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夜間警戒は、予想以上に厳しいものだった。地震と津波の混乱から立ち直った魔物たちが、丘を登ってこようとするのだ。
幸い、津波に洗われた場所から登ってくるゴブリンなどは、昼間に遭遇したゴブリンたちと同様に弱っており、数もそれほど多くはなかった。
しかし、夜を通して、魔物の襲撃はあれから何回もあり、その度にスレイとケイは連携してそれを阻止しなければならなかった。
体力の消耗は激しく、疲労の色がケイとマルスの顔に刻まれている。夜闇に紛れて襲いかかってくる魔物への緊張感も、精神的な疲労を加速させた。
長い夜が明け始めた。東の空が白々と明るくなり、夜闇がゆっくりと退いていく。
太陽の光が迷宮を照らし始める。
生き残った生存者たちが、ゆっくりと目を覚ます。皆、顔に疲労の色を浮かべているものの、顔色はかなりマシになっている。
夜明けの空の下、生存者たちは静かに朝食を摂る準備を始めた。
残り少ない携帯食料を前に、重い沈黙が流れる。皆、無言で食料を受け取り、ゆっくりと、そしてどこか名残惜しそうに口に運ぶ。
少しずつ、慎重に。一人当たりの量が限られていることを、皆が理解している。食料の限界が、生存者たちの置かれている厳しい状況を改めて突きつける。
そんな中、マルスが今後のルートについて説明を始めた。
夜明け直後から、高台から周囲の地形を観察し、山脈ルートと麓ルートの状況を検討していたのだろう。
「皆さん、聞いてください」
マルスが、土埃に塗れた黒板を手に、皆に向き直った。その声には、まだ疲労の色が滲んでいた。
「ここから見えるだけの周囲の地形を確認した結果、都市へ帰還するための二つの高台ルートの状況がある程度判明しました。」
マルスは、黒板に簡単な地図のようなものを描きながら説明する。
「結論から言うと、山脈ルートを使うことになります」
スレイがマルスの隣で、厳しい表情でその説明を聞いている。ケイも、他の隊員たちと共に、マルスの言葉に耳を傾ける。
「山脈ルートは、仮に寸断されていても、比較的迂回が効きます。地形的な融通は、大きいと考えます。」
山の中で道が塞がれても、迂回路を見つけられる可能性があるというのだ。
「今後の道のりで確実に水場を確保できる可能性も考慮すると、山脈ルートの方が遠回りですけど、安全に移動できると考えました」
確かに、山の中なら、沢や湧き水を見つけられる可能性がある。津波に洗われた麓ルートでは、真水を確保するのが難しいかもしれない。
「一方で、土砂崩れなど、何らかの理由で山脈ルートが使えなくなった時用に、麓ルートについても説明しておきます」
マルスは、代替ルートの重要性を強調した。
「麓ルートは、山脈ルートと比べて距離は短いのですが、地形の破壊が深刻です。迂回ルートがない為、ぬかるみを歩かなければなりません」
マルスは、黒板にそれぞれのルートの具体的な特徴(進むべき方向、目印となりそうな地形など)を詳細に書き込み、説明した。皆、真剣な表情でその説明を聞き、頭に叩き込む。
「一応、万が一私が動けなくなった時のため、簡易な地図を作っておきました。人数分あるので、全員お守りとして持っておいてください」
土埃に塗れた手で、マルスは一枚一枚、簡易地図を隊員たちに手渡した。誰一人、汚れた紙切れを雑に扱うものはいなかった。
スレイは、マルスが全員に配り終えたのを見て、ゆっくりと頷いた。
「マルス殿、ご準備感謝する。他に意見がなければ、しゅっぱ……」
「スレイ様、すみません」
横から口を挟んだのは、騎士ではない、二人の戦闘員のうちの一人だった。
彼の名前はギレー。騎士のように魔法を使うことはできないが、長年の経験を持つ平民の戦闘員だ。彼は、マルスのルート説明を聞きながら、周囲の警戒にあたっていた。
「どうした、ギレー?」
スレイが尋ねる。
ギレーは、丘の下、遺跡の奥地の方角を指差した。
「あちらの方角に……煙が見えます」
ギレーの言葉に、全員がそちらを見た。津波に洗われた遺跡の奥のやや山側、瓦礫の山の上空に、微かだが確かに、黒い煙が立ち上っているのが見える。
「煙……火事か?」
誰かが呟く。しかし、津波の後だ。自然発生的な火事が起こるとは考えにくい。
煙は、ゆっくりと、しかし途切れずに立ち上っている。それは、まるで――。
(狼煙……!)
ケイは、直感的にそう思った。朝、他の隊との連絡手段として、狼煙を使うことを確認していた。もし、他の生存者がいるとしたら、このような状況で、自分たちの存在を知らせるために狼煙を上げる可能性がある。
ケイの心臓が、希望に震える。もし、あの狼煙が、誰かからの信号だとしたら。そして、それが、もし――。
「あれ……隊長とパトリックさんじゃないですか!?」
ケイは、思わず叫んだ。根拠はない。しかし、そうであってほしいという強い願いが、ケイにそう叫ばせたのだ。
あの激戦を乗り越え、津波からも逃れ、生き残った。そして、この高台にいる自分たちの存在を示す信号弾を見て、彼らが狼煙を上げたのではないか。
スレイは、ギレーが発見した狼煙と、ケイの叫びを聞き、厳しい表情になった。可能性はある。しかし、安易な希望は、更なる危険を招く。
「確認する」
スレイはそう言って、信号弾を魔法で生成した。青色の信号弾。これは、味方に向けて、自分たちの存在を知らせ、あるいは安否を確認する際に使う色だ。
パシッ!
短い音と共に、青色の信号弾が空高く打ち上げられた。
夜明けの空に、青い光の軌跡が描かれる。もし、あの狼煙が隊長やパトリックが上げたものなら、この青い信号弾に気づき、返答の信号弾を上げてくれるはずだ。
皆が、固唾を飲んで、狼煙が上がっている方角を見た。返答の信号弾が上がるのを待つ。しかし、数秒経っても、十数秒経っても、空に新たな光は現れなかった。
狼煙の煙は、相変わらず弱々しく立ち上っているだけだ。
「……返答がないな」
スレイが、低い声で呟いた。そして、再び狼煙が上がっている方角を見る。煙は上がっているが、火の勢いは弱々しい。まるで、燃え尽きかけているかのようだ。
「火も弱々しい……ただの火事と推定する」
スレイは、現実的な判断を下した。津波の後だ。どこかで瓦礫が燃え始めたのかもしれない。生存者が上げた狼煙にしては、あまりにも弱々しい。
しかし、ケイは諦められなかった。隊長とパトリック。あの二人が、あの激戦と津波を乗り越えて生き残った可能性がある。ここで見捨てるわけにはいかない。
「違います! あれは火事じゃない!」
ケイは、スレイの判断に反論した。
「津波の後ですよ!? あんな大きな波が来たんです! どこもかしこも濡れているはずです! こんな湿度が高い中で、自然発生的な火事が起きるなんて、考えられません!」
地震後の混乱、津波による浸水。自然に火の手が上がる状況ではない。
「あれは……あれは誰かが意図的に上げた火です! 狼煙である可能性が高い!」
ケイは、狼煙であると強く主張した。そして、それが隊長かパトリックが上げたものだという確信めいた思いを口にする。
「スレイさん……助けに行きましょう! きっと、隊長かパトリックさんです!」
ケイは、スレイに訴えた。彼らは、自分たちを逃がすために時間を稼いでくれた。ここで彼らを見捨てるなど、できない。
しかし、マルスが、ケイの訴えを聞きながら、無言で首を振った。その表情は、悲しみと、そして助けに戻ることへの反対を示している。
他の生存者たちも、同様の表情でケイを見ている。疲労困憊の彼らに、助けに戻る余力はない。そして、それは、自分たちの生存率を著しく低下させる行為だ。
マルスの、そして皆の反応に、ケイの心に痛みが走る。助けに戻るのが危険なことは分かっている。しかし――。
「……どうして、そんな顔をするんですか……!」
ケイは、悲しみと怒りが入り混じった感情で訴えた。
「隊長とパトリックさんが……俺たちを逃がすために、魔物の時間を稼いでくれたから……俺たちは逃げられたんですよ……」
あの絶望的な状況。ボスが出現し、ゴブリンソルジャーに追い詰められた状況で、隊長とパトリックは殿を務めてくれたのだ。彼らが時間を稼いでくれたおかげで、自分たちはこの高台まで逃げられた。
「恩を……恩を仇で返すんですか……!?」
ケイの言葉は、感情的だった。しかし、その言葉には、失いたくない仲間への思い、そして恩義を感じる相手を見捨てられないという、騎士としての、人間としての、純粋な感情が込められていた。
スレイは、ケイの感情的な訴えを、静かに聞いていた。その目は、苦渋に満ちている。彼もまた、隊長やパトリックを見捨てたくない。
しかし、リーダーとして、生き残った七名の命を最優先しなければならない。
「ケイ殿……気持ちは分かる」
スレイが、ゆっくりと口を開いた。その声は、深く沈んでいる。
「彼らが……我々を逃がすために時間を稼いでくれたことは、忘れない。その恩は、いつか必ず報いたい」
スレイはそう言った。しかし、その後に続く言葉は、厳しい現実を突きつけるものだった。
「だが……今は、感情に流されている時ではない」
スレイの視線が、負傷した隊員たち、そして疲弊した戦闘員たちに向けられる。
「我々は、多くの仲間を失った。生き残ったのは、この七名だけだ。負傷者もいる。食料も残り少ない」
スレイは、置かれている状況を改めて確認させた。
「あの狼煙が、仮に隊長かパトリック殿が上げたものだとしても……そこに助けに戻ることは、我々自身の生存率を著しく低下させる行為だ」
スレイは、助けに戻ることのリスクを説明する。未知の状況、魔物の脅威。そして、彼らが無事である保証もない。
「それに……変遷まで時間がない。一刻も早く都市へ帰還しなければ、我々自身も迷宮に呑み込まれてしまう」
スレイは、非情とも思える判断を下す。
「……我々が、生き残ることが……優先だ」
スレイは、最後にそう締めくくった。リーダーとしての苦渋の決断。多くの命が失われた中で、残された命を守るために、彼は非情にならざるを得なかったのだ。
ケイは、スレイの言葉を聞き、現実の厳しさを突きつけられた。助けに行きたい。しかし、助けに戻れば、今生き残っている仲間たちの命まで危険に晒してしまうかもしれない。それは、隊長やパトリックも望まないことだろう。
葛藤が、ケイの心を締め付ける。恩義と、現実。感情と、理性。
(僕だけでも、助けに行こう。行って後悔するならそれでいい。)
ケイは、スレイに向き直った。夜明けの光が、彼の疲労と決意の表情を照らしている。
「スレイさん」
ケイの声に、スレイが視線を向ける。マルスや他の生存者たちも、ケイに注目している。
「僕が……僕が行きます」
ケイは、震えそうになる声に力を込めて言った。一人で、あの狼煙が上がっている場所へ向かう、と。
ケイの言葉を聞いた瞬間、スレイの表情が強張った。その温厚な口調が、一気に荒げられる。
「何を言っている、ケイ殿!? ダメだ!」
スレイが、怒りを露わに叫んだ。
「単独で、あの危険な場所へ戻るなど、正気の沙汰ではない! 死にに行くようなものだ!」
スレイは、ケイの安易な考えを否定する。彼は、リーダーとして、ここにいる七名の命全てに責任を持っているのだ。
「私は……私はここにいる七人を、全員無事に都市へ連れて帰る義務がある!」
スレイは、自身の義務と責任を主張した。チームの一員であるケイを、危険な単独行動に行かせるわけにはいかない。
「でも……!」
ケイは、スレイの強い反対に怯みそうになるが、決意を撤回するわけにはいかない。
「単独で行けば、リスクは低いんです!」
ケイは、自身が行くことの妥当性を訴えた。
「昨日の戦闘の通り、あのあたりの魔物は津波や地震の影響で弱っています! スレイさん一人でも、ギレーさんや他の戦闘員と連携すれば、最低限の牽制は十分対応できる強さです!」
昨夜の魔物哨戒で確認した、弱ったゴブリンたちの様子を根拠に挙げる。彼らなら、スレイと戦闘員たちで対処できるはずだ。
「それに、僕は魔法が使えるから、信号弾のやり取りもできます!」
ケイは、自身の魔法の能力が、単独での偵察や救助活動に適していることをアピールした。遠距離での連絡、そしてもし魔物に遭遇しても、魔法で対処できる可能性がある。
「ダメだと言っているだろう!」
スレイが、さらに声を荒げる。その目には、ケイを行かせまいとする強い意志が宿っている。
「君は、このチームにとって必要な戦力だ! 負傷者もいる中で、君のような魔法を使える騎士を一人失うわけにはいかない!」
スレイは、チームの現状を指摘し、ケイの存在がいかに重要であるかを訴える。
「しかし、あの狼煙が……隊長かパトリックさんだったら……!」
ケイは、諦めずに訴える。恩義、仲間への思い。それが、ケイを突き動かしている。
「感情に流されるなと言ったはずだ、ケイ殿!」
スレイは、冷静さを保とうとするが、その声には焦りが滲んでいる。
「彼らが無事である保証はない! もし、彼らがすでに……、あるいは、あの狼煙が魔物の罠だったらどうする!? 君まで無駄死にする気か!?」
スレイは、助けに戻ることの危険性を改めて強調する。無事な生存者がいる可能性は低い。そして、罠である可能性も否定できない。
「それは……でも……!」
ケイとスレイの間で、激しい言い争いが繰り広げられる。
助けに行くべきか、行かないべきか。一人で行くことの是非。恩義と、現実的な生存戦略。お互いの主張がぶつかり合い、声が高くなる。マルスや他の生存者たちは、不安と困惑の表情で、二人の言い争いを見守っている。止めたい気持ちはあるだろうが、口を挟めない。リーダーであるスレイと、命の恩人であるケイ。どちらの言葉も、彼らにとっては重い。
スレイは、ケイの頑なな決意と、その訴えに込められた強い思いを感じ取っていた。そして、彼自身の心の中にも、隊長やパトリックを見捨てたくないという葛藤がある。しかし、リーダーとして、残された命を守る義務がある。
言い争いが続く中で、スレイの目に、ある諦めのようなものが宿った。そして、ケイの目から、決して揺らぐことのない強い意志を見た。もしかしたら、彼らを救えるのは、ケイしかいないのかもしれない。その能力、そしてあの強すぎるほどの正義感。
スレイは、ゆっくりと息を吐き出した。そして、その目に宿っていた怒りが消え、深い悲しみと、決意の色に変わる。
「……分かった」
スレイが、静かに言った。その声には、全ての感情を削ぎ落としたかのような、重さがある。
「……行くなら……勝手に行け……!」
スレイは、突き放すような言葉を言い切った。
そして、懐に手を入れ一つの物を取り出した。それは、地震による建物の倒壊からずっと彼が常に身につけていた、スレイの弟、ラグの形見である騎士剣だった。
スレイは、剣を見つめる。そして、その剣をケイに投げ渡した。
ケイは、スレイから投げ渡された弟の騎士剣を、両手で受け取った。
ずっしりとした重みが手に伝わる。それは、単なる武器ではない。
「行け……。死ぬことは許さん。」
ケイは、スレイを見上げた。スレイの表情は、読み取れない。ただ、その目に、深い悲しみと、覚悟が宿っているのが分かった。




