第474部分
「……そーっと行けば大丈夫かしら?」
という訳で、いや厳密には信用が置けないのはあくまでもシラユキ製の網自体ではなくそれを扱う自身の技量の方なのだが、対象が十分に手の届く距離に居るという事もあり何れにせよ網を使うという選択肢は端から存在しなかったアイシスは、そう小声で呟きながら件のクワガタへとゆっくりと手を伸ばす。
「ひっ」
が、同時に視界に入っている……というよりも寧ろ主にそちらへと視線を向けている、クワガタの方と比較すると食事中にも割合に忙しない動きを見せるスズメバチが少し大きく動く度、そう小さく悲鳴を上げる……という若干矛盾した事をしながら素早く手を引くという事を数度も繰り返し、いつまで経っても目標を捕獲する事は叶わなかった。
尤も、実際にはそう長い時間それを繰り返していたという訳ではないのだが、こうして実際にクワガタの姿を目にした以上、もっと大きなものも含めた他の同種も見付けられる可能性がある……という事を少なくとも意識的には考えた訳ではないものの、このままでは埒が明かないと判断したアイシスは一度手を引くと、先ずは状況をしっかりと観察した上で何か他に取れる手段は無いのかを考える事にする。
そして、そうと決めたアイシスは目的であり興味の対象でもあるクワガタの方ではなく、先ずは冷静に目下の障害となるスズメバチの方へと目を向けるが、その本能に訴えかける警戒色と事前に抱いていた危険性に対する恐怖心から最初こそ相手を単なる脅威として見ていなかったものの、暫しその様子を観察している内に次第にその印象は変化していった。
というのも、食事の最中にも落ち着きなく動き回り、別の小さな、当人の知識では何だかも良く分からない昆虫が餌場に近付こうとすれば即座に追い払う、という行為自体はこうして列挙してみるととてもそうは思えないものではあるのだが、先入観無しに見ればその動きそのものは妙にコミカルでもあり、一見横暴な行為もそれを指で摘める程度の大きさの生物がしていると思うと、最終的にアイシスには眼前の危険生物が何となく可愛らしく思えて来たのであった。
「……これは、多分大丈夫そうね」
とはいえ、それでもスズメバチが危険生物である事には変わりはない為、それへの恐怖自体が完全に消え去ったという訳ではなく、かつ自身が痛い目を見るだけならば兎も角、この修行を企画したシラユキにも責任を負わせてしまう事を考えれば流石にそれを捕獲対象にする様な事はしなかったが、暫しの観察の末にその生物が、少なくとも現時点のこの個体に於いては予想以上に食い意地が張っているというか、現状では食事に夢中になっている様だと判断したアイシスは、先程の様にそっとクワガタに手を伸ばすだけならば問題は無いだろうと結論付ける。
尤も、相手が自然である以上は絶対にそうだという確信を持てているという訳ではない為、引き続きその様子を観察する事は欠かさない事は当然としても、万が一そのスズメバチが自身に向かって来た場合についても考えなければならなかったが、珍しく抜かりの無いアイシスは今回はその対策も既に考えていた。
と言っても、例えば防護服を着用する等、その際に安全を担保する具体的な対策があるという訳ではなく、その場合には素早く身を引くと共に網を構え、後は頑張って捕獲するという対策と呼ぶには少々心許ないというか、当人が未だにそれを成功した事すら無い事を考えれば実質的には対策など無いと言っても過言ではなかったのだが、それでも事前にその可能性を考えて心構えをして置くかどうかの違いは非常に大きい為、当人の性質と現在の状況を考えれば及第点の行動であると言えた。
「……さて」
とはいえ、それが十全な対策にはなっていない事を誰よりも良く知るのは当人であり、かつ先述の様に未だスズメバチへの恐怖が消え去った訳ではない為、必然的にその「クワガタに手を伸ばす」という行為にはそれなりの覚悟が必要ではあったが、これまでには既に魔物との、特に件のスズメバチの何倍というレベルではない巨大な蜂の様なそれとの戦闘をも経験して来た事を自信とする事にしたアイシスはそう呟くと共に覚悟を決めると、目下の目的であるクワガタの捕獲、及びそれに際して起こり得る危機への対応に最も適しているであろうと考えた位置へと移動する。
尤も、それらの魔物と眼前のスズメバチとの脅威としての最も大きな違いはまさにその大きさであり、もし実際に襲い掛かられた場合には過去の経験は然程役には立たないであろう事は当人も既に理解していた為、その段になっても未だ恐怖心が完全に消え去ったという訳ではなかったのだが、恐らくは安全と判断した洞察力を含む自身の能力を信じたアイシスは、ゆっくりと目標に向けて自身の左手を伸ばすのであった。




