60話 迷惑かけてすみません
車が走り出してから、どれくらい経ったのか分からなかった。
車内には古い紙タバコの匂いが漂っている。
窓が少しだけ開いていて、流れ込んでくる熱気とエアコンの冷気が混ざり合い、妙に気持ち悪かった。
静かだった。
エンジン音と、時折鳴るウィンカーの規則的な音だけが耳に残る。
膝の上では、開けかけたスポーツドリンクがぬるくなっていた。
「……尾口先輩」
掠れた声が出る。
「迷惑かけて……すみません」
返事はなかった。
信号で車が止まる。
尾口先輩は煙草を咥えたまま、窓の外を見ていた。
怒っているんだろうか。
勝手に緊急連絡先へ名前を書いたことも。
仕事中に倒れたことも。
色んなことが頭をよぎる。
口を開きかけて、閉じて。
それでも結局、絞り出した。
「……怒ってますよね。勝手に緊急連絡先に名前、お借りして……」
間があった。
煙が細く流れていく。
「そうだな」
心臓が沈む。
誤魔化されるより、ずっと苦しかった。
伸一郎は視線を落とす。
その時だった。
「……オレは」
低い声が落ちる。
「お前が、自分のこと大事にしねえのが一番腹立つな」
息が止まった。
車内に、ウィンカーだけが鳴っていた。
カチ、カチ、と。
「……救急車断ったんだってな」
心臓が強く跳ねる。
伸一郎は膝の上で拳を握った。
「……これ以上、迷惑かけたくなかったんです」
嘘じゃない。
でも、それだけでもなかった。
怖かった。
今の自分がおかしいことを、知られるのが。
あの感触が、まだ身体の奥に残っていることを。
もし知られたら――オレは。




