第1話: 異世界に転生しちゃったので浪人になってみた(まずは蕎麦から始めよう)
「ツヨシ」シリーズ第6弾が始まります。
1
人間、死ぬときは実にあっけないものである。
俺の名前はツヨシ。どこにでもいる三十路の男だが、人一倍、いや、世界一「時代小説」を愛しているという自負があった。池波正太郎、佐伯泰英、今野敏、堂場瞬一、上田秀人……彼らが紡ぐ、江戸の粋、武士の意地、そして市井の美味いものの描写こそが俺の人生のすべてだった。
あの日も、本屋で佐伯先生の新刊を握りしめ、ホクホク顔で歩道を歩いていたのだ。そこに、異世界転生請負人こと、居眠り運転の大型トラックが突っ込んできた。
「おいおい、池波先生の『剣客商売』なら、ここで秋山小兵衛がひらりと身をかわして、相手の懐に飛び込むところだが……!」
そう脳内で突っ込んだのを最後に、俺の意識は途絶えた。
――そして、気がつくと、俺は瓦屋根の長屋が連なる路地裏に突っ立っていた。
「……あれ? 痛くない」
自分の体をそっと触ってみる。五体満足。それどころか、着ているのは薄汚れた、しかし妙に肌馴染みのいい着物と羽織だ。足元は草履。
そして何より、左の腰にずっしりとした重みを感じた。手繰ってみれば、見事な漆黒の鞘に収まった一振りの日本刀。
「おいおいおいおい、まさか、これは……!」
俺は興奮を抑えきれずに路地から大通りへ飛び出した。
視界に飛び込んできたのは、見事な江戸情緒だった。火の見櫓がそびえ立ち、天秤棒を担いだ行商人が行き交い、瓦屋根の家並みがどこまでも続いている。
だが、決定的な違和感がいくつもあった。
「いらっしゃい! 獲れたての『水棲オークの干物』だよ!」と声を張り上げる魚屋の兄ちゃんには、ふさふさとした犬の耳がついている。
上空を見上げれば、カラスではなく、トカゲに翼が生えたような小型の竜が「ギャー」と鳴きながら横切っていく。
歩いている町娘は着物姿だが、お尻のあたりから、しなやかな猫の尻尾が覗いていた。
「異世界転生……しかも、ファンタジーと江戸時代がごちゃ混ぜになった世界かよ!」
普通ならここで絶望するか、あるいはチート能力で無双してハーレムを作ろうと躍起になるところだろう。だが、俺は違った。時代小説マニアの血が、体の奥底でグツグツと沸き立つのが分かった。
「素晴らしい……! 佐伯先生の『居眠り磐音』、あるいは『新・古着屋総兵衛』の世界が、いま俺の目の前に広がっている。よし、決めた。せっかく転生したんだ。俺は、この異世界で完璧な『浪人スローライフ』を満喫してやる!」
懐を探ると、数枚の奇妙な銅貨が入っていた。これがおそらく、この世界の通貨だろう。全財産、わずか数文。
『剣客商売』の秋山大治郎も、若い頃は金がなくて道場の床板を薪にして暖を取っていたという。浪人のスタートとしては、これ以上ないほど満点、いや、おあつらえ向きの貧乏ぶりではないか。
まずは、今夜の宿の確保である。
2
「あのぅ、大家さん。ここで間違いないでしょうか」
俺が案内されたのは、下町の路地裏の突き当たりにある、いかにも年季の入った木造長屋の一室だった。広さは三畳一間。畳は擦り切れて黄色くなっており、壁にはうっすらと隙間風が通る穴がある。
「そうさね。家賃は月払いでいいけど、来月までに払えなかったら叩き出すからね、浪人さん」
そう言ってキセルをふかしているのは、この長屋の大家のばあさんだ。白髪混じりの髪の間から、尖った長い耳が覗いている。なんと、エルフのばあさんである。ファンタジー界の長寿種族が、江戸の下町で長屋の大家をやっているというシュールさ。これだけでも飯が三杯は食えそうだ。
「ありがとうございます、おばあさん。いや、大家さん。これからお世話になります」
「ふん、礼を言うくらいなら、早く仕事を見つけな。あんた、腰に立派なもん差してるんだから、どこぞの武家屋敷で用心棒でも雇ってもらいなさいよ」
大家さんはフイと背を向けて去っていった。
三畳一間の真ん中にポツンと座り、俺は深くため息をついた。だが、その顔はにやけていた。
「三畳一間の浪人生活……。上田秀人先生の『奥右筆秘帳』の主人公なら、ここで幕府の陰謀を警戒して部屋の四隅に仕掛けを施すところだが、俺にはそんな敵はいない。いるのは、激しく自己主張を始めた、このお腹の虫だけだ」
ぐうぅぅぅ、と長屋の壁が振動するほどの音が鳴った。
トラックに跳ねられてから、まともな食事をとっていないのだ。当然である。
「江戸の浪人の食事といえば……」と、俺の脳内時代小説ライブラリーが高速でページをめくり始めた。
やはり、何と言っても「蕎麦」だろう。
池波正太郎先生の作品を読めば、必ずと言っていいほど美味そうな蕎麦が登場する。深夜に読むと確実に胃袋テロを起こす、あの描写。
「よし、異世界初の食事は蕎麦にしよう。江戸の粋を、この腹に叩き込んでやる」
俺は腰の刀を一度外し、大切に畳の上に置くと、なけなしの銅貨を握りしめて再び市場へと向かった。
市場の雑踏を歩き回り、穀物を取り扱う店を覗く。
「おじさん、蕎麦粉……いや、それに似た粉はないかい?」
ドワーフらしき頑固そうな店主が、顎髭をいじりながら不機嫌そうに言った。
「蕎麦粉ぉ? ああ、魔導蕎麦の粉ならあるがね。かすかに青く光るからって、誰も気味悪がって買やしねえよ。ほら、これだ」
出された袋を覗くと、確かにほんのりと青みがかった、しかし紛れもない蕎麦の香りがする粉が入っていた。
「これだ! これをくれ。それから、そっちの小麦粉も少し」
「おう、売れ残りでよければ安くしとくよ」
俺は前世の知識(という名の、時代小説の読み込み)をフルに動員した。江戸の蕎麦といえば「二八そば」だ。蕎麦粉八に、繋ぎの小麦粉が二。この黄金比率こそが、のどごしと香りを最大限に引き出す。
ついでに、出汁の材料を探す。鰹節は見当たらなかったが、干物屋の軒先に「火炎鳥の干し肉」という、カチカチに乾燥した肉が吊るされていた。
「これは良い出汁が出そうだ。池波先生なら『鶏の旨味が凝縮された、滋味深い味わい』とでも表現するに違いない」
さらに、醤油にそっくりな黒い液体「ココノエ醤油」と、ネギの代わりになりそうな薬草を数本買い求め、俺は意気揚々と長屋へ戻った。
3
「さあて、ここからが腕の見せ所だ」
長屋の共同井戸から水を汲み、借りてきた道具でそば打ちを始める。
三畳一間の狭い部屋で、俺は真剣そのものだった。
蕎麦粉八、小麦粉二。水を少しずつ加えながら、手のひらで丁寧に練り上げていく。魔導蕎麦粉は、練るほどにかすかな青い光を放ち、なんとも幻想的な光景だ。
「異世界でそば打ち職人。うん、悪くない。もし小説のタイトルにするなら『魔導蕎麦処・つよし』ってところか。コミカルなスローライフを1話1話、ゆっくり丁寧に膨らませていくには、こういう描写が不可欠なんだよな」
生地を平らに伸ばし、包丁でトントンと小気味よい音を立てて細く切っていく。
次はつゆだ。
火炎鳥の干し肉を細かく刻み、鍋でじっくりと煮出す。すると、黄金色の澄んだスープが湧き上がってきた。そこにココノエ醤油と少々の砂糖(のような甘味果実の汁)を加えると、部屋の中に、これ以上ないほど香ばしく、出汁の効いた「江戸のつゆ」の匂いが立ち込めた。
匂いは隙間風に乗って、長屋中に広がっていく。
隣の部屋から、小さなケモ耳の子供たちが「くんくん」と鼻を鳴らしながら、障子の隙間からこちらを覗き込んできた。
「お兄ちゃん、何作ってるの? すっごくいい匂い……」
「ははは、これは『そば』っていうんだよ。もう少しで茹で上がるから、楽しみに待ってな」
これだ。これこそが、佐伯先生の『居眠り磐音』で描かれる、下町の温かい人情スローライフだ。俺は完全に物語の主人公になりきっていた。
大きな鍋にお湯を沸かし、いよいよ蕎麦を投入しようとした、その時だった。
――ドカン!!!
長屋の表通りで、荒々しく戸を蹴り開けるような大音が響いた。
続いて、耳を塞ぎたくなるような汚い怒鳴り声が聞こえてくる。
「おい、エルフのババア! 今月の店代の取り立てだ! 払えねえなら、この長屋をぶっ壊して、そこのガキどもを奴隷市場に売り払うぞ!」
せっかくの風情が、一瞬で台無しになった。
俺は思わず天を仰いだ。
「おいおい……。ここで悪党の乱入かよ。池波先生の『剣客商売』なら、秋山小兵衛が美味い酒と肴を楽しんでいる最中に、不届き者が押し入ってくるようなものか。実に王道、王道すぎるが……」
俺は、茹で釜の火をそっと弱めた。
「せっかくの美味いそばが、伸びちまうじゃないか」
俺は畳の上に置いてあった黒鞘の刀を手に取り、スラリと腰の帯に差し込んだ。そして、よれよれの羽織を軽く正し、ふらりと表へ出て行った。
4
長屋の前の広場では、エルフの大家のばあさんが地面に突き飛ばされていた。
その前に立ちはだかっているのは、緑色の肥満体に、猪のような牙を生やした大男が三人。この下町一帯を縄張りにしている、タチの悪い地回りのヤクザ(オークの荒くれ者衆)だった。
「ひっ、ひいい……」
長屋の住人たちが、部屋の陰からガタガタと震えながら見守っている。
「おいおい、そこの緑の旦那がた」
俺は、懐に手を突っ込んだまま、眠そうな目をこすりながら、ふらふらとヤクザたちの前に歩み出た。
「ああん? なんだお前は、見かけねえ人間の浪人だな」
リーダー格のオークが、身の丈ほどもある巨大な魔導斧を肩に担ぎながら、俺を睨みつけてきた。
「何を作っているのか知らねえが、奥から妙に美味そうな匂いがしてきて、イライラしてたんだよ! 邪魔するなら、その首を叩き切るぞ!」
「いやね、今まさに蕎麦を茹でようってところでさぁ。あんたたちが大きな声を出すもんだから、お湯の温度が下がっちまう。風情がないねぇ。せっかくの美味い蕎麦が不味くなる」
俺のトボけた態度に、オークたちは顔を真っ赤にして怒り狂った。
「ふざけたことを抜かすなッ! 死ね!」
リーダーのオークが、凄まじい風切り音を立てて魔導斧を振り下ろしてきた。斧の刃が赤く発光し、魔力の炎をまとっている。
普通なら、恐怖で足がすくむ場面だ。
だが、その瞬間。俺の脳内で「チート能力」が明確に発動した。
前世で浴びるほど読んだ時代小説の、何千、何万という剣劇の描写が、スローモーションのように脳裏を駆け巡る。
『居眠り磐音』の構えなき構え――縁側で日向ぼっこをしているような脱力。
相手の呼吸、筋肉の動き、魔力の流れが、すべて文字(描写)になって見えるのだ。
(「オークは大きく斧を振りかぶった。その一撃は一見豪快だが、大振りゆえに懐がガラ空きである。磐音は、眠るが如き構えのまま、一歩も動かない……」)
「ふっ」
俺は、本当に磐音のように、ふっと息を抜いて体をわずかに斜めに傾けた。
ゴウッ!と、炎をまとった斧の刃が、俺の鼻先をわずか数ミリのところを通り過ぎ、地面を叩き割る。
「な、にっ!?」
オークが目を見開いた。
俺の左手が、自然と腰の魔導刀の柄に触れていた。
前世では一度も刀など握ったことがないはずなのに、まるでもう何十年もこの刀と生きてきたかのように、指先が吸い付く。
「悪党の真似事をするなら、もう少しマシな面構えになってからおいで」
――キィィィィンッ!!!
一瞬だった。
月光を浴びた刀身が、綺麗な半円を描いて閃いた。
抜刀から納刀まで、文字通り一瞬の神速の居合い。
オークたちは何が起こったのか分からず、呆然と突っ立っていた。
数秒の後、ガキン! カランガラン!と、大きな音が響き渡った。
三人の中央にいたリーダーを含め、彼らが持っていた魔導斧や剣の「刃先」だけが、綺麗に切り落とされ、地面に転がったのだ。
「あ、あ、おれの斧が……!?」
「ひっ、化け物か!?」
武器を破壊されたオークたちは、俺の「構えなき構え」の底知れなさに完全に気圧され、腰を抜かしてへたり込んだ。一歩間違えれば、自分たちの首が繋がっていなかったことを本能で理解したのだ。
「……まだ、やるかい? 早く行かないと、本当に蕎麦が伸びちまうんだが」
俺がトボけた顔で刀の柄に手をかけると、オークたちは「ヒィィィ!」と悲鳴を上げ、尻を端折りながら一目散に逃げ去っていった。
長屋の静寂の中に、パチパチという火の粉の音だけが響く。
しばらくの沈黙の後、「おおお……!」という地鳴りのような歓声が長屋の住人たちから沸き起こった。
「浪人さん、あんた、なんて強さだい……!」
大家のエルフのばあさんが、腰を抜かしたまま目を見開いている。
隣の部屋のケモ耳の子供たちも、「お兄ちゃん、かっこいい!」と目を輝かせて駆け寄ってきた。
だが、俺は照れくさそうに頭をかきながら、そそくさと自分の部屋へ戻ろうとした。
「いやいや、ただの通りすがり、食い意地の張った浪人ですよ。それより大家さん、お湯が沸いてる。蕎麦を茹でなきゃならんので、これにて!」
5
三畳一間の部屋に戻り、俺は素早く蕎麦を熱湯に滑り込ませた。
数十秒、絶妙なタイミングで茹で上げ、井戸水で一気に引き締める。
器に盛られた蕎麦は、かすかに青い光を帯びて、まるですりガラスのように美しい。
そこに、火炎鳥の出汁が効いた熱々のつゆを添え、ネギ(薬草)を散らす。
「ふう……。これだよ、これ。修羅場の後のメシこそ、時代小説の真骨頂だ」
池波正太郎先生なら、ここでこう書くところだろう。
『男は、小さく息を吐き、箸を取った。器から立ち上る出汁の香りが、男の鼻腔を優しくくすぐる――』
俺は、蕎麦を数本箸で手繰り、つゆに半分ほど浸して、一気にズズッと音を立ててすすった。
「――っ!!!!」
美味い。美味すぎる。
魔導蕎麦の独特のコシと、鼻を抜ける芳醇な香り。そして何より、火炎鳥から出た濃厚な旨味と、ココノエ醤油のキリッとした塩気が、完璧な調和を奏でている。本家の鰹出汁よりも力強く、どこか野生的なコクがある。
「ふむ……! これは本家江戸の蕎麦にも負けていない。いや、食材の魔力がある分、こちらの方が上かもしれん」
小皿に移した薬草をひとくち噛み、異世界の地酒(どぶろく風の魔酒)をキュッとやる。五臓六腑に、温かいものが染み渡っていくのが分かった。
「ただの浪人になってみたが……この生活、思った以上に最高じゃないか」
窓の外を見上げれば、異世界の大きな月が、下町の瓦屋根を静かに照らしていた。
こうして、時代小説マニアの俺による、 comical でちょっと粋な「異世界浪人スローライフ」が、幕を開けたのだった。




