9 とある近衛兵の間奏曲④
次の行き先は彼女の希望でブリューゲル公園になった。ここではディオミーメ・イェスフォーレが──今年一番雨の似合う男と女は誰かを決める競り合いが行われる。
彼女は僕に気を遣って行きたいところはないか尋ねてきてくれたのだけど、別に僕はどこでも良かった。隣を歩く、この人と一緒ならば。
普段は歩かないような大通りも、息が詰まりそうな人波の中も、彼女と一緒なら我慢できる。
王都中央の大通りはいつもの倍以上の通行人でごった返しており、老若男女問わず飛び交う無数の声が交わってとても五月蠅い。さながら音の洪水だ。溢れる人の隙間を見つけて前を進んでいるが、それもなかなか難しく──。
「あっ」
前方から恰幅の良い中年男性が大きく体を揺らしながら歩いてきて、すれ違う瞬間に彼女の小さな声が聞こえた。どんなに周囲が騒がしくても、彼女の声だけはきちんと耳に残るのだから不思議だ。
振り向くと、隣にいたはずの彼女が後ろの方で立ち竦んでいる。
「へ、兵士様ー!」
目が合うなりそう叫び、人混みの中でブンブンと片手を振る彼女の眉尻はすっかり下がっていて。困っていることがすぐに見て取れた。親とはぐれた子供のような顔が面白くて可愛い。
道行く人の体を次々に躱しながら彼女の元へ行くと、彼女が小走りで近づいて来た。……なんだか、さっきより距離が近い気がするんだけど。
「すみません、ありがとうございます。大通りの混み具合はひと味違いますね」
体の半分がくっついた状態で礼を言われ(それも上目遣い)、顔に熱が集まってきた。心臓がどきどきする。
何を考えているんだろうと様子を窺うも、彼女は至って普通であった。いや、心なしか表情が少し険しい感じがする。なんなのだろう。僕が嫌なのかなと思ったけど、嫌なら離れればいいだけの話だし──。
考え始めて間もなく、おそらく外の国の観光客であろう賑やかな団体が横切ってきた。少々面倒だが通れないことはないので、割れ目を見つけて歩き抜けよう。……そこと、そこと、あそこがいけそうだ。
おおよその目安を付けて素早く動き出せば、何やら背中が押され圧力が掛かる。驚いて首を捻ると、なんと彼女がピタリと僕の背中にひっついているではないか。
ただ単に余所見をしていて僕にぶつかったのかと思ったが、一向に離れる気配のない彼女はどうやら故意的に身を寄せているようで。やけに強張った顔の中心に、不安げに揺れる黒い瞳があった。
大きく胸が高鳴ると同時に、彼女の行動の意味を察する。
(ああ、はぐれないよう必死なんだ)
皺が寄るほどに鞄の紐を握り締め、肩を縮こまらせている彼女がいつもより小さく見える。真面目で明るいしっかり者なのに、今の彼女は子供のようにか弱そう。
(守ってあげなきゃ)
はぐれさせたりなんてしない。一人になんてさせない。
もう誰も君にぶつからさせやしない。
僕が守ってあげる。いや、守らないといけない。
義務めいた強い感情がじわじわ滲む。──これが庇護欲というものか。
背中の感触が名残惜しかったが、半歩足を踏み出し彼女の少し前を歩く。できるだけ通りやすい所を選びながら、ちゃんと彼女がついて来ているか確認をして先導を行った。人が詰まりに詰まってどうしても難しい時は体を張って隙間を作り、彼女を通してやる。
そんなことを繰り返しているうちに、彼女の強張りが徐々に解れていった。あんなに心細そうだったのに、現在は穏やかな顔で僕の後に続いている。振り返って視線が絡む度、柔らかな微笑みすら見せるのだ。
彼女の不安を取り払うことができて嬉しい。眦の緩んだ夜色の双眸が、真っ直ぐに僕に向けられている。これが自惚れでなければ、今僕は彼女に信頼されているのだろう。
そのままずっと、ずーっと……僕を見て、僕を頼りにすればいい。そう思ってしまった。
視線も、意識も、気持ちも、彼女の全てが僕だけに向けられたのなら──。
(……っ)
想像して、軽く身震いがした。
ゾクゾクと背筋を走り抜けたのは、底知れぬ歓喜。漠然とした興奮。
脳髄が痺れる感覚は勢いを増した雨に打たれても醒めやらぬ。半ば陶酔してうっとりと、僕を想う彼女を思い浮かべた。
*
「兵士様、すみませんでした。私、終わる時間を確認してなくって……あんなに大変な思いをしてここまで来たのに、無駄足になっちゃいましたね。本当に申し訳ないです」
彼女を庇いながら移動し、やっと会場に着いたものの、既にディオミーメ・イェスフォーレは終了していた。
肩身が狭いのか俯いたままの彼女に「別に」と気にしていない旨を伝えるが、何度も何度も謝罪は続く。僕なんかにそう謝らなくてもいいのに。
「すみませんでした」
ひとしきり謝り、ようやく頭を上げたその顔には疲弊の色がうっすら見え隠れしていた。大雨の中を長時間歩いて疲れたのだろう。無理もない。
「あの、……兵士様、次にどこか行きたい所はありますか?」
ない。ないので首を横に振る。
「そうですか。では、そろそろ帰りませんか? 夕飯の支度もありますし、陽も暮れてきましたし」
彼女はそう言ってニコリと笑うが、どこか口元に力がない。口には出していないけど、やっぱり疲れてるんだ。大丈夫かな。
僕がひとつ頷くと、彼女は力ない笑みを浮かべたまま「じゃあ帰りましょう」と踵を返す。どこかで休憩した方がいいのではないかと心配になったところで、「あ」と彼女が振り返った。
「兵士様。帰りは向こうの通りからでもいいですか? ちょっと露店を見たいんです」
え、と心の中で微かに驚く。今日の雨祭り、彼女はこれまでたくさん露店を見てるだろうに……まだ足りないの? 女性は買い物好き、店の品物を眺めるのが好きだとアストラッドに聞いた事があるが、彼女もその括りに入るのか。
「ん」
まあ、彼女がそうしたいなら僕はそれでいい。疲れを押し殺して無理をしていないかが気がかりだけど。
「ありがとうございます。幾つか買いたいものがあるんです」
吊りがちの目をくりりと輝かせた彼女は、弾んだ声で顔を綻ばせた。先程まで漂わせていた疲れはどこにいったのやら。
「あそこの通りが一番露天商が多いそうですよ」
「……ん」
帰り道に選んだ街路は大通りのように混み合っていないので、僕と彼女は並んで歩いた。もうくっつかなくてもはぐれやしない。それは良い事なんだけど。
──だけど、遠のいた距離が寂しくて、僕と彼女の間にある拳一個大の空間が気になって仕方がない。
この距離が縮まればいいのに。またピッタリとくっついてくれたらいいのに。
(……欲張り)
僕は彼女の隣を歩けるだけで、一緒に過ごせるだけで良かったんじゃなかったのか。
何度か話しかけてくれ、時折笑ってくれたらそれだけで満足だったんじゃないか。
──そう。初めはそれで十分だった。
でも、今は違う。
もっと近くに居たい。ずっと僕を見ていて欲しい。もっと、ずっと、僕だけを。
どんどん深くなる欲望。その底は、行き着く果ては、一体どこ? ……自分が自分でなくなるみたいで、怖い。
「これとこれを一袋ずつください」
「はいよ! まいどあり」
包装された異国の菓子を嬉しそうに受け取り、小さな財布から金銭を取り出す彼女。その白く細い指が売り子の手と触れ合う光景を見て、モヤっとする。なんだかちょっと嫌な気分。
「兵士様は何か買うものありませんか?」
財布をしまいながら尋ねてくる彼女へ首を横に振れば、微笑みが返ってきた。
「そうですか……欲しい物とか見たい物があったら遠慮せずに言ってくださいね。一緒にお店を探しますので」
破顔している彼女はとても機嫌が良さそうだった。買い物の効果なのか活き活きとしている。
彼女に合わせてあちこちの露店に立ち寄り、調味料や食べ物を買う彼女を待つ。時間的にはとっくにこの通りを抜け西地区へ入っている頃なのだが──アストラッドの言ったとおり、女の人の買い物は長い。商品を見るだけでも長い。穴が空くほど眺め尽くしても、結局買わない事の方が多いのだ。何度「え、買わないんだ」と思ったことか。
「うーん……」
片手に財布を握り締め、空いた方の手を顎に当て呻きにも似た声を漏らしている彼女。ラーチという名の白い穀物を購入するか迷っているようだ。
「んー……」
真剣な眼差しを向け、唸ること数十分。
何をそこまで熟考しているのだろう。お金が厳しいのか、なくてもあってもいい物なのか、他のものを買いすぎてもう持てないのか……。
「ううー」
そうだ。いっそ僕が買ってあげるというのはどう? そんなに悩むほど欲しいのなら、僕が与えてあげる。お金がないなら僕が払えばいいし、重くて持てないなら僕が持てばいい。彼女、喜んでくれるかな。
代わりに購入する旨をいつ申し出ようか見計らっていると、隣の彼女がこちらを見上げた。
「すみません、やっぱりいいです」
財布を鞄に仕舞い、困ったような笑みを見せる彼女。諦めたのか、それとも不要と判断したのか。僕にとっては、好機である。
ねじ込むように入れていた財布をポケットから取り出し、「これ、一袋」と露天商に短く告げる。
「はいお兄さんアリガトねー!」
他国の訛りがある声はひょうきんな語感をしていた。レミス大陸にはない国からやって来たのだろう。
糸目の露天商からラーチという穀物が入った布袋を手渡され、ずっしりとした重みが腕にかかった。彼女は僕と露天商のやり取りを唖然とした表情で見ている。半開きになっている唇が可愛い。
彼女が何か言おうと更に口を開くも、その前に露天商が「いやー」とにんまり笑った。
「彼氏サン優しいネー! あなたイイ人捕まえたヨー!」
(かれし……彼氏?)
自分にとって馴染みない言葉の意味を捉えるのに時間がかかった。
「彼氏」というのは、確か色恋の類で使われる言葉ではなかっただろうか。世間一般的に、女性の恋人である男、という意味で──。
(僕が彼女の彼氏? 恋人?)
この露天商にはそう見えているというのか。今まで「乙女に付き纏う陰気で気味の悪い男」「暗い変質者」などと間違われたことはあるが、誰かの恋人だと勘違いされるなんて。こんな僕が。……いや、ただの冷やかしかもしれない。
「私に気を遣ってくれたんですか?」
心の中で動揺している僕へ、彼女が問うてくる。
「……欲しそうだったから」
頷いて答えると、吊りがちの黒い瞳がまんまるになった。
「すみません! 兵士様に買って頂くなんて……そんなつもりはなかったんです! 後でお金払いますから!」
金色の頭がぺこぺこと上がったり下がったり。……喜んでもらいたいだけだったのに、なんだか余計な気を遣わせてしまった気がする。謝るんじゃなくて、「ありがとう」って笑って欲しかったな。
それより、彼女……露天商の誤解をとかないのだろうか。
「いい」
ラーチの料金を返すという彼女へ首を横に振れば、またまた露天商が口を挟んでくる。
「そうヨー! 女は男に甘えるがヨロシよー。可愛く笑ってお礼言うべきネ!」
抑揚の激しい口調でまくし立てられ、彼女は明らかに戸惑っていた。こういう押しの強さには弱いようだ。
「あ、ありがとうございます」
「まー! ダメよーもっと可愛く!」
──ピキンッ。
(……っ、ん? 彼女の空気が)
「ふふ、元の顔が顔ですから」
申し訳無さそうに礼を言った彼女だったが、露天商にちょっかいを出された瞬間氷のような空気を纏った。それは瞬時にして消えたのだが、……刹那に感じたのはキンと研ぎ澄まされた紛れも無い怒り。口元こそ笑っているが、黒い瞳の眼光は鋭かった。
露天商は気付いていないようだけど、たぶん、彼女は「もっと可愛く」と口出しされて嫌だったのだろう。だから気を害して怒ってるんだ。
これが、僕の初めて見た彼女の「怒り」。
(……怒ったりもするんだ)
彼女と出会い、ともに暮らして二週間。笑ったり、困ったり、驚いたりしている所は何度も目にしている。でも、怒った所は見たことがなかったし、彼女の怒りを感じたこともなかった。彼女はいつも温和で物柔らかだったから──怒った姿など想像したことすらない。
「じゃあ、帰りましょうか兵士様。荷物になるのにすみません」
ころりと表情を変え、謝ってくる彼女の瞳はもう尖ってはいなかった。
僕は本能的に彼女の怒りは買いたくないなと思った。なんだか、普段穏やかなだけに怒らせると怖そうだ。ユリアンのように、一度激昂すると手に負えなくなる類なのかもしれない。
でも、新たな一面を知って僕の中の彼女がより形づいた。人間味を感じたというか……。彼女は微笑むばかりの女神なんて偶像ではなく、ちょっとした事で怒ったりもするちゃんとした「人間」なのだ。僕と同じ、ひとりの人間。
神には手が届かぬとも、同じ人であれば、そう、手がとどく。
──手に入れられる。捕まえられる。
「あの、重くないですか? やっぱり私持ちます」
不意に隣から声がして、欲の渦に沈んでいた意識が引き上げられた。……僕は今、何を考えていた?
「……」
止まっていた時間が突然流れだしたかのように、雨音が一気に押し寄せてくる。
「兵士様?」
うまく頭の働いていない僕を見上げる彼女の澄んだ眼差しに動かされ、ようやく脳が明瞭さを取り戻した。
「大丈夫ですか」
「……ん」
頷いてラーチの袋を持ち直す。割りと重量はあるが、このくらいなら無理なく運べる。伊達に近衛兵をしているわけではない。まあ、落ちこぼれではあるが。……やっぱり彼女の目にも僕はひ弱そうに映っているのだろうか。持病を聞いてきたくらいだからそうなんだろうなあ。
「腕が疲れたら言ってくださいね。代わりますので」
「……いい」
すまなさそうに眉をひしゃげさせる彼女の手には、既にいくつかの買い物袋がぶら下がっている。これ以上物を持つのはきっと大変だ。それに、アストラッドが「女の買った荷物を持つのは男の仕事」と言っていたので、荷物持ちは僕の役目でもあるのだろう。
(あっ)
ここで重大な事に気付いた。ラーチの袋のみならず、他の買い物袋も持つべきだったのかもしれない。今更全部持つとは言いにくいし……失敗した。
「でも、重いですし。あの、お金も家に着いたら払いますから」
「いい」
なんで自分は気が利かないんだろう。自己嫌悪に陥りながら首を横に振る。
「えっ、でも」
「いい。……いつもの、お礼」
遠慮深い彼女の気遣いを収めるように言ってみるけど、彼女の眉はしょげたまま。
「そんな、お礼なんて」
「……気にしないで」
「それでも気にしちゃうんですよ」
今なお引き下がらずにいる彼女は、唇をくっと結んで肩を落とした。雨の重みで真っ直ぐになった金色の髪がぺたりと頬や顎に張り付いている。──その下には白い首筋があり、水滴がきめの細かい肌を伝い落ちる光景がやけにくっきり目に焼き付いた。
「……ん」
何やら見てはいけない物を見てしまったような、恥ずかしい物を見てしまったような……。
一瞬跳んだ心臓と、顔に集まった熱を誤魔化すように彼女から視線を離す。心がそわそわ落ち着かない。
それから家に帰るまでの間、彼女がいろんな話題を振ってくれたおかげで気が逸れたけど、やっぱり時々細くて白い首やシャツに透けた鎖骨に目が奪われてしまうのだった。




