第36話 守る戦い
黒いマントの男は、蒼真の傷を見ていた。いや、正確には肩を見ていた。そして、男自身の肩口にあった浅い傷から、白い煙を上げながら塞がっていくのが見えた。蒼真の背筋が冷える。こっちが斬られた部位に追加斬撃……回復もするのか。
「厄介すぎるだろ……」
男がまた動く。蒼真は下がれない。背後に兄妹がいる。大きく避ければ、二人が斬られる。受ければ、削られる。斬られれば、狂牡丹の効果が乗る。攻めたいが、攻め切れない。
盾を構えて剣を振る。水魔法で床を濡らす。風魔法で体勢を崩そうとする。だが、男は滑る床を踏み込みの一部に変えた。風の流れを避けるように、身体を沈める。そして、蒼真の横を抜けようとする。妹を狙っている。
「させるか!」
蒼真は盾を投げるように前へ出し、男の進路を塞いだ。
その瞬間、男の刀が盾ではなく、蒼真の篭手の隙間を狙う。刃がかすめる。浅い。だが、また来る。一拍遅れた追加斬撃。腕の皮膚が裂ける。
「っ……!」
痛覚耐性があっても痛い。いや、痛みそのものよりも、タイミングが気持ち悪い。斬られたと思った後に、もう一度傷が開く。体が反応を誤る。蒼真の剣がわずかに遅れる。男はそこへ踏み込んでくる。蒼真は咄嗟に火球を作った。
大きくはできない。兄妹が近い。火球を小さく圧縮し、男の足元へ撃つ。爆ぜる。男が一歩下がった。初めて、距離が空いた。
蒼真は荒く息を吐く。肩から血が流れている腕も痛い。盾の微回復が働いているはずなのに、傷の治りが鈍い。狂牡丹の追加斬撃で、傷口が乱れているせいかもしれない。
「おい、あんたら」
蒼真は背後へ声を投げた。青年が震える声で答える。
「な、なんだ」
「動けるか」
「妹は、何とか。俺も、少しなら」
「なら、俺の合図で入口側へ下がれ。走るな。転ぶな。俺から離れすぎるな」
「分かった」
分かった、とは言った。だが、声が震えている。無理もない。二人は仲間を失っている。目の前の男に殺されかけている。まともに動ける精神状態ではない。蒼真は歯を食いしばった。
守りながら戦うのが、こんなに難しいとは思わなかった。敵を倒すだけなら、まだ選択肢はある。火力を出す。武器を替える。魔法を重ねる。距離を取る。だが、守る対象がいると、その全部に制限がかかる。
自分だけなら避けられる攻撃を受けなければならない。自分だけなら撃てる魔法を撃てない。自分だけなら追える相手を追えない。守るというのは、強くなることではなく、選択肢を捨てることなのかもしれない。今さらそんなことを思う。
男が動いた。蒼真は水魔法を床へ広げる。今度は滑らせるためではない。水面に反射する影を見るため。男の黒いマントが揺れる。本体は右。だが、刀の軌道は左から来る。蒼真は盾で受けず、剣で弾いた。金属音。その瞬間、短剣をアイテムボックスから落とすように出し、蹴り上げる。
投擲。
短剣が男の肩をかすめた。黒いマントが裂ける。男の動きがわずかに止まる。浅い。だが、有効打だ。蒼真は踏み込む。今度は剣ではなく、戦槌。アイテムボックスから持ち替え、横薙ぎに振る。男は刀で受けた。だが、重さで体が流れる。そこへ《雷魔法》。低出力。一点集中。男の腕に雷が走った。
刀の動きが鈍る。蒼真はさらに踏み込んだ。殺すためではない。止めるため。戦槌が男の脇腹を捉える。鈍い音。男の体が吹き飛び、石壁に背中を打った。広間に、短い静寂が落ちる。
蒼真は肩で息をした。倒したか。そう思った瞬間、男がゆっくりと立ち上がった。
「……嘘だろ」
思わず声が漏れた。効いている。間違いなく効いている。だが、倒れていない。黒いマントの奥で、男が蒼真を見ている。顔は見えない。それでも、視線だけは分かる。今までとは違う。試すようなものではない。敵として、見ている。男はしばらく黙っていた。そして、低く言った。
「今日はやめる」
蒼真は追わなかった。追えなかった。背後に兄妹がいる。自分も傷を負っている。相手はまだ動ける。ここで深追いすれば、今度こそ守れない。黒いマントの男は通路の奥へ消えていく。足音はすぐに聞こえなくなった。蒼真は盾を構えたまま、しばらく動かなかった。完全に気配が遠ざかってから、ようやく息を吐く。
「……生きてるか?」
青年がその場に崩れ落ちた。妹も膝から座り込む。
「た、助かった……のか?」
「たぶん」
蒼真は肩を押さえながら答えた。青年が涙の混じった声で頭を下げる。
「ありがとう。本当に、ありがとう……!」
妹も震えながら何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
蒼真は返事をしようとして、床に倒れた二人を見た。動かない。救えなかった二人。その現実が、喉に詰まった。
「礼は後でいい。まず外に出る」
青年が顔を上げる。
「でも、二人が……」
「ああ。連れて帰る」
蒼真はそう言った。言ってから、少しだけ息を詰める。遺体は、アイテムボックスに入れられる。知識としては分かっていた。生きている生物は入れられない。だが、死んだものは収納できる。素材も、肉も、魔物の残骸も、遺体も。理屈の上では同じだ。けれど、人の遺体を収納するとなると話が違った。便利だから入れる。荷物だから運ぶ。そんなふうには思えない。
蒼真は倒れた二人の前に膝をついた。知らない探索者だ。名前も知らない。どんな人間だったのかも知らない。それでも、さっきまで生きていた人たちだ。蒼真は数秒、手を伸ばせなかった。
アイテムボックスは便利だ。だが、その便利さが、今はひどく冷たく感じた。青年が小さく言う。
「置いて、行けません……」
「分かってる」
蒼真は短く答えた。肩の傷が痛む。腕も痺れている。この状態で遺体を担いで、兄妹を守りながらD級ダンジョン二階層を戻るのは危険すぎる。魔物に襲われれば、全員が死ぬ可能性がある。だから、入れるしかない。蒼真は目を伏せた。
「すみません。少しだけ、我慢してください」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。倒れた探索者の体に触れる。
収納。
遺体が消えた。もう一人にも触れる。
収納。
広間に残ったのは、血の跡と、重い沈黙だけだった。妹が小さく息を呑む。青年も、何かを言いかけて、言えなかった。蒼真はアイテムボックスの中に入った二人の存在を、頭の奥で確かに感じた。魔石や武器や素材とは違う。重さはない。けれど、重かった。
「行くぞ」
蒼真は立ち上がった。帰り道は長かった。魔物にも何度か遭遇した。蒼真は戦闘を避けられるものは避け、必要なものだけを短く処理した。目的は踏破ではない。生きて外へ出ること。それだけだった。青年は妹を支え、妹は泣きそうになりながらも歩いた。蒼真は前を進み、時折振り返る。一歩進むたび、肩の傷が痛む。狂牡丹の追加斬撃で裂けた傷は、まだじくじくと熱を持っている。普通の斬撃ではない。あの黒いマントの男。あの刀。あれは、今後もどこかで関わることになる。そんな嫌な予感があった。
ようやく黒い出口が見えた時、青年が小さく泣いた。妹も声を殺して泣いた。蒼真は先に外へ出る。廃ビルの地下。現実の空気。暗いコンクリートの床。蒼真はスマホを取り出し、すぐにダンジョン課へ連絡した。
「天城です。未管理のD級ダンジョン内で探索者襲撃事件。死亡者二名、生存者二名。犯人は逃走。ダンジョン警備課を回してください」
通話先の職員の声が変わった。慌ただしい音がする。場所を伝える。状態を伝える。三崎に繋がる。
「天城さん、怪我は」
「あります。でも動けます」
「生存者は」
「二人。かなり消耗してます」
「死亡者は」
蒼真は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……二人。遺体は、俺のアイテムボックスに収納しています」
通話の向こうが、短く沈黙した。その沈黙の意味は分かる。アイテムボックスに遺体を収納できる探索者。それがどれだけ少なく、どれだけ危うい存在なのか。三崎さんも理解しているはずだ。それでも、今は責める声ではなかった。
「分かりました。到着後、警備課と医療班の指示に従ってください。遺体の引き渡しも、その場で行います」
「はい」
「そこを動かないでください」
「分かりました」
通話を切る。蒼真は壁にもたれた。体が重い。肩が痛い。腕が痺れる。だが、それ以上に、アイテムボックスの中の二人が重かった。青年が震える声で言った。
「あの、本当に……ありがとうございました」
妹も泣きながら頭を下げる。蒼真は少しだけ首を振った。
「生きて出られたなら、それでいい」
そう言ったが、自分の中では何も軽くならなかった。二人は助けた。二人は助けられなかった。その差が、胸の奥に残る。遠くからサイレンの音が近づいてきた。
ダンジョン警備課。救急。おそらく三崎も来る。犯人は、もう入口から出てこないかもしれない。脱出石を持っていれば、どこか別の場所へ抜けている可能性もある。それでも、警備課はしばらく入口を押さえるだろう。犯人がまだ中にいる可能性も、普通に出てくる可能性も、ゼロではないからだ。
蒼真は地下の奥にある黒い入口を見た。崩れた石門の廃砦。未踏破D級。今日は踏破できなかった。それどころではなかった。けれど、今日分かったことがある。自分はまだ、守りながら戦うことを知らない。敵が魔物ならまだいい。だが、人間は違う。守るものを狙ってくる。迷いを突いてくる。そして、あの黒いマントの男のように、異常な武器を持っている者もいる。
蒼真は拳を握った。肩の傷が痛んだ。斬られた箇所に、もう一度斬撃が走った感覚が、まだ残っている。
「……訓練、増やすか」
小さく呟いた声は、近づいてくるサイレンに紛れて消えた。
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