第473部分
則ち、その独特な匂いに導かれたアイシスが目にしたのは、その匂いの発生源である何らかの広葉樹から漏れ出る樹液に集まった昆虫達の姿であり、その中には自身が初めて目にする、いや厳密には動画等では見た事もあったのだが直接的にはそうであるクワガタらしきものも含まれていた為に、その予想外の光景を前にしたアイシスの思考は一時的にその働きを概ね停止する事になっていたのである。
尤も、クワガタらしきも何も一目でそう確信出来る程度には、そのクワガタは立派な大あごという名の由来ともなった種の特徴を持ってはいたものの、そこまで驚いたり興奮したりする程の大きさではなかったのだが、生まれて初めてそれを目にするアイシスにとっては、未だその大きさというものはそこまで重要なものではなかった。
「……こんな季節にも居るものなのねえ」
ともあれ、その事象は当人としては常識を覆すものと言っても過言ではなかった訳だが、その常識に縛られて自身の知識と眼前の現実の何れを優先すべきかを誤る事は無く、その光景を暫し眺めた後に認識を改めたアイシスは、自身の期待が望外に叶った喜びを可能な限り抑え冷静を装いながらそうしみじみと呟く。
いや、別に誰が見ている訳でもない……訳ではない可能性はそれなりに高くはあるものの、少なくともそれを気にしても仕方が無い場面ではある事は確かなのだから、別に自身の喜びを無理に抑える必要など無いのではないか、という話ではあるのだが、まあ実際に表情からは滲み出てしまっている事は兎も角、実際にそうして騒いだ事で昆虫達が逃げ出してしまっては困るという事に、既の所で何とか気付いたアイシスはギリギリの所でそれを自重する事が出来たのであった。
尤も、大声で叫びながら暴れ回るならば兎も角、ちょっと声を出した位で食事に夢中になっている、少なくともタチバナの様に音を抑えてこの場に辿り着いた訳ではないアイシスが目の前に居てもそうである昆虫達が、それを放り出してまで逃げ出すかと言えば怪しい所ではあったのだが、先述の通り別に生態に詳しい訳でもない以上、この場面で慎重を期す事が出来た事は称賛に値する……かどうかは兎も角別に悪い事ではなかった。
「さて、どうやって……げっ」
とはいえ、初めて生で目にするクワガタを前に、かつて昆虫採集という行為自体にさえ憧れを抱いていた様な人間がいつまでも興奮を抑えられるかと言えば、という話ではある為、やがて……という程の時間も経たぬ内にワクワクする様な感覚を抑え切れなくなったアイシスは、鼻息を荒くしながらそのクワガタをどの様にして捕獲しようかと考え始めるが、その為にクワガタに釘付けになっていた視線を少し引いた事により漸く眼前の光景を正しく認識すると、その瞬間に思わずそう淑女らしからぬ声を出してしまう。
というのも、先述の通りにクワガタの姿が目に入った瞬間からそこに視線が釘付けになっていた為にこれまでは気が付かなかったものの、そのクワガタの近く……と言っても当人、もとい当虫達の感覚ではそれなりの距離は空いているのだろうが、まあアイシスの感覚ではそう言って差し支えの無い距離の場所では、その半端な知識でも良く知る橙と黒のあいつ、則ち細かい種類までは不明だが件のクワガタと同等の大きさを誇るスズメバチも積極的に食事を取っている最中だったのである。
「……さて、どうしたものかしら」
そして、その半端な知識でもスズメバチという昆虫が危険な存在である事も良く知っていた為、下手に手を出す事は難しいと判断した……というより正直ビビっていたアイシスは今にもクワガタに手を伸ばそうとしていた自身の衝動を抑え込む、までもなくそのスズメバチの警戒色により半ば自動的に一度冷静になると、その木でそれぞれに食事を続ける両者の姿を見比べながら現在の自らの思考をそのまま口にする。
いや、その危険性を良く知るというのであれば、当然ながら悪戯に刺激する様な事は控えるべきではないかという話ではあるのだが、初めて目にしたクワガタの方はどうしても捕まえたいという個人的な事情を措いても、その両者の距離がもう少し近く、クワガタに手を出す事でスズメバチを刺激する事が明確に避けられないのであればその通りではあるものの、両者の絶妙な距離がアイシスにその決断をさせなかったのである。
なお、スズメバチは確かに危険な生物ではあるものの、群れならば兎も角単体が相手であるならば、当人の知識にある訳ではないものの少なくともこの季節、つまり未だ巣が発展する前の段階であれば、網を持っているアイシスの方が圧倒的に有利であると言っても過言ではなかったのだが、当人はその様な知識は持っていない上に、たとえそれらの事情を全て知っていたとしても、未だそれを用いての昆虫の捕獲に成功した覚えが無い以上は、とてもそれに命を託す気にはなれなかっただろう。




