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1-22

「出発しましょう。変遷まで後二日。時間がありません」


ケイは、隊長を背負う準備をしているパトリックに声をかけた。一刻も早く、この危険な場所から離れなければならない。


出発に備え、ケイは自身の装備の状態を確認した。


ゴブリンキングとの激戦で、隊服はボロボロの防具と化している。泥と血にまみれ、破れている箇所もある。


スレイから借りた騎士剣も、ゴブリンキングの瓦礫の枝を受け止めた際に、生成された刃にひびが入っている。このままでは、今後の魔物との戦闘に耐えられない。


ケイは、『生成』魔法「ファントム」の力を借りて、装備を修復しようと考えた。これは、自身の魔力を使って、対象物の構造を一時的に強化・修復する魔法だ。


ケイがファントムを起動しようとした、その時パトリックがケイを見た。パトリックは何かを思い出したかのように中空を見た。


「少し待て」


パトリックの声が響く。パトリックは、隊長を背負う準備を中断し、自身の内ポケットから一つのバッジを取り出して、ケイの隊服の、騎士団の紋章のすぐ下につける。




パトリックは、バッジをつけながら、そして、意識のない隊長を一瞥しながら、静かに言った。


「少し早いが見習い卒業だ」


パトリックの言葉に、ケイは驚き、バッジに目をやった。それは、見習い騎士を示す銀色のバッジではなく、正式な騎士が持つ、金で縁取られたバッジだった。この極限状況下で、パトリックは、ケイを正式な騎士に昇格させたのだ。


(なぜ……こんな時に……?)


ケイは、内心思う。隊長は瀕死の重傷。自分たちは満身創痍。いつ魔物が襲ってくるか分からない。変遷までの時間も少ない。こんな、絶望的な状況で、なぜ見習い卒業なんて――。


パトリックは、まるでケイの内心を読むように、その問いに答えた。


「こんな時だからこそだ、ケイ」


パトリックの声には、一切の迷いがない。


「迷宮都市の騎士は、生き残らなければ意味がない。そして、生き残った者は、騎士として責務を果たさなければならない」


パトリックは、目の前の現実を突きつける。多くの騎士が失われた今、生き残った者たちが、その穴を埋めなければならない。


「お前は、見習いの身でありながら、一人でこの危険な場所に戻り、ゴブリンキングと戦い、そして俺たちを見つけ出した。これは、騎士としての、最高の働きだ」


パトリックは、ケイの功績を称賛した。それは、形式的なものではない。心からの称賛だった。


「お前は、もう見習いじゃない。正式な騎士だ。これから、騎士として、隊長を、そして生き残った仲間たちを、都市へ連れて帰る責任がある」




パトリックは、ケイに、正式な騎士としての責任を負わせた。それは、重い責任だ。しかし、この状況下で、ケイにしかできない役割がある。


ケイは、パトリックの言葉を聞き、胸に金色のバッジを感じながら、気持ちを引き締めた。本物の騎士。その重みを、全身で感じる。




今度こそ、ファントムを起動する。意識を集中させ、体内の魔力を練る。そして、騎士剣の損傷箇所に魔力を流し込もうとする。


その時、あることに気づいた。


体内に満ちている魔力の感覚が、以前とは明らかに異なっていた。見習い時代には感じたことのない、滑らかで力強い流れ。自分が持っていた魔力の量よりも、少しだけ、しかし確かに増えているように感じられた。あの意識が薄れる中で感じた、温かく、力強い魔力。あれが、自分の中に流れ込んできたのだろうか。


(あれ……!?)


微かな違和感と共に、普段よりも早く、騎士剣の刀身は完全に元に戻った。隊服も、泥や血は残っているが、破れた箇所は修復されている。


パトリックは、隊長を背負う準備を終え、立ち上がった。


「ケイ。準備はできているか?」


「はい」


「行こう」






◇◇◇




隊長を背負ったパトリックと、修復された装備を身につけたケイは、瓦礫の中を注意深く進み始めた。


来た道を戻り、丘の上の野営地を目指す。隊長の容体が気がかりだが、今はただ、前へ進むしかない。


泥濘の中を進み、瓦礫の間を縫うように進んでいく。再び魔物と遭遇する可能性もある。


ケイは騎士剣を構え、周囲を警戒しながらパトリックの先を歩く。パトリックは、重傷の隊長を背負っているため、足取りは慎重だ。


ようやく、丘の斜面に取り付き、登り始める。疲弊した体には応えるが、丘の上までたどり着けば、一旦は安全だ。


そして、ついに丘の上、野営地の跡地までたどり着いた。




しかし――そこに、スレイたちの姿はなかった。焚き火の跡、天幕を張った形跡はあるが、すでに出発しており、誰もいない。静寂が、野営地を包み込んでいる。


(行ったか……)


わずかな落胆がケイの胸をよぎる。しかし、彼らが先に進んだのは当然だ。変遷まで時間がない。自分たちを待っている余裕はなかったのだろう。


生存者の姿がない野営地で、一つだけ、見慣れたものが目に留まった。焚き火の跡のそばに、地面に立てかけられた、マルスの予備の黒板だけが残されていたのだ。


「これは……」


パトリックが呟き、黒板に近づく。ケイもそばに寄る。


そこには、マルスの筆跡で、麓ルートの注意点と、通行できないと思われる場所、そして迂回ルートが、分かりやすく記載されていた。


マルスが、自身たちが山脈ルートで進むことを決めつつも、ケイとパトリックが時間短縮のため麓ルートを使う可能性を考え、わざわざ書き残しておいてくれたのだ。地形の変化、魔物の分布、危険箇所。詳細な情報が、限られたスペースの中に凝縮されている。


マルスのその気遣いに触れ、ケイの目頭が熱くなる。仲間への思い、そして、自分たちを案じてくれていたことへの感謝。


「マルスらしいな」


パトリックが、黒板を見ながら、小さく微笑んだ。そして、その黒板を「ありがたく持っていこう」と言って、手に取った。


黒板を手に取った時、ケイは、その裏面にメモが書かれていることに気づいた。短い文章だ。


「ここに無事ついたら青色の信号弾を上げろ。撤退中でも恐らく見えるので、もし信号弾が上がったなら、安全地帯でギリギリまで待つ」


マルスからの、具体的な指示と、そして約束だった。






「まずは、マルスの指示通りに」


パトリックに促され、ケイは頷いた。指示通り、青色の信号弾を上げなければならない。丘の上に無事に戻ってきたことを、マルスたちに知らせるために。


ケイは、体内に満ちている魔力を意識した。


『生成』『変換』『射出』


心の中で短い詠唱を唱え、魔力を空に向かって放出するイメージで練り上げる。魔力が凝縮され、光を放つ。


パシッ!


短い音と共に、青色の信号弾が空高く打ち上げられた。夜明けの空に、鮮やかな青い光の軌跡が描かれる。その光が、遠くの仲間に届くことを願って。


信号弾を上げた後、二人は固唾を飲んで、マルスたちが進んでいるであろう山の方角を見た。返答の信号弾が上がるのを待つ。緊張の時間が流れる。


しばらくしないうちに、遠くの山の方角、赤みがかかる空に、一つの光が現れた。それは、間違いなく、青い信号弾が上がるのが見えたのだ。小さく、しかし確かに、そこに存在を主張する光。


(マルスさん……皆……!)


自分たちの信号弾を見て、返答してくれた。安堵が、再びケイの胸を満たす。


「よし!」


パトリックが、力強く呟いた。その顔に、かすかな笑みが浮かぶ。


「マルスたちだ。だいぶ進んでいるな」


パトリックはそう言って、青い信号弾が上がった方角を、経験豊かな騎士の目で推測する。あの位置からだと、自分たちが思っていたよりも、強行で進んでいるようだった。


「きっと、すぐ出発したんでしょう」


ケイもうなづいた。変遷までの時間がない。


パトリックは、隊長を背負ったまま、歩き始めた。マルスがルートとして黒板に示した小さな安全地帯を目指して。


ケイも、スレイから託された騎士剣を手に、パトリックの後を追う。



◇◇◇



丘の上の野営地跡から、ケイとパトリックは警戒を強めながら海岸エリアへ向けて斜面を下り始めた。


隊長はパトリックの背で、ぐったりとしたまま微動だにしない。夕暮れは刻一刻と色を深め、空は血のような赤と重苦しい紺色のマーブル模様に染まっていた。


西の地平線にかろうじて太陽の残光が帯を描いている。時間がない。夜になる前に少しでも安全な場所へ移動しなければ。


足元の泥濘が、歩くたびにブーツにまとわりつき、重い。津波が押し寄せた影響は、高台から下りてくるにつれて明白になる。空気は湿気を吸い込み、生臭く、澱んだ匂いが強くなっていた。それは海辺の健全な香りとは全く異なる、不快な腐敗の予感だ。


「……ここまで変わっているとはな」


パトリックが、背中の重荷に耐えながら、疲労のにじむ声で呟いた。


丘を下りきり、平坦になった海岸エリアに足を踏み入れた瞬間、ケイは息を詰めた。数日前の、あの輝くような光景はどこにもない。全てが破壊され、変容している。


かつて青く澄んでいた海は、粘土を溶かしたような茶色に濁り、重々しい波が不気味に打ち寄せている。波打ち際も曖昧になり、泥と瓦礫が入り混じった荒野が広がる。


巨大な木々が、まるで巨人に引き抜かれたかのように、根こそぎ倒れ、幹は折れ、枝は散乱している。津波の猛威が、この場所を徹底的に蹂躙したことを物語る。そこかしこに、家屋の一部だろうか、無数の瓦礫や残骸が散らばっていた。


「……ひどいですね」


ケイは呆然と立ち尽くした。この惨状を見るだけで、麓ルートの過酷さと、山脈ルートを選んだマルスの判断のと出しさを再認識した。


気を引き締め、泥濘の中を進む。隊長を背負うパトリックの負担を少しでも減らすため、ケイは前を歩き、周囲を警戒する。早く、マルスが地図に示してくれた安全地帯へ。




そして、視界が開けた場所に、最初の難所が現れた。


塩田だ。


数日前、眩い白の世界だった天然塩田は、悪夢のような光景に変わっていた。


白い結晶の地面は泥水に溶け、広大なエリアは深い茶色の泥と、津波によって打ち上げられた無数の瓦礫、そして水が引かずにできた大小さまざまな沼地で埋め尽くされていた。木片、岩、瓦礫、魔物の死骸……全てが無秩序に散乱し、歩行を妨げる。


そして、ケイは、その瓦礫と沼地に、おぞましいほど大量に「いる」ものに気づいた。


うごめいている。


それは、無数の盤星だった。


「……盤星……こんなに大量に!?」


ケイは思わず声を上げた。大きさは十数センチからほどしかない、ヒトデ型の魔物。数日前にも撤退時に遭遇した、いや撤退の原因となった魔物だ。その時も多かったが、目の前にいる盤星の数は、その比ではない。泥の上、瓦礫の間、沼地の水面にまで、文字通り「ウジャウジャ」と張り付いている。全身は灰色がかった粘液で覆われ、中心の口らしき部分が鈍い光を放っている。




盤星自体は強力な魔物ではない。動きは鈍いし、物理的な防御力も高くない。騎士剣で容易に両断できるし、強く踏みつければ潰れるほど脆い。


しかし、その「弱さ」以上に、彼らの「厄介さ」をケイは知っていた。


それは、彼らが放つ魔力だ。


「また、……かげろうか!」


ケイは呻いた。


視界が揺らぎ、遠近感が狂う。地面の凹凸や瓦礫の配置が、見た目と違うように感じる。真っ直ぐ歩こうとしても、体が勝手に横に流れるような感覚に襲われ、平衡感覚までおかしくなる。


もはや、透明なゼリーの中を進んでいるかのようだ。


「厄介な奴らだ」


パトリックは唾を吐いた。


「迂回は無理だろうな。この数だと、ステルスも不可能に近いか……」


「パトリックさん。盤星は踏み潰せば……」


言いかけたところで気づいた。パトリックは隊長を背負っている。


この状態で踏み潰すのは容易ではない。


「俺のことは気にすんな。このくらい何とかできる」


「それより方向感覚を狂わされるのが、よっぽどやばい」


パトリックは一旦言葉を切り、西の空に残る夕影に目をやった。空はますます暗くなり始めている。


「だが、完全に方角を見失うわけじゃない。完全に夜になる前に、影を頼りに進むんだ」


「影……ですか?」


ケイはパトリックの言葉の意味を考える。盤星の魔力は空間を歪ませるが、太陽の位置、そしてそれが作る影は、完全に消し去ることはできない。


確かに、注意深く見れば、大まかな方角を知る手がかりになる。


「ああ。この時間だと影は薄いが、まだ道標にはなる。それを頼りに、大まかな進行方向を定める」


パトリックは、覚悟を決めた目でケイを見た。


「沼地だけを避けて進路を取れるか?」


「やります!」


ケイは力強く頷いた。


「頼んだぞ、ケイ。お前は前へ進むことだけに集中しろ。方角の感覚がずれていたら指摘する」


「了解」


ケイは一歩を踏み出した。足元は泥濘み、靴底が沈む。そして、目の前にいた盤星に、意を決して足を振り下ろした。


ブチュッ!


不快な音と共に、盤星の体が簡単に潰れる感触。粘液がブーツに飛び散る。周囲の盤星が、その刺激に反応して触手をワサワサと動かし始める。


ケイは構わず、西の空に残る夕影と、マルスの黒板に示されたルートを頭の中で重ね合わせながら、足を進める。


空間の歪みが、視界を揺らし、平衡感覚を狂わせようとする。地面の傾斜や瓦礫の形状が、実際と違って感じられる。平衡を失いそうになる度に、意識的に夕影の位置を確認し、進路を修正する。


右へ寄り、左へ踏み出し、瓦礫の低いところを選んで乗り越える。深い沼地は足を取られるので避ける。そして、進路を塞ぐ盤星は、容赦なく踏み潰していく。ブチュ、ブチュ、と連続する音。粘液が隊服を汚していく。


「ケイ!もう少し右だ!」


パトリックの声が、歪んだ空間を貫いて届く。彼は重傷の隊長を背負いながらも、冷静に方角を指示してくれている。


ケイはパトリックの指示に従い、軌道を修正する。空間の歪みに惑わされそうになる度に、パトリックの声を頼りにする。そして、西の空の僅かな夕影を、道標として見つめる。


パトリックの足音も、重いながらも粘り強くケイの後を追ってくる。隊長を背負い、この瓦礫と沼地、空間の歪みの中を進む彼の疲労は、想像を絶するだろう。


「パトリックさん。あと少しです!」


ケイが、かすれた声で叫んだ。


ケイは最後の力を振り絞り、さらに数体の盤星を踏み潰し、瓦礫の低い部分を駆け上がる。視界の先が、僅かに乾いているように見えた。


泥と盤星の密集地帯を抜け出し、盤星の姿が見えない、少し高くなった岩場にたどり着いた。


「つきました」


「ぐああああ」


ゆっくりと隊長を下ろすと、パトリックは岩の上で大の字に転がった。





岩の上に倒れ込む寸前で耐え、ケイは荒い息を吐き出した。全身が泥と粘液で汚れ、感覚がないかのようだ。


パトリックの体も泥まみれで、肩が激しく上下している。


全身が泥と盤星の粘液にまみれ、まるで第二の皮膚のように張り付いている。滝のように流れ出ていた汗は、岩場に吹き付ける夕闇の風に晒されて、急速に体温を奪っていく。


「はあっ、はあっ……さむっ……」


それはケイの声か、パトリックの声か。


激しい疲労と対照的に、急速に体が冷えていくのを感じた。


泥まみれの隊服が、濡れた布のように肌に貼りつき、震えが来る。パトリックも、横たえた隊長の傍らで荒い息を吐きながら、肩を震わせている。


足元を見ると、ついこの前見た、白いフサフサとした結晶が岩の隙間から生えているのが見えた。


しかし、前に休息した安全地帯のように、大きめの結晶がふわふわと宙に浮いているような不思議な光景はない。




ここはあくまで、魔物が近づかないだけの、簡素な安全地帯なのだろう。それでも、盤星が蠢くあの泥濘から逃れられたことだけで、今は十分だった。


ケイは震える体に鞭打ち、背負っていたバックパックを下ろした。水を入れておくための革袋と毛布しか残っていない。


「何か、温まるものはないか……」


パトリックが呟いた。だが、それは期待というより、絶望の中での独り言に近い響きだった。


泥水に濡れていないことを祈りながら取り出すと、幸いなことに内側は無事だった。


(そういえば、隊長は一応水に入るかもしれないからと、防水の袋と何枚かの毛布を入れておくように言ったんだっけ)


ケイは塩田への下見時にマルスが不要と言った、水用の装備に関して、隊長が後から耳打ちでケイに毛布と防水袋だけ準備しておけと言ったことを思い出した。



ケイは隊長の方を少し見てから、言った。


「パトリックさん、毛布ありますよ。」


「毛布……!よく残っていたな!」


パトリックの声に、僅かに希望の色が宿った。ケイは毛布を広げ、まずは意識のない隊長に被せた。少しでも体温を保ってほしい。


(ありがとうございます。隊長)


ほんの少し隊長の顔色が良くなった気がした。次に、もう一枚の毛布を取り出し、パトリックに渡そうとした。


「いや、俺はいい。」


パトリックはそう言ったが、ケイは構わず、半分をパトリックに押し付け、残りの半分を自分に被せた。二人で一つの毛布にくるまる形だ。それでも、濡れた服の上からでは、気休め程度にしかならないが、冷たい風を遮るだけでもありがたい。


毛布にくるまり、少しだけ体が落ち着いた時、パトリックがぽつりと口を開いた。


「すまない、ケイ」


ケイはパトリックを見た。泥まみれの顔は、疲労困憊だ。


「剣以外、全部置いてくるしか……もっと……」


パトリックの言葉に、撤退の過酷さが改めて現実味を帯びる。物資がないということは、今後の撤退がさらに困難になることを意味していた。


「いえ、とんでもないです」


ケイはパトリックの言葉を遮った。


「パトリックさんも、隊長も、無事だった。それだけで十分です」


ケイの言葉に偽りはなかった。重傷の隊長を背負いながら、ここまでたどり着いた。それ以上の幸運があるだろうか。


「命があれば、どうにでもなります」


強く言い切ると、パトリックはケイの顔をじっと見た。そして、力なく、しかし確かな感謝の色を宿した目で頷いた。


「そうだな……」


沈黙が流れる。聞こえるのは、二人の荒い息遣いと、遠くで微かに聞こえる海の音だけだ。夜が更けるにつれて、周囲は闇に閉ざされていく。視界はほとんどなくなり、僅かに西の空に残る夕暮れの残光だけが、かろうじて方角を教えてくれる。


パトリックは、横たわる隊長の顔を一瞥し、静かに言った。


「このまま夜通し進むのは無理がある。ここで夜明けまで休もう」


ケイも頷いた。これ以上の強行は、全員にとってリスクが高い。疲労困憊の体では、次の危険に対処できないだろう。


「ここは安全地帯だ」


パトリックが続けた。


「魔物は近づいてこない。……見張りは要らない。夜通し休めば……魔力も少しは回復するだろう」


パトリックが言った。


「そうすれば、俺も少しは戦力になるぜ。」


マルスの黒板には次の難所として、寸断された川と魔物が記載されていたはずだ。ここでパトリックが戦力として加わるのは心強い。


「はい」


ケイは短い返事をした。ゆっくりと、意識が闇に沈んでいく。夜の見張りは、必要ない。その安堵感に身を委ねて、ケイは重い瞼を閉じた。


すぐ横でパトリックの寝息が聞こえた。


【安全地帯】

安全地帯とは、迷宮内部に点在する、魔物の脅威から保護された特殊な領域である。探索者にとっては、休息、物資の確保、そして作戦の再検討を行うための重要な拠点として機能する。


この領域の最も顕著な特徴は、その中心に位置するコアの力によって、魔物の誘引が抑制される空間が形成される点にある。また、安全地帯のコアは、「水」や「塩」といった生活必需品や、一部の植物を生成する能力を有しており、これは長期間にわたる迷宮探索において不可欠な要素である。魔物が跋扈する迷宮の一般的な法則に反し、魔物が寄り付かないという特性から、安全地帯は迷宮内における「異質な空間」として認識されている。


安全地帯は大きく分けて二種類が存在する。一つは、エリア間の接続部に位置する大規模なもので、接続領域とも称される。もう一つは、ダンジョン内部のエリアに存在する小規模なもので、結界領域と呼ばれる。

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