第14話:闇の経済戦と、汗を忘れる泥鰌なべ
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大王都『ネオ・エド』の夏は、運河の湿気も手伝って、まとわりつくような不快な暑さであった。
三畳一間の長屋には当然、冷房魔導具などという気の利いたものはなく、壁の隙間から吹き込む風すらも生ぬるい。
「――ううむ。この、逃げ場のない酷暑の中で、じっと静を保ちながら敵の動静を伺う緊迫感。上田秀人先生の『奥右筆秘帳』で、主人公が幕府を裏から揺るがす大商会の経済的な陰謀を暴くため、息を潜めて帳簿をめくるあの息詰まるサスペンスそのものじゃないか」
俺は破れうちわをパタパタと煽りながら、上半身裸の裸踊り一歩手前の姿でボソリと呟いた。
「ツヨシ、暑さでいよいよ頭が本格的にイカれたのか。だいたい、その『うえだひでと』とは誰なのだ」
隣で、涼しげな顔のまま(しかしエルフの長い耳は心なしかへたっている)カエデが、冷たい目線を投げかけてくる。
「カエデさん、頭はいつでも正常だよ。それより、あのゴロツキから奪ったメモの解析はどうだい?」
カエデが渋々、没収した闇ギルドのメモを広げた。
「……恐ろしいことが分かったわ。王都の物流を独占する大商家『大黒屋』の奴ら、役人(王都の町奉行)を買収して、下町の個人商店から米や薬を不当な安値で買い叩いている。そして、それを倉庫に『隠蔽(死蔵)』して品不足を作り出し、価格を十倍に吊り上げて暴利を貪っているのよ。このままじゃ、下町の町人は夏を越せずに飢え死にするわ」
「物流の独占による価格操作……。まさに、上田秀人作品の悪徳御用商人がやる定番の経済戦だねぇ」
陣内先生が、刀の鍔を親指で押し上げながら、鋭い眼光を放った。
「許せぬな。領民を飢えさせて私腹を肥やす大商家など、この陣内の剣で一思いに――」
「おっと先生、焦っちゃいけねえ。敵の牙城へ潜入し、最高機密の帳簿を強奪する前にはね、まずこの暑さで参った身体に『喝』を入れなきゃならん」
俺はニヤリと笑うと、なけなしの金で仕入れておいた「冷たい桶」を引っ張り出した。
「江戸の夏、修羅場の前にはこれしかない。冷や奴でまずは涼を取り、泥鰌なべで度胸を据える。これぞ、大都会の闇に立ち向かう男の最高のルーティンよ!」
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俺が「下町河岸」の親分から格安で仕入れてきたのは、一見するとすこぶる禍々しい食材だった。
桶の中でウネウネと蠢いているのは、体長十センチほどの、全身が漆黒の粘液で覆われた小魚。通称『魔導・沼ドジョウ』。
見た目はグロテスクそのものだが、魔の沼の滋養を限界まで蓄えており、味は絶品だという。
「ツヨシ、私は昨日のおにぎりや深川めしは許したが……その、泥から出たばかりの虫のような魚を食うのは、元隠密としてのプライドが断固拒否するわ!」
カエデが本気で嫌そうな顔をして、長屋の隅へ退いた。
「ははは、カエデさん。池波正太郎先生はね、エッセイで常々こう書いておられた。『ドジョウという魚は、見た目で敬遠する者が多いが、これほど男のスタミナになる美味いものはない。泥臭さを抜いたドジョウを、甘辛い割り下でネギと一緒にコトコト煮込み、仕上げに卵でふんわりと閉じる。柳川風にすれば、夏の暑さなど一瞬で吹き飛ぶのだ』とね」
まずは、よく冷やした『魔導豆腐』を取り出す。包丁で四角く切り、器に盛る。
そこへ、お馴染みのココノエ醤油をサッとかけ、生姜風の薬草のすりおろしとネギをこれでもかと山盛りに載せた。
「まずは、前菜の『冷や奴』だ。これをつまんで、喉を冷やしな」
俺は箸で豆腐をすくい、口へ運んだ。つるり、と冷たい感触が喉を通り過ぎる。濃厚な大豆の甘みと薬草の辛みが、暑さで火照った頭を一瞬でシャキッとさせてくれた。
「……む、これは涼しいな」
陣内先生も冷や奴をパクリとやり、満足げに頷く。カエデも、豆腐ならと恐る恐る口にし、「……ん、生き返るわね」と、小さく耳を揺らした。
「さあ、ここからが本番、泥鰌なべの柳川風だ!」
俺は浅い鉄鍋を取り出し、ココノエ醤油、酒、そして異世界みりんを合わせた、少し濃い目の割り下を注いだ。
そこへ、酒に漬けて大人しくさせ、綺麗に泥を吐かせた魔導・沼ドジョウを綺麗に並べる。ネギ風の薬草をドサリと載せ、火にかける。
――チリチリ、コトコト……。
割り下が沸騰し、ドジョウの身に甘辛い汁がじわじわと染み込んでいく。瞬く間に、三畳一間の部屋の中に、醤油とみりんの香ばしく力強い、そしてどこか野性味あふれる匂いが立ち込めた。
仕上げに、魔導コケコッコの卵(溶き卵)を、鍋の周囲から、円を描くようにしてトロリと回し入れた。
蓋をして数秒。卵が半熟になったところで、火を止める。
「さあ、お立ち会い! 闇の大商家を迎え撃つ、至高の『魔導ドジョウの柳川なべ』の完成だ!」
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鍋の蓋を開けた瞬間、黄金色の半熟卵に包まれたドジョウと、濃い目の割り下の湯気が一気に舞い上がった。
「カエデさん、能書きはいいから、騙されたと思って一口食ってみな」
俺は箸で、卵が絡んだドジョウの身をごっそりと掴み、炊きたての白飯の上に乗せて豪快にかき込んだ。
――モグモグ、ジュワァァァッ……!
「っ……!!!!」
美味い、美味すぎる! 脳内で池波先生が「うむ、夏の柳川はこれに勝るものなし」と深く満足げに団扇を仰ぐ幻影がはっきりと見える。
魔導ドジョウの身は、驚くほど柔らかく、口の中で「ホロリ」と解けた。泥臭さは微塵もない。骨ごと煮込まれているため、噛むたびに濃厚な滋味とコクが溢れ出す。それが、みりんと醤油のキリッとした割り下の甘辛さ、そして卵のマイルドな温かさと完璧に調和して、爆裂米の白飯を猛烈に誘うのだ。
「……ううむ、何という力強い味だ!」
陣内先生が、汗をだらだらと流しながら、猛烈な勢いでドジョウなべを白飯にぶっかけてかき込み始めた。
「ドジョウの旨味が、この卵によって完璧に包み込まれておる。腹の底から、夏の暑さを撥ね退けるような凄絶な活力が湧いてくるぞ!」
カエデも、最初は嫌悪感を露わにしていたが、俺たちのあまりの美味そうな食べっぷりに胃袋を掴まれたらしく、意を決して箸を伸ばした。卵の絡んだドジョウを恐る恐る口に放り込む。
――モグモグ。
「――っ!?!?」
瞬間、カエデの美しいエルフの耳が、本日一番の鋭さでピンと直立した。
「な、なにこれ……! 骨まで柔らかくて、お肉の旨味がものすごく濃厚……! この甘辛いタレと卵の組み合わせ、悪魔的だわ……!」
そこからはもう、いつもの通りだ。元密偵のプライドを完全に犬に食わせた comical な様子で、お茶碗を抱えて「ハフハフ! ズズッ!」と、猛烈な勢いでドジョウなべを胃袋へ収めていく。
「ははは、スタミナ補給もバッチリだ。さて、汗もたっぷりかいたところで、大商会の涼しい倉庫へ潜入捜査を始めましょうかね」
俺は腰の魔導刀をパチリと叩き、不敵に笑った。
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夜更け。
王都の運河沿いに建つ、大商家『大黒屋』の巨大な秘密倉庫。
厳重な魔導の鍵がかかった扉を、カエデがツールを使って無音で解除し、俺たちは内部へと潜入した。
倉庫の中には、新参の商人や領民から買い叩いた、山のような米俵や貴重な薬箱が、これでもかと「隠蔽」されていた。
「やはりな……。これだけの物資を市場から隠していれば、価格が吊り上がるわけだ」
陣内先生が怒りに声を震わせる。
「あったわよ! 奴らの全ての裏取引と、奉行所への賄賂の記録が記された、最高機密の『裏帳簿』よ!」
カエデが棚の奥から、怪しく光る魔導の帳簿を見つけ出した。
上田秀人先生の作品なら、ここで帳簿を手に入れれば、敵の経済的な利権構造を根底から覆す決定的なカードが揃う瞬間だ。
だが、世の中そう甘くはない。
「――そこまでだ、ネズミども」
倉庫の暗闇から、パチパチと怪しい魔力の光が湧き上がった。
現れたのは、大黒屋がお抱えの「お暗殺マジシャン部隊」が十数人。手には不気味に発光する杖や魔導銃を構え、俺たちを完全に包囲していた。
「我が大黒屋の秘密を知ったからには、生きて王都の土を踏めると思うな。一斉に魔法を放て、灰にしろ!」
マジシャンたちが一斉に呪文を唱え始め、倉庫内の魔力密度が急上昇する。今野敏先生の作品なら、一触即発の緊迫した銃撃戦(魔法戦)が幕を開ける絶体絶命のサスペンス空間だ。
「おいおい、せっかくドジョウなべで良い汗をかいたんだ。その野暮な魔法の熱気で、俺にこれ以上汗をかかせないでくれよ」
俺は、マジシャンたちに向けて、眠るが如き無形の構えのまま、ふらりと前へ踏み込んだ。
(「居眠り磐音は、迫り来る魔導の嵐に対し、春の陽だまりにいるような脱力のまま、神速の居合いを一閃した――」)
「そらっ、湯豆腐の応用だ!」
俺は刀を抜くのではなく、懐に忍ばせておいた、昼間のドジョウなべの「熱々の残り汁」が入った水筒を掴むと、先頭のマジシャンたちの顔面に向けて、サッと豪快にぶっちまけた。
――ビシャァァァッ!!!!
「グアッ!? 熱っ!? 目が、ドジョウの出汁で目がぁぁぁ!」
旨味と生姜の効いた熱い汁を目に浴びた先頭の3人が、 comical に悶絶して呪文を中断される。
「よし、おねんねの時間だ!」
俺はステップ一歩で、動揺したマジシャンたちの懐へと滑り込んだ。
今野敏先生の作品に出てくる、一切の無駄を削ぎ落としたプロの刑事の格闘術。刀を抜けば倉庫の物資に当たって音が鳴る、あるいは貴重な米俵を傷つける。ならば、鞘のまま戦うのが合理的だ。
左手に持った魔導刀の「鞘」の先端を使い、マジシャンたちの頸椎のツボを、無音で正確にトントン、トンと的確に打っていく。
「あ、が……」「ウグッ!」「ママ、マイ……」
さらに、振り返りざまに魔導銃を構えた男の手首を、刀の「峰(背の部分)」でパシィン!と鋭く叩き落とした。
わずか数秒。
巨大な倉庫の中で、音を一切立てることなく、大黒屋自慢のお抱えマジシャン部隊十数人は、ツヨシの洗練された峰打ちと体術によって、一人も血を流すことなく全員が床の上に転がり、気絶するか悶絶するかしていた。完璧なる無音の制圧劇である。
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「……はぁ。お前は本当に、ドジョウを食った後も不条理なほど強いのね」
カエデが、裏帳簿を小脇に抱えたまま、呆れ果てた顔で俺を見ていた。
「いやいやカエデさん、これが江戸前の『ドジョウパワー』ってやつですよ。さあ、帳簿は手に入った。引き上げましょうや」
俺たちは気絶したマジシャンたちを米俵の陰に放り込み、平然と秘密倉庫を後にした。
翌朝、三畳一間の長屋に戻った俺たちは、強奪した裏帳簿を前に、カエデが暗号の解析を始めていた。この帳簿のデータを下町の役所(奉行所の上層部)に突きつければ、大黒屋の経済的な独占は完全に崩壊し、下町に米と薬が戻ってくるはずだ。
「ふう。冷や奴とドジョウなべのおかげで、大都会の経済戦も美味しく一刀両断できたな」
俺は新調した青畳の上でゴロリと横になりながら、満足げに息を吐いた。
「ツヨシ、この帳簿の暗号、かなり複雑に入り組んでいるわ。完全に解読するには、王都最大の歓楽街、あの『吉原エリア』にいる、私の古い情報網(隠密)の力が必要よ」
カエデが真剣な目で地図を指差した。
「歓楽街、吉原か! 素晴らしい、佐伯泰英先生の作品なら、ここでいよいよ華やかな夜の街を舞台にした、凄腕のくノ一や闇の総帥との緊迫した心理戦が始まる瞬間だねぇ」
俺は畳の上から跳ね起き、腰の魔導刀をポンと叩いた。
「よし、次は歓楽街の罠へ潜入だ。どんな悪党が待ち受けていようが、次なる極上のグルメとともに、この魔導刀で一刀両断にしてやりましょうかね!」
窓の外からは、夏の王都の激しい蝉時雨が聞こえてくる。
俺たちの目は、裏帳簿の強奪に成功した興奮と、次なる美食への期待とともに、かつてないほど鋭く、そして粋に輝いていたのだった。




