第16話 こりゃ便利
暮らしの小部屋は、ダンジョンというより古いアパートの一室に近かった。
白い壁。
木目の床。
小さなキッチン。
洗面台。
物干し場。
中央には、丸いテーブルと椅子。
まるで誰かの部屋をそのまま切り取ったような空間だった。
ただし、窓の外は真っ白で何も見えない。
蒼真が中へ入ると、頭の中に文字が浮かんだ。
【生活魔法チュートリアルを開始します】
「親切だな」
目の前のテーブルに、紙が一枚置かれている。
そこには課題が書かれていた。
一つ目。
濡れた布を乾かせ。
テーブルの横に、びしょ濡れのタオルが置いてある。
蒼真は腕を組んだ。
「乾燥ってことか」
まだ生活魔法は持っていない。
だが、チュートリアルなら誘導があるはずだ。
濡れたタオルに触れる。
頭の中に、感覚が流れ込んできた。
余分な水分を外へ逃がす。
熱ではなく、乾いた状態へ整える。
蒼真はその感覚に従って、手をかざした。
「乾燥」
言葉が自然に出た。
タオルから水気が抜け、ふわりと軽くなる。
完全に乾いた。
「おお」
火で炙るわけでも、風で吹き飛ばすわけでもない。
乾かす、という結果だけを小さく起こす魔法。
生活魔法。
地味だ。
だが、かなり便利だ。
【課題一 達成】
次の紙が現れる。
二つ目。
汚れた皿を綺麗にせよ。
キッチンには、油で汚れた皿が数枚置かれていた。
蒼真は笑った。
「洗浄だな」
皿に手をかざす。
汚れを落とす感覚。
余分なものだけを剥がし、対象を清潔な状態へ戻す。
「洗浄」
皿の汚れがすっと消えた。
水も洗剤も使っていない。
なのに、皿は新品のように綺麗になった。
「これ、めちゃくちゃ便利だろ」
探索後の服。
泥。
血。
汗。
ダンジョン素材の汚れ。
全部に使えるなら、生活がかなり楽になる。
【課題二 達成】
三つ目。
暗い部屋を照らせ。
部屋の明かりが消えた。
一瞬、真っ暗になる。
蒼真は反射的に火魔法を使いそうになったが、思いとどまった。
これは生活魔法のチュートリアルだ。
火ではない。
光。
明かりを生む感覚。
熱ではなく、ただ照らす。
「発光」
手のひらの上に、小さな光が浮かんだ。
火球よりずっと穏やかで、熱もない。
部屋が柔らかく照らされる。
「これは探索でも使えるな」
暗闇ダンジョンで火を使うと、酸素や煙が気になる。
発光ならその心配が少ない。
【課題三 達成】
四つ目。
蝋燭に火をつけよ。
テーブルの上に、一本の蝋燭を見つけた。
蒼真は椅子に座り、指先を意識する。
燃やすのではない。
そのために必要な火種を作る。
「着火」
指先に小さな火が灯る。
蒼真はその指で蝋燭に火を移した。
ジジッと小さな音がして燃え始めた。
吹き消したくなったが、チュートリアル中なのでやめておいた。
【課題四 達成】
五つ目。
風鈴を鳴らせ。
窓に風鈴が吊り下がっていた。
これは分かりやすい。
吹き抜けるような風ではなくて空気を動かす。
「微風」
柔らかな風が頬を撫でる。
チリンチリーン。
綺麗な音色が室内に響く。
煙や土埃を少し流すくらいなら使える。
風魔法でもできないことはないが調節が難しい。
一定の強さの優しい風は活躍の機会がある。
【課題五 達成】
六つ目。
鉢植えの土を掘り起こせ。
窓際に鉢植えがある。
「土がカチカチだな」
蒼真は手をかざす。
隆起でも固めるわけでもない。
何かを作り出すのではなく、目の前の土をほぐす。
「耕作」
土が混ぜられ、ほどよく柔らかくなる。
生活魔法は、どれも派手ではない。
だが、妙に繊細だった。
火や水のように力をぶつける魔法ではない。
生活に必要な小さな結果だけを、決まった形で起こす魔法。
それが生活魔法なのだと、蒼真は少しずつ理解していく。
【課題六 達成】
七つ目。
テントの中を暗くせよ。
部屋の隅に設置されていたテントの中に入った。
外の光が布を透過してテント内を明るくしている。
蒼真は天井あたりの布に触れた。
「暗幕」
触れたところを中心に漏れ入る光が遮断されていく。
真っ暗になった。
テントから出て部屋に戻る。
【課題七 達成】
八つ目。
壊れた木箱を直せ。
部屋の隅に天板部分の木が折れた木箱がある。
合わせると折れた部分はピッタリと合う。
「直すのか」
木をくっつけるのか。
今回が木なだけで、簡単なものを直すんだろう。
「補修」
折れた部分を包んでいた光が収まると、接着したというより、折れた部分だけが繋ぎ直されたように見えた。
ひびは塞がっているが、折れていた跡は薄く残っている。
複雑な機械とか、武器は難しいだろう。
簡単な構造なら使える状態にできるってことか。
落としたマグカップも、破れた布も。
これが一番便利かもしれない。
【課題八 達成】
最後の課題が出た。
部屋を元の状態に戻せ。
汚れた床。
濡れたタオル。
暗い部屋。
蝋燭。
風鈴。
植木鉢。
薄い布のテント。
折れた木材。
全部が一度に現れる。
「総復習ってことか」
蒼真は笑った。
まず発光で部屋を照らす。
洗浄で床を綺麗にする。
乾燥でタオルを乾かす。
着火で蝋燭に火を灯す。
テントの布に暗幕をかける。
植木鉢の中の土を柔らかくする。
木を補修で繋ぐ。
ついでに微風で空気を動かし、風鈴の音を鳴らす。
生活感のある小部屋が、最初よりも少し綺麗になった。
【最終課題 達成】
【ダンジョンを踏破しました】
部屋の中央に、小さな宝箱が現れた。
蒼真は息を吐いた。
戦闘はなかった。
体力もほとんど使っていない。
だが、これはこれで妙に疲れた。
魔力の使い方が、戦闘魔法とはまるで違う。
細かく、丁寧で、結果を整える感覚。
宝箱を開ける。
中には、小さな白い魔本のようなものが入っていた。
《真鑑定》
【生活魔法指南書】
【生活魔法チュートリアル踏破報酬】
【使用することで生活魔法を習得】
【チュートリアル課題を完了しているため即時習得可能】
「即時」
蒼真は迷わず手に取った。
指南書が淡く光り、手の中で消える。
【生活魔法を習得しました】
続けて、頭の中に使える魔法が流れ込む。
【着火】
【洗浄】
【乾燥】
【微風】
【発光】
【耕作】
【暗幕】
【補修】
蒼真はしばらく黙った。
《真鑑定》で生活魔法を確認した。
【生活魔法】
【生活に必要な小さな効果を起こす魔法】
【効果は固定され、使用者の能力による強化や弱化はできない】
【消費魔力は極めて少ない】
表示を見て、じわじわと笑みが広がる。
「いや、これ当たりだろ」
戦闘で敵を吹き飛ばす魔法ではない。
ボスを倒す切り札でもない。
だが、毎日使う。
探索でも使う。
生活でも使う。
地味に見えて、便利さが異常だった。
さらに文字が浮かぶ。
【称号 人類初生活魔法使いを獲得しました】
「称号?」
蒼真は目を細めた。
【称号報酬 ユニークスキル 生活適応を獲得しました】
体の奥に、何かが静かに広がっていく。
急に力が増したわけではない。
だが、今まで意識して行っていた日常の動作や、環境へ体を馴染ませる感覚が、少しだけ自然になった気がした。
《真鑑定》
【生活適応】
【環境変化、日常作業、探索時の生活行動に対する適応力を高めるユニークスキル】
【睡眠、食事、衛生、移動など、生活維持に関わる行動を補助】
【複数の生活魔法を同時に発動可能】
蒼真は表示を見て、ゆっくり頷いた。
「地味だけど、強いな」
戦闘向きではない。
だが、探索者として長く活動するなら、こういう能力はかなり重要だ。
寝られる。
食える。
清潔を保てる。
服を乾かせる。
明かりを作れる。
物を維持できる。
探索を続けるための土台になる。
蒼真はダンジョンを出た。
商店街のクリーニング店横に戻る。
入口は、淡い光を失い、ゆっくりと消えていった。
特殊ダンジョンは踏破後に消える。
また知らないどこかに現れるんだろう。
蒼真はしばらくその場所を見ていた。
それから、スマホを取り出す。
陽翠からメッセージ。
「ちゃんと帰った?」
蒼真は少し考えた。
そして返信する。
「もうすぐ帰る」
すぐに返事が来る。
「寄り道した?」
「少し」
「何したの」
蒼真は商店街を歩きながら、手のひらに小さな光を灯した。
発光。
熱のない、柔らかい光。
誰にも見えないようにすぐ消す。
「生活が便利になった」
送信。
しばらくして、陽翠から返事が来た。
「意味が分からないけど嫌な予感だけはする」
蒼真は笑った。
家に帰ると、まず玄関で靴に洗浄を使ってみた。
泥と埃が消える。
次に上着へ洗浄。
昨日までの汚れも、薄い血の跡も綺麗になった。
「最高かよ」
洗濯の手間が減る。
ダンジョン帰りの汚れも誤魔化しやすい。
探索者生活の現実的な問題が、かなり解決した。
部屋に入り、クローゼットを開ける。
プライベートダンジョンの入口は静かにそこにある。
蒼真は生活魔法を確認しながら、訓練場へ入った。
魔力無限の部屋で、生活魔法を一つずつ試してみる。
どれも弱い。
戦闘で主役になるような魔法ではない。
だが、使うたびに楽しい。
便利さが体に染みる。
「これ、探索より日常の方が革命だな」
蒼真は笑いながら、床に座った。
生活魔法。
派手さはない。
でも、手に入れてみると分かる。
これはかなり大きい。
覚えた魔法の中でも、生活魔法は少し異質だ。
戦うためではなく、生きるための魔法。
ダンジョンに潜る時間が増えるほど、この価値は上がる。
蒼真はステータスを開いた。
【初級 水魔法】
【初級 火魔法】
【初級 風魔法】
【初級 土魔法】
【生活魔法】
魔法系のスキルが増えている。
それだけで、少し口元が緩んだ。
「魔法、まだ他にもあるんだろうな」
根拠はない。
だが、水や火があるなら、他にもある気がする。
そう思うと、また探したくなる。
蒼真は訓練場の床に寝転がった。
今日は休むはずだった。
陽翠にも釘を刺された。
三崎にも注意された。
なのに、結局ダンジョンに入った。
ただし、今回は戦闘ではない。
生活魔法を覚えた。
便利になった。
だからセーフ。
たぶん。
蒼真は自分にそう言い訳した。
スマホを見ると、陽翠からもう一通来ていた。
「明日、詳しく聞くから」
蒼真は画面を見て、苦笑した。
「これは怒られるな」
けれど、後悔はしていない。
見つけたら入る。
入ったら何かが得られる。
今日は、生活そのものを変える魔法を得た。
それだけで十分すぎる成果だった。
蒼真は手のひらに小さな光を浮かべた。
発光の柔らかな明かりが、訓練場の天井を淡く照らす。
火の明かりとは違う。
戦うための光ではなく、暮らすための光。
その穏やかさが、少しだけ心地よかった。
「さて、明日は何が見つかるかね」
休む気は、やはりあまりなかった。




