第37話 肩の痛み
サイレンの音が近づいてくる。廃ビルの地下に響くその音は、妙に現実味がなかった。ついさっきまでD級ダンジョンの二階層で、黒いマントの男と斬り合っていた。肩にはまだ痛みが残っている。腕も痺れている。背中には、生き残った兄妹がいる。そして、アイテムボックスの中には、二人分の遺体がある。
蒼真は壁にもたれたまま、ゆっくり息を吐いた。重い。実際の重さはない。アイテムボックスに入れてしまえば、荷物の重さは感じない。それなのに、頭の奥にずっと重さが残っている。魔石や素材を入れている時とは違う。武器や防具を収納している時とも違う。そこに人がいる。もう動かない人がいる。それだけで、喉の奥が詰まるようだった。
階段の上から足音がした。複数人。すぐに黒い制服の職員たちが姿を見せた。ダンジョン警備課。その後ろには救急隊員。そして、三崎澪もいた。彼女は蒼真を見つけると、すぐに表情を引き締めた。
「天城さん」
「三崎さん」
「動けますか」
「動けます。肩をやられましたけど」
三崎は蒼真の肩を見る。裂けた皮鎧の隙間から、血が滲んでいた。普通の切り傷なら、Cランク盾の微回復や蒼真自身の回復力で、もう少し落ち着いていてもよかった。だが、傷口は妙に荒れている。一度斬られた後に、同じ場所をもう一度切り開かれたような傷。三崎の眉がわずかに寄った。
「医療班、先に天城さんの処置も」
「俺より、あの二人を」
蒼真は兄妹の方を見る。青年はもう立っているのがやっとだった。妹は座り込んで震えている。救急隊員がすぐに二人へ駆け寄る。毛布がかけられ、怪我の確認が始まった。青年は何度も妹の名を呼んでいた。妹も、その手を強く握っている。二人とも生きている。それだけは間違いなかった。蒼真は少しだけ安堵する。だが、安堵した分だけ、アイテムボックスの中の二人が重くなった。三崎が静かに近づいてくる。
「死亡者二名と聞いています」
「はい」
「遺体は」
「俺のアイテムボックスの中です」
三崎は一瞬だけ目を伏せた。驚きではない。たぶん、通話の時点で理解していたのだろう。けれど、実際にその言葉を聞くと、やはり重い。
「引き渡しをお願いします。こちらで遺体袋を用意します」
「分かりました」
警備課の職員が周囲を整える。簡易の目隠しが立てられた。救急隊員が遺体袋を二つ広げる。蒼真は遺体袋の前で膝をついた。手が、少し止まる。遺体を取り出すだけだ。難しい作業ではない。けれど、魔石や武器を出す時とは違う。蒼真は遺体袋にそっと触れ、小さく息を吸った。
「……すみません」
誰に言ったのか、自分でも分からない。アイテムボックスから、一人目の遺体を取り出す。遺体は、遺体袋の中へ静かに横たわった。救急隊員がすぐに布を整える。続けて、もう一つの遺体袋に手を添える。
「……すみません」
もう一人を取り出す。二つの遺体袋がゆっくりと閉じられた。簡易目隠しの隙間から、妹が見てしまったらしく、小さく泣き声を上げた。青年が彼女を抱き寄せる。蒼真はそちらを見られなかった。三崎が低い声で言った。
「ありがとうございます。つらい役目をさせました」
「入れたのは俺ですから」
「それでもです」
蒼真は返事をしなかった。医療班に促され、肩の処置を受ける。皮鎧を外すと、傷の状態がはっきり見えた。隊員が眉をひそめる。
「一撃でこうなったんですか」
「たぶん、一撃じゃないです」
「複数回、斬られたんですか」
「見た目は一回でした。でも、斬られた後に同じ場所がもう一度裂けました」
隊員の手が止まる。三崎もこちらを見る。蒼真は少し迷った。どこまで言うか。真鑑定で見えた名称までは言わない方がいい。ただ、危険性は伝えるべきだ。
「あの刀、普通じゃないです。斬った箇所に、遅れて追加の斬撃みたいなのが来る」
三崎の表情が固くなる。
「装備効果、もしくは付与スキルですか」
「そこまでは分かりません。でも、少なくとも普通の武器じゃない」
本当は分かっている。狂牡丹。命中部位に追加斬撃。そして、おそらく回復する能力もある。けれど、今ここで全部を話すには情報が重すぎた。三崎は蒼真の沈黙を見て、無理に聞かなかった。
「分かりました。黒いマント、刀、顔は不明。斬撃後に同一部位へ追加損傷。そう記録します」
「お願いします」
「相手の強さは」
蒼真は少しだけ考えた。どう表現すればいいのか分からない。強い。ただそれだけでは足りない。
「俺が今まで戦った中で、一番強かったです」
「対人戦の経験は」
「少ないです。でも、魔物とは違いました。こっちの迷いを見てくる。守ろうとした相手を狙ってくる」
言いながら、蒼真はあの広間を思い出した。妹へ向けられた視線。そこへ割り込む自分。盾を構えた瞬間に、別の角度から来る刀。斬られた後に走った追加斬撃。全部が嫌な感覚として残っている。三崎は静かに頷いた。
「入口は封鎖します。しばらく警備課が立ちます」
「脱出石を持っていたら、もういないかもしれませんけど」
「その可能性はあります」
三崎は即答した。脱出石。ダンジョン内から強制的に脱出できるアイテム。ただし、どこに飛ぶか分からない。非常用に持つ探索者もいるが、高価で希少なため、誰でも持っているものではない。手に入れても、高値で売る者は多い。だが、犯罪者が持っていれば厄介だった。入口を見張っていても、通常の出口から出てくるとは限らない。三崎は続ける。
「それでも、見張らない理由にはなりません。脱出石を持っていない可能性もあります。使わずに潜伏している可能性も、通常出口から出る可能性もあります」
「ですよね」
「ええ。今は可能性を潰すしかありません」
警備課の職員たちはすでに動き始めていた。廃ビルの入口周辺に規制線が張られる。地下へ続く階段には二人の警備員。さらに応援を呼ぶ声。救急隊員は兄妹を搬送する準備を進めている。妹はまだ泣いていた。青年は担架に乗せられる直前、蒼真の方を見た。
「天城さん」
蒼真は少し驚いた。名乗った覚えはない。たぶん、さっきの連絡か職員の声で聞いたのだろう。
「本当に、ありがとうございました」
「……無事でよかった」
それしか言えなかった。青年は唇を噛む。
「二人は、俺の仲間でした。俺が、もっとちゃんと」
「やめとけ」
蒼真は思わず遮った。青年が目を見開く。
蒼真は自分でも少し強い言い方だったと思ったが、言葉を続けた。
「今それを考えると、潰れる。まず治せ。妹をちゃんと家まで連れて帰れ。それから考えろ」
青年は何かを言おうとして、結局、涙をこぼした。妹が担架の上から蒼真を見る。
「ありがとうございました……守ってくれて」
蒼真は首を横に振った。
「俺だけじゃない。お兄さんが守ってた」
妹は泣きながら頷いた。救急隊員が二人を運んでいく。その背中を見送ってから、蒼真はようやく力を抜いた。途端に、肩の痛みが強くなる。
「いっ……」
三崎がすぐに振り向く。
「無理をしないでください」
「今きました」
「みたいですね」
三崎の声は少しだけ呆れていた。医療班に応急処置を受けながら、蒼真は今回の経緯を話した。未踏破D級を発見したこと。一階層を突破したこと。二階層で声を聞いたこと。広間で兄妹と黒いマントの男を見たこと。二人がすでに死亡していたこと。救助に入り、男と戦闘になったこと。顔は見えなかったこと。刀の異常効果。男が途中で撤退したこと。話すたびに、三崎の表情は重くなっていった。
「天城さん」
「はい」
「確認ですが、相手を追わなかった判断は正しいです」
蒼真は少しだけ目を伏せた。
「逃がしました」
「違います。生存者二名を守りました」
蒼真は黙った。
三崎は、いつもより少し強い口調で続ける。
「相手を追っていたら、生存者が危険に晒された可能性があります。天城さん自身も負傷していました。結果として二人を外へ出せた。それは、正しい判断です」
「……そうですかね」
「そうです」
三崎ははっきり言った。その言葉はありがたかった。だが、胸の重さが消えるわけではない。黒いマントの男を逃がした。二人は助けられなかった。遺体をアイテムボックスに入れた。全部、事実だった。蒼真は自分の手を見る。血は拭われている。それでも、まだ残っている気がした。しばらくして、警備課の責任者らしき男が三崎に報告に来た。
入口封鎖。現場保存。周辺聞き込み。ダンジョン内部の追跡班は、慎重に編成中。ただし、犯人が脱出石を使用した可能性も高い。三崎はそれを聞いて頷いた。
「天城さんには、今日はこれ以上の探索を禁止します」
「禁止ですか」
「禁止です」
「まあ、行く気はないですけど」
「その言葉を聞いて少し安心しました」
「俺、そこまで信用ないですか」
三崎は真顔で言った。
「未踏破D級に単独で入り、二階層で襲撃事件に介入し、負傷した状態で遺体と生存者を連れて戻ってきた方に、今日の再探索を許可する理由がありません」
「それはそう」
蒼真は素直に頷いた。三崎は少しだけ息を吐く。
「今日は帰って休んでください。正式な聞き取りは後日行います。ただし、傷の経過は必ず確認してください。普通の斬撃ではなかったんですよね」
「はい」
「悪化したらすぐ連絡を」
「分かりました」
帰宅を許されたのは、夜になってからだった。廃ビルの外には、まだ警備課の車両が止まっている。規制線の向こうで、近所の住人らしき人たちが不安そうに見ていた。ダンジョンはもう、隠しきれないほど世の中に広がっている。けれど、その内側で何が起きているのかまでは、外から見えない。蒼真はスマホを見た。陽翠からメッセージが来ていた。
「三崎さんから連絡きた。怪我したって?」
蒼真は少し迷い、返信する。
「動ける。命に別状なし」
すぐに返事が来た。
「それ安心する言い方じゃない」
蒼真は苦笑した。
「明日説明する」
「今は休んで。あと、無茶しないって言ったよね」
蒼真は画面を見つめる。無茶……したのだろうか。たぶん、した。でも、あそこで動かなかったら、兄妹は死んでいたかもしれない。そう考えると、後悔はできなかった。
「ごめん」
短く送る。陽翠からの返事は、少し遅れて来た。
「生きて帰ってきたなら今は許す」
蒼真はスマホをしまった。家に帰ると、部屋は静かだった。クローゼットの奥には、プライベートダンジョンへの入口がある。いつもなら、今日の反省をすぐ訓練に持ち込んでいたかもしれない。だが、今日は体が動かなかった。肩の処置を確認し、皮鎧の傷を見る。
Eランク装備一式を揃えた時に得た称号【低級揃装者】。その報酬ユニークスキル【装備大事】は、装備の小さな損傷を時間をかけて修復してくれる。切り裂かれた箇所は、少しづつ修復されていた。ただし、大きく壊れた装備までは直せない。今回はまだ大丈夫そうだった。
「装備にも、助けられたな」
呟く。Cランク盾とEランク皮鎧セット。これがなければ、もっと深く斬られていた。それでも足りなかった。守る戦いを知らなかった。人間相手の嫌らしさを知らなかった。異常な刀の怖さを知らなかった。蒼真はベッドに座る。目を閉じると、あの青年の背中が浮かぶ。
妹を守るために前へ出た背中。それを見て、自分は動いた。そして、黒いマントの男と戦った。勝ったとは言えない。追い払っただけ。守り切ったとも言い切れない。二人は生きた。二人は死んだ。その事実だけが残っている。蒼真はゆっくり息を吐いた。
「守るって、難しいな」
初めて、そう思った。強ければいいわけではない。速ければいいわけでもない。敵を倒せるだけでは足りない。誰かを守るなら、守るための戦い方がいる。その日、蒼真は武練の間に入らなかった。魔法の訓練もしなかった。ただ、眠れるまでずっと考えていた。黒いマント。狂牡丹。追加斬撃。逃げた敵。助けた兄妹。アイテムボックスに入れた遺体。
そして、自分に足りなかったもの。




