55話 ある暑い日
伸一郎はふっと幼い頃の記憶に引き込まれた。
あのときの景色が、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏に蘇る。
壁に囲まれた世界。冷たいコンクリートの床。自分だけが、そこにいないはずの存在のように感じた。
施設の子供たちの輪の外に、いつも自分がいた。輪に入りたくても入れず、声をかけられることも少なかった。ただ、ぽつんと取り残される日々。
——どうして、こんなところにいるんだろう。
その疑問に答えてくれる人はいない。父も母も、ある日からいなくなってしまった。
ここが「家」だと言われても、心のどこかでずっと違うと感じていた。
『……もう嫌だ、帰りたい。お父さんとお母さんに会いたい』
狭い部屋の片隅で、伸一郎は呟いた。誰も聞いていないはずなのに、自分の声がやけに大きく響く。冷たい空気が、胸の奥を締めつけるようだった。
「帰る」と言っても、どこへ?
それでも——
『行くしかない』
そう決めて、小さな荷物を抱えた。そのとき、背後からひそやかな声が聞こえた。
『伸一郎くん、どこ行くの?』
振り返ると、そこには雪がいた。
彼女は年下の女の子だったが、どこか大人びて見えた。白い肌に、まっすぐな黒髪。顔立ちは人形のように整っていて、まるで感情を捨てたかのような冷たい目をしていた。
その無表情な瞳が、伸一郎の心をざわつかせる。
『……別に、お前には関係ない』
突き放すように言った。
誰かに止められたくなかったし、何より、彼女のその冷たい目が苦手だった。まるで自分のすべてを見透かされているような気がして。
でも、雪は表情を変えないまま、小さく首を傾げた。
『わたし、伸一郎くんといっしょにいく』
静かな声だった。
伸一郎は一瞬、言葉に詰まる。雪がそんなことを言うなんて、思いもしなかった。彼女はいつも、周りの誰にも興味を示さないのに。
『……勝手にしろよ。』
不機嫌そうに吐き捨てたが、雪は気にした様子もなく、すっと伸一郎の隣に並んだ。
二人は施設を抜け出し、街へと歩いた。
暑い日だった。
陽炎が揺らめくアスファルトの上を、二人の影が伸びる。
やがて——帰るはずの家の前に立ったとき、全てが終わった。
そこには、知らない人たちがいた。
見知らぬ男が玄関先で庭の手入れをし、窓の向こうには笑い合う家族が見えた。知らない女の人が、知らない子供を抱き上げている。
そこに「自分」はいなかった。
『……どうしよう』
声にならない声が喉の奥で震えた。
ここは、もう自分の家ではない。父も母も、もういない。
帰る場所なんて、もうなかったんだ。
胸の奥に、冷たい絶望が広がる。
呆然と立ち尽くす伸一郎の肩に、ふいに小さな手が触れた。
雪だった。
何も言わず、ただそっと寄り添うように、彼の肩に手を置く。
その温もりが、なぜかひどく痛かった。
『……雪、お前……』
その時だった。
背後から足音が近づいてくる。
二人の存在に気づいたかのように、ゆっくりと。




