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1-23

すぐ横でパトリックの寝息が聞こえていることを自覚すると、静寂の中で、ケイは唐突に意識を覚醒させた。


ハッとして飛び起きそうになる体を、疲労が無理やり引き止める。目を開けると、周囲はまだ薄暗い。夜明け前だ。


どれくらい眠れただろうか。体は鉛のように重いが、眠りにつく前よりはいくらかマシになっているように感じる。休めたことで僅かにでも体力が回復できたのだろう。


真っ先に、隊長の方へ視線を向けた。毛布にくるまり、横たわっている。息をしているだろうか。不安に胸がざわつく。耳を澄ませる。かろうじて、浅く、しかし確かな呼吸音が聞こえてきた。


「……っ」


安堵の息が漏れる。生きている。


さらに詳しく確かめるため、ケイはゆっくりと体を起こし、隊長の傍らに膝をついた。泥まみれの顔は、薄明かりの中でも生気が薄く見える。


額にそっと手を当てる。熱い。重傷を負っているのだ。発熱しているということは、体が懸命に生きようとしている証拠でもあるが、同時に危険な状態であることも示唆していた。


それでも、呼吸をしている。生きている。その事実だけで、ケイの心に希望の灯がともる。


ケイが安堵のため息をついた、その僅かな音に気づいたのだろう。すぐ横で寝ていたパトリックが、ゆっくりと身動ぎをした。呻き声と共に、泥まみれの顔がケイの方へ向く。


「……ケイか……?もう夜明けか?」


掠れた声だった。パトリックも、激しく疲労している。


「はい。まだ少し薄暗いですけど」


ケイは答えた。


「隊長は……?」


パトリックは体を起こしながら、真っ先に隊長の安否を尋ねた。その声には、隊長を気遣う色が強く滲んでいる。


「息をしてます。でも、熱が……」


ケイが答えると、パトリックは無言で頷き、隊長の額に自分の手を当てた。そして、同じように熱を確認し、小さく息を吐いた。


「生きているか……。よかった……」


その声には、心からの安堵が込められていた。重傷を負いながらも隊長を背負い、あの地獄の塩田を突破してきたパトリックにとって、隊長の無事は最大の救いだっただろう。


パトリックは、少しだけ体を動かし、伸びをした。関節がきしむ音が聞こえるようだ。


「少しは体が楽になったか?魔力も……多少は回復したか?」


パトリックが確かめるように手を閉じたり開いたりしている。


「はい。疲労はまだありますが、眠る前よりはマシです」


ケイは答えた。体内の魔力もここに来る直前にはかなり消耗していたが、今は枯渇している感覚はない。


「俺もだ。剣を振るくらいはできそうだ」


パトリックは自身の騎士剣に視線を向けた。剣以外、ほとんどの物資を失った今、頼りになるのは互いの命と、そして剣だけだ。


パトリックは立ち上がり、周囲を見回した。まだ薄暗いが、岩場であること、そして周囲に魔物の気配がないことを確認しているのだろう。


「さて……」


パトリックはケイに視線を戻した。


「これからどうする?都市へ向かうルートだが」


パトリックはケイが持っているマルスの黒板を指した。あの黒板に、今後の撤退ルートが記されている。


ケイは頷き、黒板を取り出した。泥や血で少し汚れているが、マルスの几帳面な筆跡はしっかりと残っている。夜明け前の僅かな光を頼りに、そこに書かれた地図とメモを読み解く。


「マルスさんのメモによると……往路で通った場所は、伏流となっている場所なので、今は川になっているとのことです。視認した限りだと、川幅も広いとのことで、行きみたいに通ることはできないみたいですね」


「まあ、そうだろうな……」


パトリックが頷いた。


「なので、迂回ルートが示されています」


ケイは説明を続けた。黒板には、海岸エリアから内陸へ少し入った場所を通り、川に沿って遡上し、浅瀬になっている場所を渡河するというルートが示されていた。


「川を遡って……渡河か」


パトリックが呟いた。往路とは全く異なるルートだ。しかし、他に通ることができるところはないのだろう。


「そして、このルートでの注意点も書いてあります」


ケイは黒板の端に書かれたメモに視線を移した。そこには、この迂回ルート沿いに出現する可能性のある魔物の情報が記されている。短い単語が並んでいた。


『サハギン、リザードマン』


ケイは声に出してそれを読んだ。


パトリックの表情が、その単語を聞いて少し固まった。


「サハギン……か」


彼は繰り返し呟いた。


「リザードマンは……いけるだろ」


パトリックは推測した。


「ゴブリンみたいに、生き残っていても弱ってるか、あるいは棲処が変わって寄り付かなくなってる可能性もある。もし遭遇しても、数は多くないはずだ」


確かに、陸生のリザードマンであれば、津波や地震の影響を直接受け、弱体化している可能性は高い。以前遭遇した時も、数体であれば対処可能だった。


しかし、パトリックの目が、もう一つの魔物名に向けられた時、その表情に明確な険しさが浮かんだ。


「が、しかし……サハギンか」


パトリックは唸るように言った。


「よりによって、川に……あれが出るとは」


サハギン。半魚人のような姿をした魔物だ。彼らは水中での動きが非常に速く、鋭い爪や槍のような武器で攻撃してくる。さらに、集団で行動することが多く、厄介なのは、彼らの主戦場は「水中」であるということだ。


「サハギンが、ここで出るのは……まずいな」


パトリックが小さく呟いた。彼の言葉には、明確な危機感が含まれている。


重傷の隊長を抱え、物資もほとんどない状況で、水中戦を得意とするサハギンの群れに遭遇すれば……想像するだけで身の毛がよだつ。




「渡河するポイントがここなのは何か理由があるのでしょうか」


ケイは黒板の地図を見ながら言った。


「正直わからん」


メモには、安全地帯からしばらく遡上した後に右手に沼または湖が見える場所付近が指定されていた。


パトリックは無言で頷いた。マルスがこのルートを示したということは、それが唯一の希望であるということだ。


夜明けが近づき、空の色が薄い群青色に変わり始めている。もう、出発の時間は近い。


「行くしかないな」


パトリックが、立ち上がりながら言った。その声には、危険を承知の上での覚悟が宿っている。


ケイも立ち上がり、泥まみれの隊服を払いながら騎士剣を手に取った。体はまだ重く、疲労は抜けていない。サハギンという、新たな、そして厄介な脅威が待ち受けている。しかし、止まっているわけにはいかない。


「はい」


短く返事をし、ケイは前を向いた。進むしかない。




◇◇◇




安全地帯を出て、再び海岸エリアの荒れた地面に足を踏み出した。夜明けの光が、瓦礫や泥に覆われた大地を僅かに照らし始めている。


足元は相変わらず悪く、瓦礫を跨ぎ、泥濘を避けながら進む。


パトリックは隊長を背負い、慎重に後を追ってくる。二人の間には緊張感が張り詰めている。いつ、どこから魔物が現れるか分からない。


しばらく進むと、前方に水の流れる音が聞こえてきた。徐々にその音が大きくなり、視界が開けた先に、目的の川が見えてきた。


川に近づくにつれて、その様子がはっきりと分かった。流れはそれほど早くない。しかし、川幅は予想以上に広く、そして何よりも、そこそこの深さがあることが見て取れた。


浅瀬に見える場所もあるが、隊長を背負ったまま、この川を渡るのはかなり難しそうだ。




「これが……新しい川か。まじで川ができてやがる」


パトリックが呟いた。彼の目も、川の深さや渡河の難しさを捉えている。


「マルスさんの指示通り、この川沿いを遡上するしかありませんね」


ケイは黒板の地図を確認しながら言った。渡河ポイントはもう少し上流だ。


二人は川岸に沿って歩き始めた。川岸の地面も脆く、崩れやすい場所がある。足元に注意しながら、上流を目指す。川のせせらぎが耳に届く。


この水の中に、サハギンが潜んでいるかもしれない。警戒心は緩められない。


周囲の植生は、地震や津波の影響で荒れている。木々は倒れ、地面は剥き出しになっている場所が多い。


川沿いをしばらく遡上していると、前方の倒木と茂みの間から、何かの気配がした。ケイは咄嗟に騎士剣を構える。パトリックも、隊長を守るように身構える。


茂みから現れたのは、一体のリザードマンだった。


相変わらずの二足歩行するトカゲの姿。だが、現れたリザードマンは、どこか様子がおかしい。体には痛々しい傷がいくつもあり、体色はくすんでいる。


以前見たリザードマンと比べて、明らかに痩せている。動きも鈍い。シャムシールのような剣を持っているが、それを構える腕に力が入っていないようだ。


「リザードマンか……」


パトリックが小さく呟いた。


「やはり、弱っているな」


彼の言葉通り、このリザードマンは地震や津波の影響で負傷し、弱体化しているのだろう。


リザードマンはこちらに気づき、低い唸り声を上げた。しかし、その声にも以前のような力強さはない。ふらつきながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる。攻撃する意志はあるようだが、その速度も勢いも鈍い。


「任せてください!」


ケイは短く言い放つと剣を構えた。弱っているとはいえ、魔物だ。そして、これがこの撤退路での最初の魔物との遭遇だ。気を抜くわけにはいかない。


リザードマンは弱々しいシャムシールの斬撃を繰り出してきた。以前なら素早く回避する必要があっただろうが、その動きは遅い。ケイはそれを横にステップして容易に躱す。


そして、間合いを詰め、騎士剣を振り上げた。剣に体重を乗せ、リザードマンの脇腹目掛けて力強く斬り込んだ。


ザシュッ!


以前のような硬い手応えはなく、剣は容易にリザードマンの体に食い込んだ。リザードマンは短い悲鳴を上げて倒れ伏す。もはや動かない。


戦闘は一瞬で終わった。弱体化していたとはいえ、初めて自分一人でリザードマンを仕留めたはずだが、どこか虚しさを感じた。




パトリックが隊長を背負ったまま近づいてくる。リザードマンの死体を一瞥し、頷いた。


「ご苦労だった。やはり弱っていたな」


パトリックの言葉に、ケイは改めて魔物が出現すること、そしてこの先も危険が続くことを認識した。


「サハギンに備えなければなりませんね」


ケイが言うと、パトリックも厳しい表情で頷いた。


「ああ。これからが本番だ」




リザードマンの死体を岩陰に残し、ケイとパトリックは再び川沿いを上流へと歩き始めた。




「……サハギンは、水場での動きが速い」


パトリックが、背後から低い声で言った。会話というより、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


「もし川の途中で遭遇したら、俺たちは不利だ。特に隊長がいる」


ケイは無言で頷いた。それは分かりきったことだ。サハギンは水を得た魚、文字通り水棲の狩人だ。対して、人間である自分たちは、川では動きが制限され、魔力を使った能力も制限されることが多い。隊長を抱えたパトリックに至っては、まともに戦うことすら難しいだろう。


「渡河ポイントまで、水に近づきすぎないように進もう」


パトリックが指示した。川岸から少し距離を取り、倒木や岩を避けながら進む。しかし、川沿いを離れすぎると、今度は道に迷う可能性がある。適度な距離を保ちながらの移動は、神経を使う。


体はまだ重い。眠りにつく前よりはマシになったとはいえ、激しい疲労は全身に残っている。泥まみれの服も重い。喉が渇くが、水はほとんどない。バックパックに残っていた川袋だけでは、とても足りないだろう。食料もない。まさに、極限状態だ。


しかし、弱音を吐いている暇はない。隊長を、パトリックを、そして生き残った仲間を都市へ連れ帰る。その一心で、ケイは足を進めた。


マルスが黒板に記してくれた地図を頭の中で反芻する。安全地帯からしばらく遡上した後に、「右手に沼または湖が見える場所付近」が渡河ポイントの目印だと示されていた。どれくらい進めばその場所に着くのかは分からない。ただ、進むしかない。


川の流れは、場所によって少しずつ速くなったり、深くなったりしているようだ。岸辺の様子も変わる。木々が鬱蒼と茂っている場所もあれば、岩肌がむき出しになっている場所もある。地震や津波が、この川と周囲の地形を大きく変えたのだろう。


「そろそろか……」


パトリックが呟いた。どれくらい進んだのか、ケイには正確な距離は分からないが、パトリックの長年の経験が、おおよその場所を察しているのだろう。


ケイは右手に注意を払った。


そして、開けた場所に出た時、視界の右手に、水面が見えた。


それは、広がりきらない、歪んだ水面だ。川の流れとは繋がっていないように見える。泥と瓦礫の間に、黒く澱んだ水が溜まっている。


「……あれか?」


ケイがパトリックに尋ねた。


「ああ、おそらく」


パトリックも頷いた。地図にあった目印だ。この沼の近くが、渡河ポイントのはずだ。


緊張感が一気に高まる。渡河、それは水に入ることを意味する。そして、水にはサハギンがいる可能性がある。


沼は、どこか不気味な雰囲気をまとっている。水面には藻のようなものが張り付き、瓦礫が突き出している。生命の気配は薄いが、逆にそれが潜んでいる可能性を暗示しているようで、背筋が寒くなる。


ケイは騎士剣を強く握り直した。パトリックも、隊長を背負いながらも、警戒態勢を強めている。


沼の脇を通り、さらに少しだけ川沿いを上流へ進む。黒板の地図では、この辺りに浅瀬があるはずだ。


川幅が少し狭まっている場所が見えてきた。


なるほど、いくらか沼側に水が流れ込んでいることで、ここは流れが他の場所より穏やかだ。水深も、見たところ他の場所よりは浅そうに見える。




ケイが川の様子を慎重に観察していた、その時だった。


異変は、突然訪れた。


川の中央部、水面が、不自然に波立った。


単なる流れによる波ではない。何かが、水面下で急速に動いている気配。


そして、次の瞬間――


ザバァッ!


水面が大きく弾け、複数の黒い影が、一斉に水面から姿を現した。


「……っ!」


ケイは息を呑んだ。パトリックの隣から、短い呻き声が漏れる。


現れたのは、全身を黒くぬるついた鱗に覆われた、半魚人の姿をした魔物たちだ。鋭い爪、魚のような顔、そして手には骨や石で作られたらしき原始的な槍やナイフを持っている。


サハギンだ。


三体。いや、五体……水面から次々と現れる彼らは、あっという間に数が増えていく。岸辺に這い上がってくる者もいれば、水中からこちらを威嚇するように見上げてくる者もいる。


数は、リザードマンの比ではない。そして、彼らは、まさに自分たちが渡河しようとしている、この川の中にいる。


「サハギン……!」


ケイの声が、緊張に震えた。


パトリックは隊長を背負ったまま、一歩後ずさった。その顔には、先ほどまでの懸念が、現実となったことへの焦りと、これから待ち受ける困難への覚悟が浮かんでいる。


「来たか……!」


パトリックが、絞り出すような声で呟いた。


サハギンたちは、獲物を見定めたかのように、独特の、耳障りな鳴き声を上げた。水音と混じり合ったその声は、獲物を追い詰める捕食者の響きだ。


彼らの目は、明らかにケイとパトリック、そして背中の隊長に向けられている。逃がさない、という明確な意志が伝わってくる。


数は増え続け、川の中央から岸辺まで、サハギンの姿で埋め尽くされていくようだ。水中からの素早い動き、集団での連携、そして厄介な状態異常攻撃。物資も少なく、重傷者を抱えた二人にとって、これは最悪の遭遇だった。


サハギンの一体が、手にした槍を構え、ゆっくりとこちらへ向かってくる。他の個体も、ジリジリと間合いを詰めてくる。


退くことはできない。この川を渡らなければ、都市へ帰還する道はない。


騎士剣を構え、ケイはサハギンと対峙した。隣では、パトリックは傍に隊長を寝かせて守るように身構えている。


日の光が、サハギンのぬるついた鱗に反射して、不気味な光を放っている。


生き残るために、戦わなければならない。

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