第8話:迫る最強の追跡者と、峠の安倍川もち
1
国元の藩境が近づくにつれ、街道の空気は目に見えてピリピリと張り詰めてきた。
あちこちに臨時の検問(関所)が設けられ、物々しい具足姿の藩士たちが旅人の人相書きを食い入るように見つめている。
「――ううむ。このジリジリと包囲網が狭まっていくような、逃げ場のない焦燥感。堂場瞬一先生の警察小説『鳴海シリーズ』で、執念の刑事が逃亡者を一歩一歩、執拗に追い詰めていく時のあのサスペンスそのものじゃないか」
俺は街道の脇の茂みに身を隠しながら、ぽつりと呟いた。
横にいるカエデが、呆れたようにため息をつく。
「ツヨシ、緊迫した状況なのは分かるが、なぜさっきからお前の目は、あそこにある寂れた峠の茶屋の看板ばかりを凝視しているのだ?」
「カエデさん、分かってないねぇ。脳がこれだけの緊張感に晒されているんだ、人間、強烈に『糖分』を欲するもんなんだよ。それに、この険しい峠を越える手前で食う甘味といえば、徳川家康公も愛したという、あの『安倍川もち』しかないだろ!」
「また始まった……」
カエデが額を押さえる。だが、後ろに控える陣内先生の顔は笑っていなかった。
「油断するな、ツヨシ。新家老の放った刺客どもとは別に、藩内には一人、関わりたくない男がいる。奴は政治の陰謀にも興味を持たず、ただ『脱藩した大罪人を捕縛する』という職務にのみ命をかける、藩内最強の捕り方だ。その執念、まるで飢えた狼の如し――」
「へえ、火付盗賊改方の長谷川平蔵か、あるいは今野敏先生の作品に出てくる叩き上げの鬼刑事か。実に男臭い、時代小説には欠かせない好敵手だねぇ」
俺はヘラヘラと笑いながら、道中の市場で仕入れておいた「竹の皮の袋」をポンと叩いた。中にあるのは、大家のばあさんの蕎麦粉……ではなく、旅の途中で手に入れた「魔導もち米」と、煎ると黄金色に輝くという「黄金大豆」である。
「鳴海の旦那が来る前に、まずは至高の甘味で脳を癒やすとしましょうや」
2
峠の頂上にある寂れた茶屋『宇津ノ谷亭』の軒先を借り、俺は茶屋の親父から臼と杵を強引に借り受けた。
「おい、ツヨシ! 敵が迫っているというのに、本当に餅を搗くのか!?」
陣内先生が周囲を警戒しながらも、手持ち無沙汰そうに杵を見つめている。
「先生、呼吸を合わせてください! 餅を搗くのも剣の『間合い』と同じです。ヨイショッ!」
「ぬうっ、ヨイショッ!」
カチャ、カチャ、と小気味よい音が響く。
蒸し上がった魔導もち米を、俺と陣内先生の、かつての師弟ならではの完璧な連携(呼吸)でコミカルに搗き上げていく。魔導もち米は搗くほどに、かすかに黄金色の光を放ち、信じられないほどの弾力を帯びていく。
その傍らで、カエデが真っ赤な顔をして、またしても例の小盾を使い、炒った黄金大豆をゴリゴリと細かくすり潰して「きな粉」を作っていた。
「二度と私の盾を芋すり器にするなと言ったが……まさか、大豆の粉挽き器にされるとは……!」
「カエデさん、煎りたてのきな粉ってのはね、世界を救うほど香ばしいんだから。さあ、もう一息!」
つきたての柔らかい餅をちぎり、お湯にサッとくぐらせてから、たっぷりのきな粉と、魔導サトウキビから採った黒蜜をまぶす。半分には、異世界のあずき風魔豆で炊いた特製のあんこを絡めた。
「これぞ、東海道の極上の味、安倍川もちの完成だ!」
池波正太郎先生は、甘いものに対しても一家言を持っていた。
『男が甘いものを食うのを気恥ずかしがるのは、野暮というものだ。旅の途中で疲れ果てた頭と体に、つきたての餅の甘みときな粉の香ばしさは、隠れた活力を与えてくれる――』
俺はきな粉の山から、一切れの黄金色の餅を箸で掴み、口に放り込んだ。
「――っ!!!!」
美味い! 脳内で池波先生が「うむ、これは良いものだ」と満足げに団扇を仰ぐ姿が再生される。
魔導もち米の圧倒的な弾力と、つきたてならではのフワフワとした柔らかさが、口の中で心地よく踊る。そして、カエデが(盾で)必死に挽いてくれた黄金きな粉の、鼻に抜ける香ばしさは、黒蜜の濃厚な甘みと完璧に調和していた。あんこの方も、上品な甘さで餅の旨味を引き立てている。
「……っ! これ、美味しい!」
カエデが、口の周りをきな粉で真っ黄色に染めながら、 comical に餅を頬張っている。
「餅のモチモチ感と、この粉の香ばしさが絶妙だわ……。脳の奥が、じんわりと解けていくみたい……」
「うむ、確かにこれは活力が出る。ツヨシ、もう一つくれ」
陣内先生も、いつの間にか警戒を忘れて、あんこ餅を嬉しそうに口へ運んでいた。
「ふう、張り詰めた脳には、この甘みが一番染み渡るなぁ……」
俺がのんびりとお茶をすすった、その瞬間。
「――そこまでだ、脱藩浪人ツヨシ」
低く、地を這うような冷徹な声が、茶屋の空気を一瞬で凍りつかせた。
3
茶屋の入り口に、一人の男が静かに立っていた。
鋭く尖った顎、鷹のように鋭い眼光。小袖の乱れ一つなく、腰には実戦で鍛え上げられた一振りの太刀と、漆黒の「十手」が差されている。その佇まいは、今野敏先生の作品に登場する、組織の理不尽に染まらず、ただ己の正義と職務を執行する叩き上げの刑事、そのものだった。
彼を囲むように、十数人の藩士(捕り方たち)が、一斉に捕縄を構えて茶屋を包囲する。
「……鳴海 源十郎」
陣内先生が、餅を飲み込んで即座に刀に手をかけた。
新家老の配下でありながら、お家騒動の陰謀には一切加担せず、ただ「脱藩した大罪人を捕らえる」という己の職務(正義)にのみ執念を燃やす、藩内最強の捕縛術の達人――いわば、時代小説版の敏腕刑事である。
「秋山陣内殿、お久しゅう。家老が『ツヨシは植物を操る恐るべき呪術師だ』などと馬鹿げたデマを流して怯えておるが……私はそんなものは信じない。この男の腰の据わり方、無駄のない佇まい。呪術などではない。圧倒的な、剣の達人だ」
鳴海は、俺が第7話で披露した「とろろ接着剤」のデマに惑わされることなく、冷徹に俺の剣の本質を見抜いていた。さすがはプロの刑事。小細工は通用しない。
「鳴海の旦那、あんたの職務への執念、そしてその曇りのない目は立派だよ。堂場先生の小説に出てくる刑事のように、実にハードボイルだねぇ。だが……」
俺は刀を鞘のまま左手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。
「仕える上司(新家老)が間違ってる。奴は藩の財政を私物化し、中央の闇組織と繋がっている。そんな悪党の命令で、本当に俺を捕縛するのかい?」
「私の仕事は政治ではない。罪を犯した脱藩浪人を捕らえる、それだけだ。……職務執行である。抵抗するならば、容赦はせん」
鳴海が静かに十手を構え、じりじりと間合いを詰めてくる。その一歩一歩に、一切の油断も隙もない。周囲の捕り方たちも、完璧な連携の陣形を敷き、俺の逃げ道を完全に塞いでいた。
(「磐音は、迫り来る鳴海の殺気に対し、眠るが如き構えのまま、静かに息を抜いた。相手の十手と太刀の軌道が、交錯するその刹那まで――」)
「――いくぞっ!」
鳴海が地を蹴った。神速。十手が俺の脳天へ向けて、空を切り裂きながら振り下ろされる。
4
――ガキィィィィンッッッ!!!!
激しい金属音が峠に響き渡った。
鳴海の渾身の十手の一撃を、俺は魔導刀の「鞘」で完璧に受け止めた。だが、鳴海はそこで止まらない。すぐさま右手の太刀を翻し、俺の足元を払いに来る。
「流石は最強の捕り方だ。だが、安倍川もちの『粘りと弾力』を、俺は今さっき胃袋に叩き込んだばかりなんだよな!」
俺は、鳴海の太刀の刃を、刀の鞘の側面(腹)で「ぬるり」と受け流した。『剣客商売』の秋山小兵衛の如き、相手の力をそのまま円の動きに変える技術だ。
鳴海の体勢が、僅かに前方に流れる。
その瞬間、周囲の捕り方たちが一斉に捕縄を投げ込んできた。
十数本の頑丈な縄が、俺の身体に絡みつこうと空中を舞う。
「カエデさん、先生、手は出さないでくれ! この旦那たちの正義には、粋な方法で応えてやらねばならん!」
俺は『居眠り磐音』の無形の体術をフル稼働させ、飛んできた捕縄の隙間を、まるでダンスでも踊るかのようにひらりとすり抜けた。そして、すれ違いざまに、リーダー格の捕り方が持っていた縄の端を、左手でギュッと掴み取った。
「な、何っ!?」
驚く捕り方たちを尻目に、俺は掴んだ捕縄を、鳴海の突進の勢いを利用しながら、円の動きで周囲へと振り回した。
これぞ、安倍川もちの粘り気から着想を得た、即興の捕縛返しだ。
――シュパパパパパンッ!!!!
空中を舞う縄が、俺の絶妙なコントロールによって、逆に捕り方たちの足元や胴体に次々と巻き付いていく。
「うおっ!? 縄が絡まる!」「床に張り付くような、この妙な動きは……!?」
さらに俺は、最後方にいた鳴海の背後に回り込み、巻き取った縄の束で、彼の胴体を周囲の藩士たちもろとも、まるで大きな餅をひとまとめにするように、グルグル巻きにしてしまったのだ。
「ぐうっ!? 私としたことが、自分の捕縄の裏をかかれるとは……!」
鳴海源十郎が、十数人の部下たちと密着した状態で、ガッチリと縄で縛り上げられ、 comical にもつれ合って身動きが取れなくなった。
刀の刃を一切使うことなく、相手の正義(職務)への敬意を払いながら、傷つけることなく完璧に制圧したのだ。
俺は刀を腰に戻し、ぐるぐる巻きになって動けない鳴海の前にしゃがみ込み、東野圭吾先生の『加賀恭一郎』のような、優しくも鋭い眼光で見つめた。
「鳴海の旦那。あんたの職務への忠実さは立派だがね。その正義の刃を向けるべき相手は、俺じゃない。藩の財政を腐らせ、領民を不条理なシステムで苦しめている、新家老の奴だ。物事の本質を『隠蔽』しているのは、どっちか……その曇りのない目で、もう一度よく確かめてみな」
鳴海は目を見開き、しばらく俺を凝視していたが、やがてフッと自嘲気味に笑った。
「……完敗だ。脱藩浪人のツヨシ、お前のその剣、そしてその器量……家老の言うような呪術師などではない。真の『士』だな。私は、上司の命令を過信しすぎておったようだ」
5
「さあ、鳴海の旦那、これはお土産だ。長旅のお供に、安倍川もちを持っていきな」
俺は竹の皮に包んだ、きねつきたての安倍川もち(お土産用)を、動けない鳴海の膝の上にそっと置いた。
「……かたじけない」
鳴海が、少しだけ表情を緩めて頷いた。
俺たちはそのまま、平然と藩の境界(関所)を突破した。最強の捕り方である鳴海源十郎が「芋の呪術師に、縄の術で完璧に封じ込められた」という無線報告が入ったため、関所の藩士たちは恐怖のあまり、俺たちが通りかかるのを見て全員が綺麗に道を譲ったのだ。勝手な過大評価、ここに極まれり、である。
関所を越えると、夕日が国元の美しい山々を赤く染め上げていた。
いよいよ、お家騒動の渦中、本陣である藩内への突入だ。
「ツヨシ、お前は本当に……人を斬らずに国を救うつもりか」
陣内先生が、夕日に目を細めながら、感慨深げに呟いた。
「へへ、池波先生の作品に出てくる粋な浪人はね、無駄な血は流さないもんです。それに何より……」
俺はニヤリと comical な笑みを浮かべた。
「国元の藩内に入れば、下町や街道にはなかった、その土地ならではの『最高の郷土料理(美味いもの)』が俺たちを待っているはずですからね!」
「結局、また食べ物の話か……」
カエデが(口の周りのきな粉を綺麗に拭きながら)呆れ顔で笑った。
しかし、その表情には、旅の始まりの頃のような冷たさは微塵もなかった。
「さあ、いよいよ本陣突入だ。国元にはどんな美味いものが待っているのかな?」
夕日に向かって歩みを速める、三人連れの影。
俺たちの、 comical で、ちょっと粋な【国元救出・お家騒動一刀両断の旅】は、いよいよ最高潮の緊張感とともに、新章の核心へと突き進んでいくのだった。




