第2話: お寿司を握れば、闇が寄ってくる
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「――ということでね、浪人さん。これが今朝のぶんだよ。しっかりおあがり」
コンコン、と三畳一間の障子が開くと、そこには大家のエルフのばあさんが立っていた。尖った耳をせわしなく動かしながら、お盆に乗せた麦飯と、カブに似た異世界の根菜の塩漬けを差し出してくれる。
「これは大家さん、かたじけない」
「ふん、夕べのあんたの活躍のおかげで、長屋の連中も枕を高くして寝られたんだ。これくらい安いもんさ。その代わり、店代の猶予は今月末までだからね!」
ばあさんはキセルをパチリと鳴らし、フイと背を向けて去っていった。
差し出された麦飯をハフハフと口に放り込みながら、俺は畳の上に転がした財布を薄目で見た。中身は昨日と変わらず、わずか三文。
「ううむ、下町の人情が身に染みる。『居眠り磐音』の金兵衛長屋の大家、金兵衛さんもこんな風に磐音の面倒を見ていたな。だが、あちらの磐音は鰻割烹の『宮戸川』で用心棒をしてしっかり稼いでいた。このままでは、俺はただの『ただ飯を食う居候浪人』になってしまう」
『剣客商売』の秋山大治郎のように、一日中道場にこもって木刀を振るうストイックさも格好いいが、あちらには偉大な父・小兵衛からの仕送りや、大旦那からの援助がある。天涯孤独の身で、しかもこの異世界にそんな都合のいいパトロンはいないのだ。
「武士は食わねど高楊枝、なんて気取っている場合じゃないな。まずは日銭を稼がねば。時代小説の浪人といえば……傘張り、金魚売り、あるいは文字の代書か」
しかし、この異世界の文字はまだ満足に読めないし、傘を張る技術もない。
困り果てて長屋の井戸端へ向かうと、昨日オークから助けてやった獣人の若者・三吉――犬の耳を持つ人懐っこい男が、天秤棒を担いで出かけるところだった。
「あ、ツヨシの旦那! おはようございます!」
「おう、三吉。これから仕事か?」
「へえ! 下町の『河岸(魚市場)』で荷運びのバイトですよ。今、あそこは人手が足りなくて、力自慢なら誰でも歓迎なんです。旦那ももしよかったら、どうですか? けっこう割がいいんですよ」
「河岸、か。よし、俺も連れて行ってくれ。秋山大治郎のように、少しは汗を流して稼ぐとしよう」
俺は刀をしっかりと腰に帯び、三吉の後を追って家を出た。
2
案内された異世界の魚市場、通称「下町河岸」は、凄まじい熱気に包まれていた。
「さあ引いた引いた! 活きのいい『爆裂トビウオ』だよ!」
「こっちの『鎧甲殻ガニ』はハサミが危ねえから気をつけな!」
威勢のいい声が行き交い、見たこともない魔海の魚たちが氷の上に並んでいる。エルフやドワーフ、獣人たちが入り乱れて天秤棒を担ぎ、まさに江戸の日本橋の河岸をファンタジー風に煮詰めたような活気だ。
俺は三吉とともに、魚の入った重い木箱を運ぶ仕事を始めた。前世では運動不足気味の現代人だったが、この世界に転生してからは、なぜか体が軽い。まるで『新・古着屋総兵衛』の折瀬総兵衛のように、どんな重い荷物もひらりと担げてしまう。これも隠れた転生チートだろうか。
ひと汗かいて、元締めから手渡された銅貨を数えていると、市場の奥の方から「はぁ……」と深い、重いため息が聞こえてきた。
見れば、市場の元締めであるトドの獣人――恰幅のいい、いかにも海の男といった風貌の親分が、一本の巨大な魚を前に頭を抱えていた。
「おいおい、池波先生の作品なら、河岸の親分ってのはもっと威勢がよくて、美味い初鰹を包丁で豪快に捌いているもんだが……どうしたんだ?」
気になって近づいてみると、そこには一本の見事な巨魚が横たわっていた。
体長は優に二メートルを超えている。丸々と太り、背側は濃い藍色、腹側は美しい銀白色。
「……マグロ、か?」
思わず声が出た。見た目はどう見ても、前世で見た最高級の本マグロ、そのものである。ただし、尾ひれのあたりから、小さなイカのような触手が数本ウネウネと生えている点を除けば、だが。
「おう、浪人の旦那か」
トドの親分が、困り顔でこちらを振り返った。
「こいつは『水棲クラーケン・フィッシュ』っていう魔魚さ。味は最高なんだが、捌くのがとにかく難しくてね。不用意に刃を入れると、身の中にある『魔力袋』が破れて、せっかくの極上の身がドロドロに溶けちまうんだ。おまけに、下町の米や塩を牛耳ってる悪徳ドワーフの『ゴルドル商会』の奴らが、嫌がらせにこいつを市場に大量に押し付けてきやがったのさ」
「ゴルドル商会?」
「ああ。奴らはこの街の食材の流通を独占して、価格を吊り上げようとしてる。俺たちが言うことを聞かねえからって、嫌がらせに『捌けねえ魔魚』ばかりを卸して、市場を干上がらせようって腹さ。畜生、このままじゃ、下町の飯屋に魚が回らなくなっちまう……」
上田秀人先生の作品に出てくるような、嫌らしい経済の闇、組織の陰謀の臭いがプンプンする。
だが、俺の目は、そのクラーケン・フィッシュの、切り口から覗く見事な赤身と、びっしりとサシの入った「大トロ」の部分に釘付けになっていた。
「魔力袋を傷つけずに捌く……? ふっ、冗談じゃねえ。前世で池波正太郎の『仕掛人・藤枝梅安』を何度も読み返したこの俺の目が、その程度の構造を見抜けないとでも思うか」
梅安先生は針一本で人の急所を貫くプロだ。そして、俺の脳内にある時代小説チートは、相手の「構造の隙間」を見出す能力に長けている。この魚の魔力袋がどこにあるか、見つめているだけでなんとなく「線」が見えてくるのだ。
「親分。その魚、俺に捌かせてくれないか。もし上手くいったら、その身を少し分けてほしい」
「えっ? 旦那、お侍が包丁を握るのかい?」
「ただの浪人ですよ。食い意地が張っているだけのね」
3
長屋の土間にその巨魚を持ち帰り、俺は包丁を握った。
長屋の住人たちや、エルフの大家のばあさんまでが「本当に大丈夫かいね」と心配そうに覗き込んでいる。
「ふーむ。江戸の四大グルメ、蕎麦の次はこれしかないだろ」
俺が目指すのは、江戸時代のファストフードの王様、「握り寿司」である。
当時の寿司は、現代の小洒落た高級寿司とは違う。屋台でサッと買って、その場で立ち喰いする、おにぎりほどもある大きな寿司だ。
まずはシャリの用意だ。大家のばあさんから米を分けてもらい、異世界の果実酢(これがまた、絶妙なコクのある赤酢に似ていた)と塩を合わせ、うちわでパタパタと煽りながら酢飯を作る。部屋の中に、ツンとした、しかし食欲をそそる良い香りが広がる。
「さて、ここからが本番だ」
俺は呼吸を整えた。
(「藤枝梅安は、静かに息を吸い、その細い針を男の頸椎の隙間へと滑り込ませた。抵抗は、まったくない――」)
脳内の梅安先生のイメージとシンクロしながら、包丁の刃先を、クラーケン・フィッシュの触手の付け根、そのわずかな隙間にスッと差し込んだ。
手応えがあった。魔力袋の皮一枚を綺麗に避け、包丁が滑らかに滑っていく。
シュルリ、と見事な手際で三枚におろされていく巨魚。
魔力袋は一つも傷つくことなく、綺麗に取り除かれた。現れたのは、これ以上ないほど見事に輝く、濃密な赤身と、ピンク色に脂肪の乗った大トロの塊だった。
「おおおおっ!!」
長屋の連中から大歓声が上がる。
「よし、ここからは職人の時間だ」
ネタを大きめに切り分ける。そして、手のひらに赤酢のシャリを適量取り、わさびに似たツンとくる薬草のすりおろしを忍ばせ、切り出した赤身を乗せる。
指先をリズミカルに動かし、キュッ、キュッと二度、三度。
完成したのは、現代の寿司の二倍はある、堂々たる「江戸前の握り寿司」だ。
「まずは、職人の特権、味見といこう」
ココノエ醤油をサッとハケで塗り、そのまま大きな塊を口の中に放り込んだ。
「――っ!!!!」
美味い。美味すぎる。
口に入れた瞬間、魔魚の脂が体温で一気にとろけ、濃厚な旨味が爆発した。触手が生えていた時の生臭さは微塵もない。赤酢のシャリの酸味が、魔獣特有の強いクセを完璧に中和し、さっぱりとした後味に変えている。
「これだ……! 池波先生なら『これぞ、江戸の初夏の味である。男は、思わず頬を緩めた』と書くところだ。シャリの温かさと、魚の冷たさが口の中で渾然一体となる、この粋な味わい!」
興奮した俺は、長屋の住人たちにも次々と寿司を握って振る舞った。
「何これ! 固いお米とお魚が、お口の中で溶けちゃう!」
「美味い、美味すぎるよ旦那!」
獣人の子供たちも大家のばあさんも、目を丸くして寿司を頬張っている。
「よし、三吉。親分からこの魚を安く仕入れる約束をしてある。市場の片隅に屋台を借りて、これを売り出すぞ!」
4
翌日、下町市場の片隅に、突如として小さな木造りの屋台が出現した。
看板には『異世界江戸前・つよし寿司』。
一貫(当時のサイズなので、実質おにぎり一個分)で、町人でも手軽に買える安い価格に設定した。物珍しさと、長屋の連中の口コミ、そして何よりその圧倒的な美味さから、屋台の前にはまたたく間に大行列ができた。
「はい、お待ち! 活きのいいクラーケン・マグロの赤身だよ!」
ツヨシが小気味よいテンポで寿司を握り、三吉がそれをお客に手渡していく。下町の町人たちは「立ち喰い」という新しいスタイルに大興奮し、その場で寿司を頬張り、美味そうに目を細めていた。
商売繁盛、これぞスローライフの醍醐味――と、俺が悦に入っていた、その時だった。
「おいおいおい、随分と景気のいいお遊びをしてるじゃねえか、ええ?」
行列を無理やり掻き分けて、数人の男たちが屋台の前に押し寄せてきた。
先頭にいるのは、豪華な絹の衣服に身を包んだ、いかにも強欲そうな髭面のドワーフ。その後ろには、全身を黒い重仕込みの鎧で固めた、目つきの悪い「装甲トカゲ男」の用心棒が三人、ギラギラとした大剣を携えて控えている。
「あんたが、ゴルドル商会の旦那か」
俺は寿司を握る手を止めず、静かに言った。
「知っているなら話が早い。この市場の食材は、すべて我がゴルドル商会が管理することになっている。許可なくそんな怪しい飯を売られては困るな。おい、その汚い屋台を叩き壊せ」
ドワーフの合図で、三人のトカゲ男たちが「ギシャアア!」と不気味な声を上げ、大剣を振りかざして一斉に屋台へ突進してきた。
周囲の客たちが悲鳴を上げて四散する。
「やれやれ……。せっかくの商売繁盛、水を差すのは野暮ってものだ」
俺は溜息をつくと、寿司を握っていた手を布できれいに拭った。そして、腰の魔導刀の柄に手をかける。
(「東野圭吾の『加賀恭一郎』なら、ここで相手の足元や呼吸の乱れを冷静に観察し、最小限の動きで無力化するだろう。力任せの剣など、プロの技の前には児戯に等しい」)
一番手のトカゲ男が、屋台ごと俺を真っ二つにせんと、上段から大剣を激しく振り下ろしてくる。
俺は一歩も引かず、むしろ前へ踏み込んだ。
刀を鞘からスラリと抜き放つと、刃で受けるのではなく、刀の「腹(側面)」を相手の大剣の平にピタリと沿わせた。
『剣客商売』の秋山小兵衛が得意とする「ぬるり」とした受け流しだ。
相手の凄まじい怪力が、刀の表面を滑るようにして横へ逸れる。トカゲ男は自分の勢いを制御できず、つんのめった。その瞬間、俺は刀を翻し、刀の持ち手の底部分――「柄頭」で、トカゲ男の強固な顎の下を正確にゴンッ!と一突きした。
「ガハッ!?」
脳震盪を起こしたトカゲ男が、白目を剥いてその場にドスンと崩れ落ちる。
「な、なんだと!?」
残る二人が驚愕し、左右から同時に斬りかかってきた。
俺は低く身をかがめ、加賀恭一郎ばりの理知的な体術で、二人の攻撃の「交差点」をすり抜けた。すれ違いざま、刀の鞘の先端(尻鞘)で、一人の膝の裏を強打。さらに、もう一人の手首を刀の峰(背の部分)でパシィン!と鋭く叩いた。
「ギャッ!」「ウグッ!」
一人は膝を折って地面に突っ伏し、もう一人は大剣を取り落として手首を押さえてうずくまった。
わずか数秒。刀の刃で誰一人として斬ることなく、重装甲の用心棒三人を行動不能に追い込んだのだ。
「ひっ、ひいいい……っ!」
それを見ていた悪徳ドワーフのゴルドルは、顔を真っ青にしてガタガタと震え出した。
「商売ってのは、美味いものを安く客に食わせた方が勝ちだ。お侍の真似事をした用心棒じゃ、江戸の職人の意地は崩せないよ。……お引き取りを、旦那」
俺がトボけた顔で刀をカチャリと鞘に収めると、ゴルドルは「お、覚えていろ!」と古典的な捨て台詞を残し、用心棒たちを引きずりながら一目散に逃げ去っていった。
遠巻きに見ていた市場の人々から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こる。
「旦那、最高だ!」
「つよし寿司、日本一!」
「いやいや、ただの通りすがりの職人(浪人)ですよ。さあ三吉、お待たせした。お客さんの寿司の続きを握ろうじゃないか」
5
その日の夕方、売上は大盛況。屋台の引き出しには、数え切れないほどの銅貨――まとまった売上がジャラジャラと音を立てていた。
「ふう、これでしばらくは飯に困らん。大家さんにも、格好よく家賃が払えるな」
長屋に戻り、俺は三吉や大家のばあさんとともに、残った最高級の大トロの寿司を口に放り込み、地酒を酌み交わしていた。 comical な笑い声が、下町の夜風に溶けていく。これぞ、俺が夢にまで見た浪人スローライフだ。
しかし、その頃――。
下町の喧騒から遠く離れた、武家屋敷街の広大な一角。
逃げ帰ったゴルドル商会が、豪華な部屋の畳の上で、ある一人の男の前に平伏していた。
部屋の奥、薄暗い灯明の中に座っているのは、端正な顔立ちながら、氷のように冷徹な瞳をした一人の「お侍」だった。その佇まいは、上田秀人作品の『奥右筆秘帳』に登場するような、幕府の裏組織を司る冷酷な剣士そのもの。
「御家老様……! 申し訳ございません、あの市場の利権を独占する計画、例の妙な浪人に邪魔をされまして……」
ゴルドルが額を床に擦り付けながら震えている。
男は、静かに手元の古文書(この国の最高機密が記された記録)を閉じ、薄く笑みを浮かべた。
「……ふむ。ただの浪人が、クラーケン・フィッシュを完璧に捌き、我が手の者を刃も使わずに退けたか。面白い男が紛れ込んだものだ」
男の細い指が、腰に差した禍々しい漆黒の魔導刀の柄をトントンと叩く。
「泳がせておけ。我が『神平城京』の計画の邪魔になるようであれば……その時は、私が直々にその首を刈ってやろう」
ツヨシの知らないところで、巨大な歴史の闇、そして組織の陰謀の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めていた。




