56話 オレを、オマエの中に入れてくれるカィ?
伸一郎は、ただ歩いていた。
帰る場所は、もうなかった。
行くあてもない。ただ雪の隣を、足を動かすことだけを考えていた。いつの間にか日が落ちていた。
冷え始めた空気の中へ、二人の足音が吸い込まれていく。
自分まで、このまま世界から消えてしまいそうな気がした。
雪は何も言わない。
ただ少し後ろから、伸一郎についてきていた。
その小さな足音だけが、まだ自分がひとりじゃないことを教えていた。
――その時だった。
背筋を、ぞわりと何かが撫でた。
振り返る。
雪の向こうに、ニンゲンが立っていた。
知らない大人。知らない男だった。
だが、何かがおかしい。
首を不自然に傾け、口元だけがにたりと笑っている。
目は濁っていた。
どこを見ているのか分からない。
鼻をひくひくと動かし、舌先で唇をゆっくり舐める。
まるで品定めでもするみたいに。
「かわいいなぁ……かわいいなぁ……」
声が、地面を這うように近づいてくる。
「ねぇ、どこの子? キミたち、この辺の子じゃないよね?」
嫌だった。
何が嫌なのか分からない。
でも、身体が勝手に理解していた。
コイツはダメだ、と。
「……雪、行くぞ」
伸一郎は雪の手を掴み、歩き出そうとした。
だが――
「待ってよぉ」
男が、するりと前へ出る。
歩いたというより、滑ってきたように見えた。
「雪っていうの? 綺麗だねぇ……お人形さんみたいだ」
気づけば、すぐ目の前にいた。
吐息が触れそうなほど近い。
「お菓子食べない? ジュースもあるよ?」
にちゃり。
ポケットを探る指が、不快な音を立てた。
何を出そうとしているのかなんて、考えなくても分かった。
全身が総毛立つ。
逃げろ。
頭の中で何かが叫んでいた。
だが男は、ゆっくり口元を歪めた。
「ねぇ……いいじゃん。ちょっとだけ……ね?」
指先が雪の髪へ伸びる。
その瞬間だった。
伸一郎は無我夢中で、その手を叩き払った。
空気が弾けた。
「――ッ!」
視界が揺れた。
何かが伸一郎の頭に叩きつけられた。
遅れて、熱が走る。
ぶちり、と嫌な音がした。
「あァ?」
低い声が落ちる。
さっきまでの気味の悪い笑みは消えていた。
「オマエ……邪魔すんなよォ……」
唾が絡んだような声が喉の奥から漏れる。
「せっかく、雪ちゃんとお話してたのにぃ……」
握った雪の手が、小さく震えた。
伸一郎は歯を食いしばる。
ダメだ。
このままじゃ――
視界が滲む。
口の中に血の味が広がる。
寒さとは違う何かが、身体の奥をゆっくり這い上がってきた。
そして――
“――オレを、オマエの中に入れてくれるカィ?”
声がした。
耳じゃない。
喉の奥でもない。
もっと深い場所。
身体の内側から、確かに。




