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第475部分

 いや、捕獲対象のクワガタは甲虫の一種であり、人間が少し力を込めた程度では潰れない程度の頑強さは持っている上、少なくとも現時点では足を止めて食事に夢中になっている為にそこまで繊細な作業が必要ではないとはいえ、より確実な捕獲を考えれば利き手である右手を使うべきでは、という話ではあるのだが、当然ながらアイシスも近いからという理由だけで逆の手を使用した訳ではなくそこには明確な理由が、それも一つではなく複数存在していた。


 尤も、特に何も考えずに同じ事を、つまり今回の場合にはそのクワガタの捕獲をしようとしたとしても、結果としては同じ様に行っていた可能性は低くはなかったが、今回に関しては当人にしては珍しく……と言える程にしっかりとした理由に基づいて行動しており、その一つ目の理由はそれこそ今回の昆虫採集自体が「修行」の一環である事に関連するものだった。


 とはいえ、そもそも昆虫採集とそれがどう関係するかは未だ不明なものの、それを課した当人の言葉からすればそれはあくまでも「魔法の修行」の一環という事である為、厳密には関連していると言えるかは不確かではあったが、要するに冒険者として生きるならば「時には利き手が塞がっている等の理由で逆の手を用いる必要がある時に備えるべき」という様な事を考えたアイシスは、比較的に難易度は低いと考えられるものの、自身にとっては重要な行為を敢えて利き手とは逆の手で行う事でその訓練の一環にしようと考えたのである。


 しかし、それもまた当人が左手を使う事を選んだ理由の一つである事は確かではあったが、たとえそんな事を一切考えていなかったとしてもやはりそうしていたと断言出来る程度には、少なくとも自身にとっては重要な事である筈のクワガタの捕獲に、当人が敢えて利き手ではない手を用いる事を選んだ事にはより重要な理由があった。


 というのも、確かにそのクワガタを捕獲する事は当人にとって重要な事であり、現状での最も明確な目標でもあったのだが、それと同等に、或いはより重要な事はこの修行を無事に済ませる事であり、その為に最も大切な事は現状ではスズメバチの動きに対応する事であると考えたアイシスは、その際に、つまりもし万が一そのスズメバチが自身に向かって来た時に素早く、かつ確実に利き手である右手を使用してそれを制圧する為に、少なくとも身の安全には関係しないクワガタの捕獲の方は左手で行う事にしたのであった。


 とはいえ、先述の様に実際にその様な危機が訪れる可能性は低いと考えている事もあり、事前には確かにその様に考えており、その視線も相変わらずスズメバチの方を主に捉えてはいたものの、実際の行動の際にはその意識の殆どはクワガタの捕獲の方へと注がれてしまっていたが、その推測通りに食事に夢中になっているスズメバチがそこからやや離れた場所でのアイシスの動きに反応を見せる事も無く、やがて……という程でもない時間を経てその左手は目標を掴める位置にまで到達する。


 そして、その期待の大きさを表すかの様に力強く、だが甲虫とはいえその大きさに見合う硬度しか持ち合わせないそれを潰してしまわない様にと加減しながらそれを掴み取る事に成功すると、その手から伝わる確かな成功の感覚に思わず小躍りしそう、とまでは言わずとも喜びの声を上げそうになったアイシスであったが、それで折角大人しくしてくれていたスズメバチを反応させては仕方が無いという事と、当然ながらその手から逃れようと藻掻くクワガタを逃がしてしまわぬ様にと、その感情を表現する事を網を持つ右手を僅かに握り締めるだけに済ませて左手をゆっくりと自身の方へと引き寄せる。


 尤も、折角手にした成果を手放さぬ様にという思考だとか、単純な喜びから来る気の逸り等の様々な理由により、実際には伸ばした時と比較すればその手を引く速度は明らかに上がっていたのだが、運良く……なのか当然の結果なのか、その際にも特に事故が起こる事も無く、結果としてアイシスは目標であった件の小型のクワガタを見事その手中に収める事に成功したのであった。


「……やった、やったわ!――って、この子を落ち着かせる為にも早く虫籠に入れないと」


 という訳で、無事に目的を達成したアイシスはそれを実感するまでに多少の時を置きつつも今度こそその喜びを声に出して表現したい所を、やはりそれにより件の餌場に残されたスズメバチに限らず、森林内の危険な生物を刺激しては仕方が無いという事で抑えめにそうするが、それでも十分に目立つ程度の声量は出て来た事は措いて置くとしても、自身の手の中の感触からそんな事をする前にすべき事がある事に気付くとそう言いながら素早く虫籠の蓋を開ける。


 そして、その中にクワガタを収めると、シラユキの話からすればその心配は無いものの折角捕まえた昆虫達に逃げ出されない様にとこれまた素早く蓋を閉じ、名実共に目下の目的であったクワガタの捕獲は完了と相成った訳だが、ずっと主にスズメバチ対して気を張っていた為か、今度はアイシスはその事への喜びを表現するのではなく、ただ深く安堵の溜め息を吐くのであった。

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