第5話:新章開幕! 湯気の向こうの、怪しいお侍
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あの鰻の煙で国家の最高権力者を昏倒させ、下町の一掃計画を文字通り粉砕してから、早いもので数ヶ月の時が流れていた。
『つよし寿司』の屋台は相変わらずの大繁盛で、俺の懐には、エルフの大家のばあさんが腰を抜かすほどの銅貨が毎月ジャラジャラと転がり込んでいる。三畳一間の長屋には、擦り切れた畳の代わりにま新しい青畳が敷かれ、隙間風の吹いていた壁も綺麗に修繕されていた。
これ以上ないほどの平和。完璧なる浪人スローライフの完成である。
だが、人間というのは贅沢な生き物だ。蕎麦、寿司、天ぷら、そして鰻。江戸の四大グルメを完璧に制覇して胃袋が満たされると、次なる「深み」へと手を伸ばしたくなるのが、時代小説マニアの、いや、池波正太郎先生に育てられた美食の探求者としての性というものだった。
「――よし、今日こそはあれを再現するぞ」
俺は新調した鉄鍋を火にかけ、長屋の土間に陣取った。
江戸の四大グルメの次に来るものといえば、やはり「鍋料理」をおいて他にない。それも、池波先生の『鬼平犯科帳』に登場する本所・二ツ目の軍鶏割烹『五鉄』の名物、あの「軍鶏なべ(シャモなべ)」である。
池波先生の書く鍋の描写は、どれも尋常ではない執念が籠もっている。
『軍鶏の肉は、ただぶつ切りにするだけではない。脂の乗った皮や肉、そして小骨ごと細かく叩き上げた「叩き身」を混ぜ込むことで、鍋の中に爆発的な旨味のスープが広がるのだ。これを、醤油と酒とみりんで作ったキリッとした濃い目の割り下で、ネギと一緒にコトコトと煮る――』
深夜に読むと確実に布団の中で悶絶するあの至高の鍋を、俺は異世界の食材で再現しようとしていた。
幸い、市場の親分を通じて、最高の食材が手に入った。「魔導コケコッコ」と呼ばれる、見た目はただの巨大な鶏だが、魔の山を駆け回って育ったために、身の引き締まり方が尋常ではない魔鳥の肉だ。
俺は包丁の峰を使い、魔鳥の肉をトントンと小気味よい音を立てて叩き、特製のつくねを作る。さらに、引き締まった腿肉を大きめのぶつ切りにした。
割り下には、お馴染みのココノエ醤油に、秘伝の酒、そしてなけなしの金で手に入れた「異世界みりん(甘味果実の蒸留液)」を合わせる。
鉄鍋に割り下を注ぎ、火にかける。ふつふつと泡立ち始めたところへ、魔鳥の肉と、ネギにそっくりな香ばしい薬草を敷き詰めた。
――ジューゥゥ、コトコトコト……。
一瞬間にして、三畳一間の部屋の中に、濃厚な醤油の香りと、鳥の脂が焦げる極上の匂いが立ち込めた。
「素晴らしい……。湯気の向こうに、長谷川平蔵や密偵の相模の彦十が、美味そうに酒を酌み交わしている姿が幻視できるぞ。新章の幕開けにふさわしい、至高のグルメだ」
俺が鼻歌を歌いながら団扇で火加減を調整していた、その時だった。
長屋の前の路地から、不自然なほど静かな、しかし大地を正確に踏みしめる「足音」が近づいてきた。
ただの町人の足音ではない。一切の無駄を排し、常に重心を低く保った、冷徹なまでのプロの歩法。
「……おいおい」
俺は団扇を止め、ふっと目を細めた。
今野敏先生の警察小説、あるいは『隠蔽捜査』シリーズに出てくるような、規律と組織の論理を体現した冷徹なトップ、あるいは佐伯泰英先生の作品で、若き主人公を厳しくも温かく導く「かつての剣の師匠・老剣家」。
そんな、ただならぬオーラをまとった「老侍」の気配が、障子の一枚向こう側に立っていた。
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「――ツヨシ。そこにいるな」
低く、硬質な声が三畳一間に響いた。
障子が静かに開くと、そこには白髪混じりの髪をきっちりと結い、色褪せてはいるが寸分の乱れもない小袖をまとった、一人の老侍が立っていた。
その鋭い眼光は、まるで抜き放たれた名刀のようだ。
俺の脳内時代小説ライブラリーが、ツヨシとしての「肉体の記憶」とリンクして、激しくページをめくり始める。
「……秋山、陣内先生」
思わず、その名前が口から漏れた。
そう、この老侍は、俺が転生する前の「元のツヨシ」が所属していた、ある地方藩の有能な家臣時代の「上司」であり、同時に藩の御留流の剣術を授けてくれた「師匠」その人だった。元のツヨシは、藩内の世継ぎ争いと不正を暴こうとして失敗し、陣内先生や仲間を逃がすために、自らすべての罪を被って脱藩し、この下町で身を隠していたのだ。
「お久しぶりです、先生。お元気そうで何よりだ」
「ふん。お前が下町で屋台を引きながら、城内の魔導公爵を叩き伏せたという噂を聞いた時は耳を疑ったが……。その腰の据わり方、ただの噂ではなさそうだな」
陣内先生は部屋に入ると、刀を律儀に右側に置き、畳の上にどっかりと座った。その目は、かつての弟子の変化を鋭く観察している。
「まあ、堅苦しい話は抜きにしましょうや。ちょうど、美味い鍋ができたところです。先生も、これをつつきながら話をしましょう」
俺は鉄鍋を取り囲むように、陣内先生の前に箸を差し出した。
鍋の中では、魔導コケコッコのぶつ切りとつくねが、黄金色の鳥脂を湛えた割り下の中で、実に見事に煮上がっていた。
「……む」
堅物で鳴らした陣内先生も、その尋常ではない香ばしい匂いに、わずかに眉を動かした。箸を取り、ぶつ切りの肉をひとつ口に運ぶ。
ハフハフと熱そうに咀嚼し、ゴクリと飲み込んだ瞬間、老剣士の顔が目に見えて和らいだ。
「――美味いな。肉の歯ごたえが尋常ではない。噛めば噛むほど、凝縮された鳥の旨味が溢れ出てくる。この濃い目の割り下が、肉の野生味を極限まで引き立てているぞ」
「でしょう? つくねの方もいってみてください。小骨ごと叩いてあるんで、汁に深いコクが出るんです」
俺たちは無言で鍋をつつき、地酒を酌み交わした。これぞ池波作品の真骨頂、美味い飯の前には、武士の身分も過去の因縁も関係なくなる。
だが、一通り胃袋が落ち着いたところで、陣内先生の顔が、再び今野敏作品のキャリア官僚のような、冷徹な「組織の顔」に戻った。
「ツヨシ。お前を褒めに来たわけではない。はるばる故郷の藩からお前を追ってきたのは……藩が、いよいよ限界だからだ」
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陣内先生は、静かに語り始めた。
「お前が脱藩した後、藩内では『新家老』が完全に権力を掌握した。奴は藩の財政を私物化し、中央の幕府の闇組織と結託して、禁忌の魔導兵器の密輸に手を染めている。これがお上に露見すれば、藩はお家潰し(改易)、数千人の領民と藩士は路頭に迷うことになる。私は組織の論理に従い、内部からの改革を試みたが……もはや、個人の正義では抑えきれん」
上田秀人先生の『奥右筆秘帳』、あるいは今野先生の『隠蔽捜査』に通じる、重厚な組織の闇の構図だ。
巨大な藩という「組織」を守るために、上層部は不正を隠蔽し、末端の人間をトカゲの尾切りのように切り捨てる。元のツヨシも、そのシステムの不条理に巻き込まれた犠牲者の一人だったのだ。
陣内先生は、俺に向かって深く頭を下げた。
「元上司として、そして師として恥を忍んで頼む。ツヨシ、お前のその異能の力と剣技で、一度故郷へ戻り、藩の腐敗を根底から叩き潰してはくれまいか」
俺は箸を置き、静かにビール風の魔酒を飲み干した。
前世の時代小説の知識(メタ知識)が、瞬時にこの状況を分析する。
「なるほどねぇ。上田先生の作品なら、ここで『武家社会のシステムそのものが生み出す歪み』に、一介の浪人がどう風穴を開けるかというサスペンスに突入するわけだ。そして今野先生の作品なら、変に感情に流されるのではなく、物事の本質を見極めて、最も合理的な解決策を選択せねばならん」
俺はトボけた顔で、ふっと笑った。
「先生。組織ってのはね、一度内部が腐り始めると、上層部を挿げ替えただけじゃ治らないんですよ。彼らは自分たちの権力を守るために、必ず『例外』を排除しようとする。かつての俺がそうだったようにね。だから、戦うなら徹底的に、奴らが『隠蔽』しようとしている真実を、白日の下に晒し出すしかない」
俺の理路整然とした、かつ冷徹な組織分析を聞いた陣内先生は、目を見開いた。
「お前……脱藩して下町で流れておる間に、随分と知恵が回るようになったな。かつての、ただ一本気だったツヨシとは、まるで別人のようだ」
「ははは、ただの読書マニア――いや、食い意地の張った浪人ですよ」
その時だった。
長屋の周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。
湯気の向こう、障子の外に、殺気を完全に殺した複数の「影」が、忍び寄ってくるのが分かった。
「――来たか」
陣内先生が即座に右手の刀を掴んだ。
「私を尾行してきたな、新家老の手下どもめ!」
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バリィィィン!!!
三畳一間の障子が激しく破られ、月光とともに四人の剣士が室内に躍り込んできた。
全員が藩の精鋭剣士の証である、統一された漆黒の魔導小袖を着用している。その手には、青く鋭い魔力を帯びた日本刀が握られていた。
「脱藩浪人のツヨシ、そして裏切り者の秋山陣内! 藩の機密を知る貴様らを、ここで『隠蔽』処分にする!」
リーダー格の剣士が冷酷に言い放ち、一斉に刃を向けてきた。
「おのれ、若造どもが!」
陣内先生が老齢ながらも見事な御留流の構えを見せ、一番手の刃を鋭く弾き飛ばす。しかし、さすがに藩の精鋭四人を相手に、狭い三畳一間での多勢に無勢。先生の足元が、僅かに畳に引っかかり、体勢が崩れた。
「死ね、老いぼれ!」
二人の剣士が、無防備になった陣内先生の左右から、容赦ない同時突きを放つ。
「おいおいおい、せっかくの美味い鍋が冷めちまうじゃないか」
俺は、座ったままで腰の魔導刀をスラリと抜き放った。
(「居眠り磐音は、春の陽だまりの中にいるような脱力構えから、向かってくる二本の白刃の『芯』を、一瞬の居合いで正確に捉えた――」)
脳内の磐音モードが完璧にシンクロする。
――ギィィィィンッッッ!!!!
激しい金属音が響き、襲いかかった二人の剣士の刀が、根元から綺麗に弾き飛ばされて天井に突き刺さった。
「な、何ぃ!? 座ったままで、我が藩の神速の突きを弾いた、だと!?」
剣士たちが驚愕して足を止める。
俺はゆっくりと立ち上がると、よれよれの羽織を軽く正した。
「先生、ここは弟子の俺に免じて、一肌脱がせてくだせえ」
残る二人の剣士が、怒り狂って俺の首をめがけて左右から斬りかかってくる。
しかし、俺の目には、彼らの太刀筋の「隙」が、今野敏先生の警察小説に出てくるプロの鑑識官のように、理路整然とした「データ」として見えていた。無駄な感情に流された剣など、合理的で洗練された剣技の前には、ただの動く標的に過ぎない。
俺は最小限の動きで二人の刃を紙一枚の差でかわすと、刀を翻し、刃ではなく「峰(背の部分)」を使い、一人の手首をパシィン!と鋭く叩いた。
「ウグッ!?」
刀を取り落とした相手の胸元へ、今度は完璧なタイミングで「体術」の肘打ちを叩き込む。ドスン、と壁に激突して一人が気絶。
さらに、残るリーダー格の剣士が背後から放った必殺の唐竹割りを、俺は刀を鞘ごと左手に持ち、ガキィィン!と完璧に受け止めた。そのまま刀を滑らせ、相手の懐に飛び込むと、刀の「柄頭」で、男の眉間を正確にゴンッ!と一突きした。
「ガハッ!?」
脳震盪を起こしたリーダーが、白目を剥いてその場に崩れ落ちる。
わずか数十秒。藩が誇る精鋭四人が、俺の刃で一人も傷つけられることなく、完璧に、合理的に無力化されたのだ。
陣内先生は、刀を構えたまま、呆然と俺を見つめていた。
「ツヨシ……お前、今の構え、そして身のこなし……。我が藩の流派のどれでもない。一体、どこでその剣を学んだのだ?」
「いやぁ、ただの『居眠り』ですよ、先生」
俺はトボけた顔で刀を鞘に収め、カチャリと音を鳴らした。
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長屋に、再び静かな軍鶏なべの湯気が立ち上る。
気絶した刺客四人は、長屋の若者・三吉たちに通報してもらい、下町の役所へ引き渡した。
「……ツヨシ。やはり、お前は藩に戻るべきだ」
陣内先生が、真剣な目で俺を見つめた。
「お前のその知恵と、見たこともない凄絶な剣技があれば、必ずや藩の腐敗を正し、お家騒動を解決できる。頼む」
俺は、鉄鍋の中に残った、魔導コケコッコの旨味がこれでもかと溶け出した濃厚な割り下を見つめた。
下町でのスローライフは最高に居心地がいい。だが、前世の時代小説マニアの血が、体の奥底で囁いているのだ。
『佐伯泰英の磐音も、坂崎磐音シリーズの後半では、宿敵と決着をつけるために故郷の豊後関前藩へと戻り、大立ち回りを演じた。時代小説の主人公たるもの、かつての因縁から逃げたままで終わるわけにはいかない』
それに何より――。
「地方の藩か。……そこに行けば、江戸の下町にはない、その土地ならではの『最高の郷土料理(美味いもの)』があるんだろうなぁ」
俺の顔に、ニヤリと comical な笑みが浮かんだ。
「よし、先生。乗りかかった船だ、そのお家騒動、俺が一刀両断にしてやりましょう。ただし、道中の飯代は先生の奢りですよ」
「ふっ、構わん。藩の財政を救った暁には、最高の宴を用意してやる」
陣内先生と固い握手を交わし、俺は鍋の最後の「締め」に手を伸ばした。
残った旨味たっぷりの割り下を一度沸騰させ、そこへ、大家のばあさんから分けてもらった魔鳥の卵を、トロリと回し入れる。半熟になったところで、ホカホカの麦飯の上にドカンと乗せる。
これぞ、軍鶏なべの最高のフィナーレ――「特製・親子丼」だ。
箸でとろとろの卵と、旨味の染みたつくねを、ご飯ごと豪快にかき込む。
「――っ!!!! 染みる、美味すぎる……!」
濃厚な割り下の甘辛さと、卵のマイルドなコク、そして魔鳥の凝縮された旨味が一体となり、旅立ちを決意した五臓六腑に凄まじい活力を与えてくれる。
「ふむ……新章の幕開けには、この濃厚な親子丼がよく似合う。よし、待ってろよ故郷の悪党ども。俺の浪人スローライフと、まだ見ぬ地方のグルメのために、一肌脱いでやる!」
熱い親子丼を一気にかき込み、俺はぷはぁと息を吐いた。
破れた障子の向こう、異世界の大きな月が、新たなる旅路の始まりを告げるかのように、俺と陣内先生を静かに照らし出していたのだった。




