第3話: 修羅場の後は、揚げたての天ぷらに限る
1
「――はいよ、家賃半年分。きっちり収めてくだせえ、大家さん」
俺は三畳一間の畳の上に、ジャラジャラと小気味よい音を立てて銅貨の山を積み上げた。ドヤ顔というやつである。
「おやまあ……」
キセルを咥えたエルフの大家のばあさんが、尖った耳をピクピクと動かし、珍しく目を見開いている。
「あんた、あの『つよし寿司』とかいうおにぎりみたいな魚飯の屋台で、そんなに稼いだのかい? 大したもんだねぇ。てっきり、そのうち行き倒れるかと思ってたよ」
「へへん、江戸の職人の知恵と、下町の町人の胃袋を舐めてもらっちゃ困ります」
ばあさんは満足げに銅貨を懐に収めると、「来月からもちゃんと働きなよ」と言い残して去っていった。
『つよし寿司』は大繁盛だった。魔魚クラーケン・フィッシュの脂の乗ったトロは、赤酢のシャリと合わさることで、異世界の住人たちの味覚を完全に虜にした。まとまった金が入り、俺の「異世界浪人スローライフ」は、まさに順風満帆、盤石の構えを見せている……はずだった。
だが、俺の「時代小説マニア脳」が、ここ数日、不穏なアラートを鳴らし続けていた。
長屋へ帰る路地裏。あるいは屋台を片付けている夕暮れ時。
ジトっとした、肌に張り付くような冷徹な「視線」を感じるのだ。
「ううむ……この、見られているのに気配を完全に消そうとする陰湿な空気。上田秀人先生の『奥右筆秘帳』で、主人公の立花併馬が幕府の隠密、あるいは御庭番の執拗な尾行に気付いた時の描写にそっくりじゃないか。もしや、俺の知らないところで、この『神平城京』の歴史の闇が動いているのか?」
佐伯泰英先生の『居眠り磐音』でも、磐音が普段は昼行灯を決め込みながらも、刺客の殺気には敏感に反応していた。前世で数千冊の時代小説を読み込んできた俺の脳内チートは、この手の「フラグ」に対して人一倍敏感だった。
「お家騒動か、それとも幕府の陰謀か。いずれにせよ、一介の浪人のスローライフを脅かす奴は、池波先生の『剣客商売』の秋山小兵衛のように、粋に、かつ容赦なくあしらってやらねばな」
俺は腰の魔導刀の鯉口を親指で軽く押し上げ、カチャリと静かな音を響かせた。
2
その日の夕方、市場の片隅で屋台の片付けを終えた俺の前に、一人の奇妙な客が現れた。
頭から深いフード付きの外套を被り、顔を隠している。だが、衣服の隙間から覗く肌の白さ、そして何より、フードの横からツンと突き出た美しい耳――長屋の大家さんとは違う、若く瑞々しいエルフの娘だった。
その凛とした立ち振る舞い、一切の無駄がない足運び。ただの町娘ではない。明らかに訓練された「武家」あるいは「隠密」のそれだ。
「お前が、どんな魚でも捌くという浪人か」
鈴の転がるような、しかし氷のように冷たい声が響いた。
「へえ、ただの食い意地の張った浪人ですがね。あいにく今日の寿司はもう仕舞いだ。美味いトロが食いたきゃ、明日の朝一番に来てくんな」
「寿司を食いに来たのではない。これを調理してもらいたい」
娘は外套の中から、白い布に包まれた小ぶりの魚を取り出し、俺の前に差し出した。
布を開くと、そこには体長三十センチほどの、全身が引き締まった見事な白身の魚が横たわっていた。しかし、その背ビレと腹ビレには、黒く濁った鋭い「針」が何十本も生えており、見るからに危険なオーラを放っている。
「……『魔導・トゲウオ』か」
俺は声を潜めた。魚市場の親分から聞いたことがある。その針には、象をも一瞬で麻痺させる猛毒があり、触れることすら禁忌とされる危険な魔魚だ。
「お前がこれを毒抜きし、美味に仕上げることができれば、相応の報酬を払う。できねば……そこまでの男だったということだ」
娘の瞳が、フードの奥でギラリと光った。
俺の脳内時代小説ライブラリーが、猛スピードでページをめくる。
「おいおいおい、佐伯先生の作品なら、こういう訳ありの絶世の美女が無理難題な食材を持ち込んできた時は、100%裏がある。これは俺の腕前と素性を測るための『罠』、あるいは『テスト』ってやつだ。ここで失敗すれば消され、成功しても目を付けられる……。上田先生の小説なら、最も警戒すべき展開じゃないか」
断るのが賢明な生き方だろう。
だが、俺は時代小説マニアであると同時に、池波正太郎先生の作品に育てられた「美食の探求者」でもあった。
差し出されたトゲウオを見る。針の毒は恐ろしいが、その皮の下にある白身は、実に見事な弾力と、骨の周りに極上の脂を蓄えているのが分かった。
「……池波先生の『仕掛人・藤枝梅安』を読んだ男が、目の前の食材の毒を恐れて包丁を引けるかよ。よし、乗った。お嬢さん、長屋の俺の部屋へ来な。今夜は、江戸の最高の『ご褒美』を喰わせてやる」
3
長屋の三畳一間に娘を招き入れ、俺は土間に包丁を並べた。
娘は部屋の隅に静かに腰掛け、油断なく俺の手元を凝視している。その目は、調理の手際の中に、俺の「流派」や「身のこなし」の癖を見出そうとしていた。
「ふん、監視されながらの調理か。だが、梅安先生の針さばきに比べれば、この程度のプレッシャーはどうということはない」
俺は静かに息を吸い、包丁を握った。
(「藤枝梅安は、冷徹な目で男の首筋を見つめ、指先の感覚だけで急所を探り当てた。迷いは、微塵もない――」)
脳内の仕掛人モードとシンクロしながら、包丁の先を、トゲウオの背ビレの根元へと滑り込ませた。
チート能力が発動する。魚の体内のどこに毒線があり、どこに魔力の流れがあるのか、筋肉の隙間が細い「線」となって視界に見えるのだ。
スッ、スッ、スッ。
無駄のない滑らかな包丁さばき。ミリ単位の狂いもなく、猛毒の針とその根元にある毒袋が、一本残らず綺麗に切り離されていく。娘の息が小さく止まるのが分かった。彼女ほどの達人であっても、この神業のような精密さは予想外だったのだろう。
「よし、毒抜きは完了だ。だが、これをつまらない焼き魚にするんじゃ芸がない。江戸の四大グルメ、蕎麦、寿司と来たら、3つ目はこれしかないだろ」
俺は、市場で手に入れておいた「胡麻油(に似た、香ばしい植物の油)」を鉄鍋にたっぷりと注ぎ、火にかけた。
そう、今夜のメニューは「天ぷら」である。
当時の江戸において、天ぷらは高級店で気取って食うものではなかった。屋台でパチパチと揚げ、揚げたてを串に刺してハフハフと食う、最高に粋なファストフードだったのだ。
油が温まり、パチパチと小気味よい音が響き始める。
小麦粉と水を軽く合わせた衣に、トゲウオの純白の切り身をくぐらせ、油の中へ静かに投入する。
――サクゥゥゥッ!!!!
激しい、しかし心地よい油の爆ぜる音が三畳一間に響き渡った。
一瞬にして、香ばしい胡麻油の匂いと、魚の焼ける極上の香りが部屋中に充満する。ネギに似た薬草や、異世界の旬の夏野菜も一緒に衣をつけて油へ放り込む。
「天ぷらは、一に油、二に衣、三に火加減……。池波先生のエッセイに出てくる名店の技には遠く及ばないが、この異世界の食材の暴力なら、十分に補える」
黄金色の美しい衣をまとった天ぷらが、次々と皿に盛り付けられていく。
俺は、魔海から採れたという粗塩をパラリと振り、まずは一切れを箸で掴んだ。
「お嬢さん、天ぷらは揚げたての一瞬が命だ。能書きはいいから、まずは食え」
俺はハフハフと言いながら、自分の口に天ぷらを放り込んだ。
「――っ!!!!」
美味い、美味すぎる!
外側の衣は「サクッ」と信じられないほど軽い音を立てて砕け、その瞬間、中の白身から「フワッ」と濃厚な旨味のスープが溢れ出してきた。毒を持っていたとは思えないほど、上品で澄んだ味わい。そこに胡麻油の力強いコクが加わり、完璧な満足感を生み出している。
「修羅場(仕込み)を終えた体に、この油のコクが五臓六腑に染み渡る……! やはり天ぷらは揚げたてに限るな!」
娘は戸惑いながらも、俺のあまりの美味そうな食べっぷりに気圧され、箸を取った。小さな口で、天ぷらをそっと噛じる。
サクッ。
「……っ!?」
娘の美しい目が見開かれた。フードが僅かにずり落ち、驚愕の表情が露わになる。彼女の箸は止まらなくなった。密偵としての冷静さはどこへやら、次々と天ぷらを口へ運び、「ん、んむ……」と、comical なほど夢中で平らげていく。
「ははは、江戸の知恵を舐めちゃいけないよ、お嬢さん」
俺が地酒をキュッとやると、娘はハッと我に返り、真っ赤になって箸を置いた。
「……見事な腕前だ。美味であった。約束の報酬だ」
娘は小さな財布を畳に置くと、窓を開け、まるで煙のように夜の闇へと消え去っていった。
4
「ふう、ごちそうさまでした、と」
俺が皿を片付け、茹で釜の火を完全に消した、その直後だった。
長屋の屋根の上で、パキッと、不自然に瓦が軋む音がした。
一つではない。三つ、四つ。
「おいおい……」
俺は小さく溜息をついた。
「池波先生の作品なら、美味い飯を食った直後に刺客が襲ってくるのがお約束。そして上田先生の作品なら、こちらの能力を確認した裏組織のボスが『生かしておいては危険』と判断し、即座に口封じの部隊を送ってくるタイミングだ。本当に、時代小説の教科書通りの展開じゃないか」
次の瞬間、三畳一間の窓と天井が、同時にバリィィン!と突き破られた。
室内に飛び込んできたのは、黒装束に身を包み、顔を隠した三人の男たち。エルフの娘と同じく、洗練された動き――幕府の闇組織が誇る「隠密エルフ部隊(暗殺者たち)」だった。
彼らの手には、魔力を帯びて不気味な黒い光を放つ、クナイや短剣が握られている。
「……消せ」
低い声とともに、三人の刃が、座っている俺の首筋をめがけて同時に突き出された。
張り詰めた緊張感が部屋を満たす。
だが、俺の心は驚くほど冷静だった。いや、むしろ『居眠り磐音』のモードに入り、心地よい脱力感すら覚えていた。
(「磐音は、眠るが如き構えのまま、相手の刃が自らの喉元に達するその刹那まで、微動だにしなかった――」)
「ふっ」
俺は座ったまま、上体をわずかに後ろへ反らした。
シュパパパンッ!と、三本の刃が俺の鼻先をかすめ、空を切る。
暗殺者たちが目を見開いた瞬間、俺の右手は、畳の上に置いてあった魔導刀の柄へと伸びていた。
――ギィィィィンッ!!!!
夜の闇を切り裂く、一閃の居合い。
刀を大きく振るのではない。相手のクナイの軌道を完全に読み切り、その「刃の腹」を的確に叩いて弾き飛ばす、精密極格な防御の剣だ。
三人の武器が、甲高い音を立てて手元から弾け飛ぶ。
さらに、俺は昼間の調理で余らせておいた、あのトゲウオの「麻痺毒の針」を、机の上の箸でピシィィン!と正確に摘み取った。
東野圭吾先生の『加賀恭一郎』のような、無駄のない、かつ理知的な体術。
「そら、お返しだ」
手首のスナップを利かせ、弾き飛ばされた暗殺者たちの首筋のツボへ、針を正確に投擲する。
「グッ!?」「ウ、ウソだろ……」
針を刺された二人の暗殺者が、一瞬にして全身の筋肉を硬直させ、畳の上にドスンと倒れ込んだ。麻痺毒が完璧に極まったのだ。
残るリーダー格の一人が、驚愕と戦慄に震えながら、一歩後ろへ下がった。
刃を一切使わず、身を傷つけることもなく、一瞬で部下二人を無力化されたのだ。その底知れぬ強さに、完全に気圧されている。
俺は刀をゆっくりと鞘に収め、カチャリと音を鳴らすと、倒れた暗殺者たちを見下ろしながら、静かに言った。
「お前たちのボスの狙いは、この下町の流通や利権だけじゃないな? 『神平城京』の城内にある、古い古い『記録(系図や過去の罪)』を書き換え、国家を揺るがそうとしているだろ」
上田秀人先生の『奥右筆秘帳』のパターンから、黒幕の「お家騒動・国家転覆」の意図を、前世の知識(メタ知識)でズバリと言い当ててやったのだ。
「な、なぜそれを……!? 我らの真の目的を、なぜ一介の浪人が知っている……っ!!」
リーダーの暗殺者は、顔色を失い、まるで怪物を見るかのような目で俺を睨みつけた。この世に知るはずのない国家機密を、目の前の冴えない浪人が看破したのだ。恐怖を感じないはずがない。
「言っただろ、ただの食い意地の張った浪人だよ。……さあ、その動けない仲間を連れて、早くお行き。これ以上長屋を汚されると、大家のばあさんに俺が怒られる」
ツヨシがトボけた顔で腕を組むと、リーダーの暗殺者は「お、おのれ……!」と戦慄しながらも、麻痺した二人を両肩に担ぎ、夜の闇へと這うようにして撤退していった。
5
長屋に、再び静寂が戻ってきた。
突き破られた天井から、異世界の大きな月が、静かに部屋を照らしている。
「ふう、やれやれ。命を狙われるなんて、いよいよ本格的な時代小説の主人公になってきたな。スローライフも楽じゃない」
俺はぽりぽりと頭をかくと、土間に残っていた天ぷらの皿を見た。
冷めてしまっては、せっかくの天ぷらが台無しだ。だが、修羅場を終えた今の胃袋には、少し油が重い。
「こういう時は、池波先生が愛した、あの締めくくりに限る」
俺は残った麦飯の上に、冷めかけたトゲウオと夏野菜の天ぷらを乗せた。そして、昼間に作っておいた火炎鳥の濃厚な出汁を、上からたっぷり、熱々に沸かして注ぎ込んだ。
これぞ、江戸の粋の極み――「天茶(天ぷら茶漬け)」である。
お茶の代わりに、旨味の凝縮された出汁を使うのがツヨシ流だ。
衣が汁を吸って「ジュワッ」と柔らかくなり、胡麻油のコクが出汁の中に溶け出していく。
箸でご飯と天ぷらをざっくりとかき混ぜ、器に口をつけて、さらさらさら、と豪快にかき込む。
「――あふ、う、美味い……!」
出汁を吸った衣のジャンクな美味さと、白身魚の上品な風味が、サラサラとした喉越しとともに胃袋へ滑り込んでいく。張り詰めていた精神が、この一杯の天茶によって、じんわりと紐解かれていくのが分かった。
「緊迫した政治劇の後は、このサラサラとした天茶が最高だ。よし、どんと来い、幕府の闇。お家騒動だろうが国家転覆だろうが、俺の美味い浪人スローライフを邪魔する奴は、誰であれ、この魔導刀で一刀両断にしてやる」
熱い出汁を最後の一滴まで飲み干し、俺はぷはぁと息を吐いた。
天井の穴から差し込む月光を浴びながら、俺の目は、かつてないほど鋭く、そして comical に輝いていたのだった。




