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第13話 通りすがり

水曜の朝。


天城蒼真は、目覚ましの音を止めてからしばらく動かなかった。


体が重い。


昨日の錆びた地下道の疲労が、まだ残っている。


【身体強化】を覚えたからといって、疲れが消えるわけではないらしい。


むしろ、動けるようになった分、限界の少し先まで体を使ってしまった気がする。


「……今日はさすがに休みだな」


ベッドの中で呟いた。


言葉にしておくことは大事だ。


今日は休む。


会社に行く。


引き継ぎを進める。


帰ったら風呂に入って、プライベートダンジョンで軽く魔法を確認するくらいにする。


外で新しいダンジョンは探さない。


入らない。


絶対に入らない。


蒼真はそこまで考えてから、少しだけ間を置いた。


「見つけなければ入らない」


かなり後退した決意だった。


スマホを確認すると、ニュース通知がさらに増えていた。


謎の入口、全国各地で通報。


警察庁、立ち入り自粛を呼びかけ。


政府、関係省庁による合同対策会議へ。


蒼真は画面を見ながら、眉を上げた。


「全国か」


都内だけではない。


もう、現象は広がっている。


あるいは、最初から全国に発生していて、ただ見つかり始めただけなのかもしれない。


記事には、入口の写真がいくつも載っていた。


駅地下。


山道。


商店街。


学校の倉庫。


廃工場。


蒼真は一枚ずつ見ながら、《真鑑定》を使ってみた。


【ダンジョン入口】


【映像越しの鑑定により精度低下】


【推定ランク F】


【推定テーマ 獣】


「見えるな」


映像越しでも、完全ではないが情報は拾える。


別の記事の写真を見る。


【ダンジョン入口】


【映像越しの鑑定により精度低下】


【推定ランク F】


【推定テーマ 虫】


さらに別の写真。


【ダンジョン入口】


【映像越しの鑑定により精度低下】


【推定ランク E】


【推定テーマ 暗闇】


「E?」


蒼真の手が止まった。


今まで見てきたのはFランクだけだった。


Eランク。


たった一つ上。


だが、錆びた地下道の二階層であれだけ苦戦したばかりだ。ランクが上がれば、危険度は確実に変わる。


写真の出所を見ると、地方の山道らしい。すでに警察が封鎖していると書かれていた。


「入った人、大丈夫かね」


正義感で動く気はない。


そう自分では思っている。


だが、何も知らずに入った人間が、暗闇テーマのEランクに巻き込まれることを想像すると、少し気分が悪かった。


蒼真はスマホを伏せて、起き上がった。


会社へ行く準備をする。


シャワーを浴び、スーツを着る。


鏡を見ると、首元に薄く青あざが見えた。昨日ラストガーディアンの腕をかすめた時のものだ。


シャツの襟で隠れる。


問題ない。


会社へ向かう電車の中でも、ダンジョンの話題は増えていた。


誰もがスマホを見ている。


昨日までは都市伝説扱いだったものが、今日はもう災害の一種として語られ始めていた。


「黒い入口、見たら近づくなって」


「自衛隊出るのかな」


「中に化け物がいるって動画、あれ本物?」


「会社休みになんねえかな」


最後の言葉に、蒼真は少しだけ共感した。


会社に着くと、空気はさらに浮ついていた。


仕事どころではない、という顔をしている者も多い。だが、実際には普通に仕事が始まる。


世界が少しおかしくなっても、会社は動く。


蒼真は自分の席に座り、引き継ぎ資料を開いた。


やることは昨日と同じ。


淡々と進める。


午前中、上司にいくつか確認され、後任予定の社員に案件の説明をした。


蒼真は思ったより丁寧に説明した。


もう辞めるのだから適当でいい、とは思わなかった。


仕事に熱意はない。


けれど、最後に雑に投げるのは違う。


やることはやる。


好きではないだけで、道徳心まで欠けているわけではない。


昼前、人事から退職日について連絡が来た。


有休消化を含め、来週末で出社は最後。


その後は正式な手続きだけ。


「早いな」


思わず呟いた。


早くしたかったのは自分だ。


なのに、実際に決まると妙に現実味がある。


来週末で、会社員としての自分はいったん終わる。


昼休み。


蒼真はまた外の公園へ出た。


今日は弁当ではなく、コンビニのパンとコーヒーだけだった。


スマホを見る。


陽翠からメッセージが来ていた。


「今日の夜、少し話せる?」


蒼真はパンをくわえたまま、画面を見つめた。


妹がこの言い方をする時は、だいたい何かを掴んでいる。


「何の話?」


すぐに返事が来た。


「黒い入口の話」


「仕事関係?」


少し間が空いた。


「まだ詳しく言えない。でも兄さん、絶対何か知ってるよね」


蒼真は空を見上げた。


勘が良すぎる。


いや、陽翠は国の関係機関で働いている。


今はまだ正式にダンジョン課という名前ではなくても、こういう異常事態には関わる立場なのだろう。


蒼真が最近仕事を辞めようとしている。


帰りが遅い。


何かを隠している。


そこに全国的な黒い入口騒動。


繋げるなという方が無理かもしれない。


「夜なら少し」


そう返した。


返事は早かった。


「家行く」


「来るの?」


「行く」


「部屋散らかってるけど」


「いつもでしょ」


失礼な妹だった。


だが、否定はできない。


蒼真はスマホをポケットにしまった。


陽翠が来る。


ということは、プライベートダンジョンを隠す必要がある。


いや、隠せるのか。


クローゼットの奥に入口がある。


服で隠せば見えないかもしれない。だが、真剣に探されたら終わる。


話すか。


話さないか。


蒼真は少し考えた。


結論はすぐ出た。


全部は話さない。


でも、何かは話す必要がある。


午後の仕事は、妙に長く感じた。


引き継ぎは順調だった。


周囲の会話はダンジョン一色だった。


ニュースでは、立ち入り禁止の入口に若者数人が入った可能性があると報じられていた。


蒼真はそれを横目で見ながら、少しだけ苛立った。


好奇心は分かる。


自分も人のことは言えない。


ただ、何も準備せず入るのは危ない。


石でスライムを殴り倒した自分が言うのもおかしいが、危ないものは危ない。


定時を少し過ぎた頃、蒼真は会社を出た。


今日はダンジョンへ寄らない。


そう決めていた。


陽翠が来る。


部屋を片づける必要がある。


だから、まっすぐ帰る。


駅へ向かう途中、蒼真はふと足を止めた。


路地の奥。


古い雑居ビルとビルの隙間。


そこに、黒い入口があった。


《真鑑定》


【ダンジョン名 薄闇の階段】


【ランク F】


【階層 一階層】


【テーマ 暗闇】


【状態 未踏破】


蒼真は入口を見た。


それから、スマホの時間を見る。


午後六時半。


陽翠が来るのは、おそらく八時前後。


一階層。


Fランク。


暗闇テーマ。


「……」


今日は入らない。


朝、そう決めた。


体もまだ痛い。


妹も来る。


部屋も片づけたい。


入る理由はない。


蒼真は入口を見つめたまま、数秒黙った。


そして、深く息を吐く。


「様子見だけ」


かなり危険な言葉だった。


一歩だけ近づく。


三十分から一時間くらいなら探索しても大丈夫かな。


「……」


蒼真は目を閉じた。


入るな。


今日は入るな。


陽翠が来る。


体も休めろ。


そう自分に言い聞かせる。


しかし足はダンジョンに自然と進んでいた。


入口を越える。


中は暗く何も見えなかった。


その時、奥から小さな音がした。


何かが走る音。


そして、人の声。


「誰かいるのか?」


蒼真の表情が変わった。


耳を澄ます。


かすかに、声が聞こえた。


若い男の声。


焦っている。


別の声も聞こえる。


少なくとも二人はいる。


蒼真は舌打ちした。


「入る理由、できたじゃん」


そう言って、奥へと踏み込んだ。


薄闇の階段は、名前通り階段だらけのダンジョンだった。


上下左右に石の階段が伸びている。


だが、どれも一階層内で繋がっているらしく、真鑑定では構造自体はそこまで広くないと分かった。


問題は暗さだった。


視界が悪い。


足元が見えにくい。


壁の影が不自然に揺れる。


蒼真はアルカナに触れ、手のひらの上に小さな火を浮かべた。


火魔法を弱く使い、照明代わりにする。


「便利だな、火」


進む。


声の方向を探る。


階段の下から、悲鳴が聞こえた。


蒼真は走った。


体が痛む。


それでも身体強化のおかげか、昨日までより踏み込みが軽い。


階段を下りた先で、二人の男が壁際に追い詰められていた。


大学生くらいか。


手にはスマホのライト。


その光に照らされるように、黒い鼠のような魔物が数匹、彼らを囲んでいた。


《真鑑定》


【シャドウラット】


【ランク F】


【暗所で動きが速い】


「うわ、普通にいるじゃん」


蒼真が言うと、男の一人がこちらを見た。


「え、誰!?」


「通りすがり」


答えながら、蒼真は火球を撃った。


シャドウラットの一匹に直撃する。


黒い体が弾けるように燃え、消えた。


残りが散る。


速い。


だが、風鳴りの通路の鳥ほどではない。


蒼真は風魔法で一匹の進路を乱し、土魔法で足元を盛り上げて止める。


そこへ火球。


もう一匹は足元へ飛びかかってきた。


蒼真は足を振り下ろす。


鈍い音。


撃破。


「すご……」


後ろで男が呟いた。


蒼真は振り返らずに言った。


「出口分かるか?」


「わ、分からないです」


「なんで入った」


「動画撮ろうと思って……」


蒼真は一瞬だけ黙った。


言いたいことは山ほどあった。


だが、今は説教より脱出が先だ。


「ついてこい。離れるな」


「は、はい」


二人を連れて、蒼真は来た道を戻る。


途中でシャドウラットが何匹か出たが、落ち着いて対処すれば危険ではなかった。


問題は、後ろの二人が何度も足をもつれさせることだった。


「走るな。足元見ろ。スマホのライトは下に向けろ」


蒼真は短く指示を出す。


自分が誰かを連れて動くことに、少し違和感があった。


昨日までは完全に一人だった。


自分のペースで進み、自分の判断で戦い、自分だけが危険を負えばよかった。


だが、今は違う。


後ろに人がいる。


自分がミスをすれば、この二人が死ぬかもしれない。


蒼真は少しだけ唇を結んだ。


これは、面倒だ。


面倒だが、放っておくほど薄情でもない。


入口が見えた。


二人を先に押し出す。


蒼真も外へ出る。


薄暗い路地に戻った瞬間、二人はその場に座り込んだ。


「助かった……」


「マジで死ぬかと思った……」


蒼真は二人を見下ろした。


「次入ったら死ぬぞ」


声は思ったより低かった。


二人がびくりと肩を震わせる。


「す、すみません」


「俺の動画は消しとけ。あと、入口には近づくな。警察に連絡しろ。中に魔物がいるって言え」


「信じてもらえますかね」


「動画撮ったんだろ」


男たちは気まずそうに頷いた。


蒼真はそれ以上何も言わず、路地を出ようとした。


「待ってください」


呼び止められる。


振り返る。


「名前、教えてください」


蒼真は少しだけ考えた。


そして言った。


「通りすがりでいい」


そのまま歩き出す。


背後で二人が何か言っていたが、聞こえないふりをした。


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