54話 地球の暑さはこたえますね
雪がいなくなってから、“あの衝動”に襲われることはなくなった。記憶障害も落ち着き、日常生活に支障を感じることは減っている。
(いいこと……のはずだよな?)
胸の奥に残る、説明できない違和感。
それでも、考えるのはやめられなかった。
あの衝動は、なんだったのか?
雪と暮らしていた間に、オレは無意識にストレスを抱えていた?
(でも、楽しかった……はずじゃないか)
一緒に食事をして、くだらないことで笑って、たまに喧嘩して。あの生活がストレスだったなんて、そんなわけ——
「——あの……」
「……え?」
不意にかけられた声に、思考が引き戻される。
ぼんやりしていたせいで、反応が一瞬遅れた。
「すみません」
「あ、はい?」
目の前にいたのは、汗だくのスーツ姿の男だった。
ジャケットを小脇に抱え、額の汗をハンカチで拭いながら、息を整えている。
見るからに、外回りで疲れている様子だ。
「このあたりに、光が丘こども園という施設があると思うのですが……」
印刷された地図を片手に、男は申し訳なさそうに言う。シャツはすでに湿っていて、今にも溶けそうだった。
「あー……ありますよ。ただ、すみません」
伸一郎は周囲を指し示す。
「この通り工事中なので、少し迂回してもらう必要があります」
「そうですか……」
男が肩を落とすのを見て、伸一郎は「少し貸していただけますか」と、ことわってから地図を受け取った。
ボールペンで簡単な印をつけながら説明する。
「この道を回っていけば、正門に着けますよ」
「なるほど。助かりました、ありがとうございます」
「いえ……」
その時、不意に男がクスッと笑った。
「あれ、お仲間ですね?」
伸一郎は思わず立ち止まり、男を見つめた。
「え?」
「いやぁ、地球の暑さはこたえますね。特にこういう日中の外仕事ってやつは……」
男はまるでごく普通の世間話をするように軽く言ったが、その目は確かに伸一郎の顔をじっと見ていた。
ただの暑さのせいか、男の眼差しはどこか少し鋭く感じられる。
(地球の暑さ……?いや、地球が暑いのは事実だけど、何だかこの人馴れ馴れしくて変だな)
伸一郎は一瞬、背筋がゾッとした気がした。
それでも、すぐに取り繕い、笑顔で応じる。変な人そうなので早く会話を切り上げたかった。
「まぁ、こんな暑さだと、普通の人間でも大変ですね。お仕事頑張ってください」
「はは、ありがとう。まぁ、人間の仕事なんてのはそのうち慣れますよ。でも……君も、結構な体力を使ってるみたいだね?その目の奥に、何か……」
男はその後、何気なく言葉を切った。
「まあ、いいか。気をつけてな、伸一郎クン」
その言葉に、引っかかるものを感じた。
そして、その目に一瞬、何か得体のしれないものが映った気がしたが——それが何なのか、思い出せない。
(いや、ただの疲れか……)
伸一郎は道を尋ねられた男とのやり取りを終え、ふと目を閉じて深呼吸をした。
夏の蒸し暑さが背中を湿らせ、頭がぼんやりしてきた。しかし、その瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。男の言動、目つき、何気ない仕草が、どこか不自然だった。まるで、知らないうちに自分の中に潜む何かが反応したような気がした。
その違和感に胸が重くなり、伸一郎は一瞬でその記憶に引き戻される。あの日、雪と一緒に家を出た時のことを。




