。藩の不正を少しでも口にすれば、即座に『隠蔽(投獄)』され、領民からは骨の髄まで重税を搾り取る始末。奴らはその金で、中央の闇組織から街を丸ごと一瞬で灰にするという巨大な『魔導大砲』を買い付け、藩の兵力を私物化しようとしているのです……」
「ここまで腐敗が進んでいたとは……!」
陣内先生が拳を固く握りしめ、その表情を怒りに染めた。
「一刻の猶予もない。今すぐ城へ斬り込み、家老の首を撥ねて藩のシステムを正常に戻さねば!」
カエデも窓の隙間から城の方角を見つめ、眉をひそめる。
「防衛網の魔力の密度が異常に高いわ。まともに正面から突っ込めば、いくらツヨシの剣でも蜂の巣にされる……」
重苦しい絶望の空気が、座敷に立ち込める。
だが、俺の「時代小説マニア脳」は、別の本質を突いていた。
「おっと、先生、カエデさん。焦っちゃいけねえ。上田秀人先生の作品なら、敵の防衛網や情報が出揃う前に動く駒は、真っ先にチェスの歩のように消されるのがオチだ。それに、これだけ重苦しく緊迫した作戦会議の前には、まず、冷え切った腹を芯から温める美味いメシが必要だろ?」
「ツヨシ、お前はこんな状況でも飯のことしか頭にないのか!?」
カエデが呆れ顔で叫ぶが、俺はすでに老店主にウインクを投げていた。
「店主、台所を借りるぜ。宿場町の市場で、こっそり最高の『隠し球』を仕入れてあるんだ」
3
俺が台所に持ち込んだのは、旅の道中で手に入れておいた「魔海鰯」という小ぶりの魔魚だ。
見た目は前世の鰯そのものだが、噛むほどに旨味が溢れるという。俺はこれをあらかじめ塩引きにし、藁の紐に通して軒先でサッと干しておいた。
そう、今夜の主役は、江戸の日常食の最高峰、「めざし」である。
池波正太郎先生は、自身の食エッセイで常々こう書いていた。
『贅沢なご馳走ばかりが美味いわけではない。むしろ、炭火でじっくりと炙った、あのほろ苦いハラワタを持つめざし。それに炊きたての白飯と、具だくさんの味噌汁。これぞ、男の五臓六腑を最も芯から慰める、至高の一膳飯である――』
俺は七輪に炭火を起こし、めざしを網の上へと並べた。
――ジワジワ、チリチリ……。
網の上で、脂の乗った鰯の皮目が香ばしく焦げ、パチパチと音を立て始める。瞬く間に、座敷の方まで「地球上で最も白飯を誘う、香ばしい塩気と脂の匂い」が広がっていった。
さらに俺は、カブの葉や、油揚げ(豆腐風の魔豆の練り物)をこれでもかと刻み込んだ、濃いめの「具だくさんの味噌汁」を作り、爆裂米の真っ白な白飯をホカホカに炊き上げた。
「さあ、おもたせしました! 国元潜入記念、至高の一膳飯だ!」
お膳の上に並んだのは、ツヤツヤと輝く白飯、湯気を立てる味噌汁、そして香ばしく焼き上がった三本のめざし。ただそれだけだ。だが、その素朴さには圧倒的な「力」があった。
俺は箸でめざしを一本掴み、頭から丸ごと豪快にガブリとやった。
「――っ!!!!」
美味い、美味すぎる! 脳内で池波先生が「うむ、これだ、これだよ」と満足げに箸を動かす幻影が見える。
パリッとした皮の中から、凝縮された鰯の旨味と絶妙な塩気が溢れ出す。そして、ハラワタのほろ苦さが、爆裂米の白飯の甘みをこれ以上ないほどに引き立てるのだ。そこへ熱々の具だくさん味噌汁をズズッとすすれば、潜入の緊張で縮こまっていた腹の底が、じんわりと紐解かれていくのがリアルに分かった。
「……何だ、これは。ただの焼き魚のはずなのに、箸が止まらん」
絶望に沈んでいた陣内先生が、気付けば涙目をしながら、めざしを囓っては白飯を猛烈な勢いでかき込んでいた。
「鰯の苦味が、これほど白飯に合うとは……! 腹の底から、むくむくと力が湧いてくるぞ!」
カエデも最初は「ずいぶん地味な料理ね」と不満げだったが、一口齧った瞬間にフリーズした。
「――っ!? この香ばしさ、信じられない……。お味噌汁の具のシャキシャキ感も最高だわ。これなら、お城の防衛網なんて怖くなくなるかもしれない……」
元隠密のプライドを忘れた comical な様子で、お茶碗を抱えてハフハフと飯を貪っている。
「ははは、飾らぬ一膳飯こそ、旅の男の真の贅沢。さて、腹が温まったところで、外の野暮なネズミどもの退治を始めましょうかね」
俺がのんびりとお茶をすすった、その直後だった。
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――バァァァン!!!!
一膳飯屋の表戸が、激しい音を立てて叩き破られた。
店内に踏み込んできたのは、新家老直属の「突入憲兵部隊(重武装の藩士たち)」が十数人。全身を鋼鉄の鎧で固め、ギラギラとした魔導太刀を抜いて座敷を包囲する。
「動くな! ここに脱藩浪人の秋山陣内たちが潜伏しているという密告があった! 抵抗する者は、家老職の権限により、その場で『隠蔽(処刑)』処分とする!」
リーダー格の憲兵が、冷酷に抜刀した。狭い店内に、息詰まるような鉄の臭いと殺気が充満する。堂場瞬一先生の警察小説さながらの、密室での緊迫した強襲劇だ。
「おのれ、密告者がいたか……!」
陣内先生が即座に立ち上がり、刀に手をかける。老隠密の店主も奥の暗器を掴もうとした。
「おいお前ら、せっかくのめざしの極上の余韻を、その野暮な鉄臭さで汚さないでくれよ」
俺は座ったまま、お膳の上に残っていた木箸を二本、右手に挟んだ。
(「秋山小兵衛は、狭い室内での戦いにおいて、決して大振りな剣は使わなかった。相手の戦闘意思を、最小限の動きで、瞬時に削ぎ落とすのがプロの技である――」)
脳内の『剣客商売』モードが完璧に起動する。
「そらっ!」
俺が手首のスナップを利かせて木箸を投擲すると、それは矢のような速さで飛び、先頭の憲兵が掲げていた魔法の触媒(発光する石)を、ピンポイントでパシィン!と粉砕した。
「な、何っ!?」
敵が動揺した一瞬の隙に、俺は立ち上がりざま、魔導刀を――鞘に入ったままの状態で引き抜いた。
狭い店内だ、刀を抜けば柱や壁に当たって動きが制限される。今野敏先生の作品に出てくる特殊部隊の戦術のように、ここは「空間を最大限に利用した最短の合理的制圧」が正解だ。
俺は突進してくる憲兵の刃を、紙一枚の差でひらりとかわすと、魔導刀の「鞘」の側面を使い、相手の太刀の平をガキィィン!と激しく叩いて弾き飛ばした。さらに、壁を蹴った反動を利用して反転し、もう一人の憲兵の顎の下を、刀の「柄頭」で正確にゴンッ!と一突き。
「ぶふっ!?」
一人目が脳震盪で崩れ落ちる。
「おのれ、呪術師ツヨシか!」
残る憲兵たちが一斉に斬りかかってくるが、俺の『居眠り磐音』の無形の体術は、狭い店内の柱や机の配置すらもすべて防御の盾に変えていた。
右からの斬撃を机を傾けて防ぎ、左からの突きを鞘でぬるりと受け流す。そして、すれ違いざまに、憲兵たちの手首や膝の裏を、刀の「峰(背の部分)」でパシィン、パシィンと、まるでお仕置きでもするかのように小気味よく叩いていく。
「ギャッ!」「ウグッ!?」「手が、痺れて刀が……!」
わずか数十秒。
狭い一膳飯屋の中で、十数人の憲兵部隊は、刀を抜く隙すら与えられないまま、全員が武器を取り落として地面に転がり、悶絶するか気絶するかしていた。血を流した者は一人もいない。完璧なる峰打ちの芸術である。
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「な……何なんだ、この浪人は……。我ら重装甲の憲兵部隊が、刃すら使われずに……っ!」
縛り上げられ、店の隅に芋虫のように転がされた憲兵のリーダーが、戦慄に震えながら俺を見上げていた。
「言っただろ、ただの食い意地の張った浪人だよ。お前たちの新家老に伝えておきな。めざしを美味く食う日常を守るためなら、俺は城ごとあんたらの陰謀を一刀両断にしてやるってね」
俺がトボけた顔で刀をカチャリと鞘に収めると、奥から出てきた老隠密の店主が、手際よく気絶した憲兵たちを裏の地下牢へと拘束していった。
老店主は、俺の圧倒的な強さと機転を目の当たりにし、震える手で涙を拭った。
「ツヨシ様……あなた様のその剣と器量があれば、本当にこの藩の闇を払えるかもしれん。……これをお使いくだされ」
老店主が懐から取り出したのは、一枚の古い、しかし極めて精密な古文書――城内の隠し通路や魔力の配置がすべて記された、藩の最高機密である『城内詳細構造図』だった。
「これがあれば、新家老のいる本陣まで、誰にも気づかれずに潜入できます。奴は明後日の夜、あの魔導大砲の起動式を行う予定です」
「素晴らしい。上田先生の小説なら、ここでついに最高機密の情報(地図)が揃い、反撃の狼煙が上がる瞬間だねぇ」
俺は地図を受け取り、ニヤリと不敵に笑った。
「ふう。やっぱり、美味い一膳飯を食った後は、身体のキレが違うな。さて、情報(地図)は揃った。先生、カエデさん。次は城内のどこへ潜入し、誰を美味いもので釣るか……いや、一刀両断にするかだな!」
「また釣る気か!」
カエデが突っ込みを入れ、座敷に comical な笑い声が戻ってきた。
潜入の緊張をめざしの味で吹き飛ばした俺たちの目は、かつてないほど鋭く、そして粋に輝いていた。いよいよ次はお家騒動の最終決戦の地、城内潜入編へと突入していくのだった。




