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「ラグが……ラグがぁ……!」


騎士の悲痛な叫びが、崩壊した遺跡地帯に響き渡る。瓦礫の下から流れ出す赤黒い液体が、弟の死を痛ましく物語っていた。悲しみに打ちひしがれる騎士。その姿に、ケイの胸も締め付けられる。


しかし、今は立ち止まっている時間はない。デジャブの正体に気づいたことで、ケイはこの場所がどれほど危険かを理解していた。


「津波が来る」


ケイは、半ば無意識に、しかし強い確信を持って叫んだ。


マルスが、悲しみに暮れる騎士に寄り添おうとしていた手を止め、ケイの方を見た。


「……逃げなきゃ」


ケイの顔は蒼白していた。


「えっ?」


マルスがケイの言葉を聞き返した。


「マルスさん、一刻も早くここから離れる必要があります」


「何を言っているのですかケイさん!状況を考えてください」


ケイはマルスの肩を掴み、マルスの目をじっと見ながら主張した。しかし、マルスもスレイの心象を思い、後輩を叱りつけた。


「違うんです」


「何を言っているのですか!?」


地震の後でマルス自身も動揺していたが、現状魔物の脅威が取り除かれたので、遺体や遺品の一部でも持って帰ることはできるはずだ。


「もちろん逃げるなとは言いません。しかしスレイ様の……」


(どうすれば…どう言えば、この世界の彼らに『津波』を伝えられる?)


こうしているうちにも、状況は刻一刻と変わっている。


「……聞いているんですか?ケイさん?そもそも、逃げるにしても、ここまで来ていたら少し猶予はあってですね。動揺しているからこそ、迷宮探査のセオリーに従って動く必要があります。ここから安全地帯まではおよそ__」


「マルスさん! 安全地帯じゃありません!」


ケイは、マルスの言葉を遮るように叫んだ。その丸眼鏡の奥の瞳に、驚きと困惑の色が浮かんでいる。他の隊員たちも、ケイの突然の叫びに戸惑っている。


「撤退先を、俺たちが寝泊まりしていたあの石柱へ向かってください!」


唐突な指示に、マルスは混乱した様子で尋ね返した。


「なぜですか、ケイ!? 安全地帯でなければ、魔物から身を守れません」


マルスの言うことは正しい。迷宮の安全地帯は、魔物を寄せ付けない特殊な領域だ。しかし、そして海岸近くで発生した地震のあとから来るであろう「津波」からは、安全地帯は身を守ってくれない。


「説明している時間はありません!」


ケイは、切迫した声で叫んだ。迫りくる危険を言葉にするのは難しい。異世界での地震や津波。この世界の人間には、ピンとこない概念だろう。


「魔物の脅威があるからこそ、安全地帯に行くべきです!」


マルスが、自身の判断の正しさを主張する。彼の頭の中には、魔物から身を守るための最善策しかない。


その時、弟の死に打ちひしがれていた騎士が、ゆっくりと立ち上がった。顔には涙の跡が生々しいが、その目に騎士としての意志の光が戻っている。彼はケイの切迫した表情と、マルスの困惑した顔を交互に見た。そして、迷うことなく、ケイの方を向いた。


「彼の指示に従おう」


騎士は、他の隊員たちに呼びかけた。その声には、悲しみの中でも失われない、騎士としての判断力と、仲間を率いる覚悟が宿っている。地震の混乱の中、一人だけ動けたケイ。その異常なまでの冷静さと、的確な判断力を、騎士は見ていたのだろう。


マルスは、騎士の言葉を聞き、少し考え込んだ。丸眼鏡の奥の瞳が揺れる。彼の地図士としての知識、迷宮の常識。そして、目の前の騎士と、切迫した表情のケイ。


やがて、マルスは小さく頷いた。言葉はなかったが、了承したことが分かる。彼の冷静な判断が、ケイの言葉に賭けることを選んだのだ。


マルスは、再び手元の黒板を取り出し、石柱のある方向を確認した。そして、迷いのない動作で、進むべき方向を指し示した。


「あの方向だ。急ぐぞ」


「よし。総員急げ」


騎士が号令をかける。撤退隊列は、安全地帯ではなく、あの巨大な石柱が立つ丘を目指して、再び移動を開始する。


移動を開始する直前、ケイは、騎士に声をかけた。


「すみません。黄色い信号弾を! 石柱の方向に飛ばしてください!」


ケイの言葉に、騎士は一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐにその意図を理解した。


「殿の二人に、俺たちの撤退先が変わったことを知らせるためか!」


騎士は頷き、魔力を練り始めた。ケイと異なり慣れた手つきで、黄色い信号弾を飛ばした。


パシッ!


短い音と共に、黄色い信号弾が空高く打ち上げられた。それは、崩壊した遺跡地帯の上空に、一筋の光の軌跡を描く。隊長とパトリックは、この信号弾に気づいてくれるだろうか。


「急げ! 津波が来るぞ!」


ケイは叫び、マルスや他の隊員たちと共に走り始めた。廃墟の中を、瓦礫を避けながら、必死に石柱のある高台を目指す。


後ろから、微かな音が聞こえるような気がした。地面を這うような、不気味な音。そして、空気中に、湿ったような、塩っぽいような匂いが混じり始める。


(来る……!)


負傷者を抱え、崩壊した廃墟の中を走る。足元は不安定で、いつ瓦礫につまずくか分からない。周囲には、まだ魔物が潜んでいる可能性もある。多重の危険が、彼らに迫っている。


「クソッ、速く! もっと速く!」


ケイが叫ぶ。負傷者を担ぐ戦闘員たちの顔が苦痛に歪む。皆、限界に近い。


しかし、立ち止まることはできない。石柱のある高台へ。津波から逃れるために、一刻も早くあの場所へたどり着かなければ。


後ろから、水の轟音が聞こえる気がする。




必死に走る。ただ前へ。石柱のある高台へ。そこだけが、この津波から逃れることができる場所だ。


どれくらい走っただろうか。時間感覚が麻痺してくる。肺が焼け付くように痛み、足の筋肉が悲鳴を上げている。それでも、止まるわけにはいかない。


ふと、前方に開けた空間が見えた。そして、その向こうに、見慣れたシルエット。


(あの丘だ……!)


目的の丘が見えた。そして、その中腹に立つ、巨大な石柱の姿も。希望の光が、ケイの目に飛び込んできた。あと少し、あと少しだけ――。


しかし、丘が見え始めたと同時に、背後から、それまでとは比べ物にならない「轟音」が聞こえ始めた。それは、全てを呑み込むかのような、圧倒的な水の音だった。


ドォオオオオオオオオオオオッ!


轟音に、マルスが思わず振り返って顔を上げた。そして、その目で見た光景に、目を丸くしている。驚愕、恐怖、そして絶望。その全てが、マルスの表情に浮かび上がっていた。彼が地図士として知っている迷宮の常識を、完全に覆す光景だったのだろう。


マルスはすぐに前を向き直し、隊列に急ぐよう促す。皆、後ろからの轟音に気づき、顔色をさらに悪くしている。


ようやく、丘の斜面に取り付いた。ここからが高台への最後の登りだ。必死に足を動かし、斜面を駆け上がる。足元は不安定で滑りやすい。


丘を登り始めた途端だった。


廃墟の陰、あるいは地震の混乱から立ち直ってきたのか、複数の緑色の影が、丘の斜面から飛び出してきた。


「グギャッ! グギャッ!」


ゴブリンだ。最後の最後で、魔物が襲いかかってきた。撤退を阻止しようとするかのように、丘を登る隊列に襲いかかる。


「くそっ!」


皆、疲労困憊だ。立ち止まって応戦することはできない。逃げながら、あるいはゴブリンの攻撃を避けながら進むしかない。


ゴブリンたちは、負傷者を抱えている戦闘員たちに狙いを定めているようだ。動きが遅い負傷者を狙えば、簡単に獲物にありつけるとでも思ったのだろう。


一匹のゴブリンが、負傷者を担いでいる戦闘員に取り憑こうと、その背中に飛びかかろうとした。


(させない!)


ケイは、奪った剣を構え、そのゴブリンに向かって駆け寄った。剣を横薙ぎに振るい、ゴブリンを殴り飛ばす。


ドォン!


ゴブリンは悲鳴を上げて吹き飛んだ。もう一匹、別の負傷者に迫ろうとするゴブリンがいる。ケイはそちらへ向かい、剣で追い払う。


ゴブリンを追い払うことに徹し、深追いはしない。一体ずつ確実に無力化するのではなく、とにかく負傷者から遠ざける。そして、自分自身も立ち止まらず、石柱を目指して丘を駆け上がる。


「ヴァアアアアアッ!」


後ろから、ボスの咆哮が聞こえた。


一瞬隊長とパトリックのことが脳をよぎったが、振り払い、必死に丘を登り続ける。足は鉛のように重く、肺は張り裂けそうだ。周囲の音は、もはや水の轟音と、自身の荒い息遣いしか聞こえない。


そして、ようやく――。


(ここまでこれば……!)


巨大な石柱が、目の前に立ちはだかる。その根元、少し開けた場所へたどり着いた。


「ここまでこれば大丈夫でしょう……!」


言い終わると同時に、ケイはその場に崩れ落ちた。もう、一歩も動けない。


ケイの言葉を聞いた、前を走る隊員達も次々に倒れこんだ。


震える体で、ケイはなんとか顔を上げ、丘の下、遺跡地帯の方向を見た。他の隊員たちも、同じように丘の下を見ている。


そして、その目に飛び込んできた光景に、皆、言葉を失った。


遺跡全体が――あの広大な廃村のような場所が――巨大な「津波に襲われていた」のだ。


濁った茶色い水の壁が、轟音と共に遺跡を呑み込んでいく。土に埋もれた建物の残骸、崩れた壁、瓦礫の山。全てが水の勢いに流され、押し潰されていく。


何もかもが無慈悲な水の力によって洗い流されていく。


濁った水の壁が、一棟の廃墟に叩きつけられる。壁が内側に砕け散り、その勢いが隣の建物を根元から引き剥がす。瓦礫が、濁流に乗って次の瓦礫を押し流し、破壊の連鎖が遺跡全体へと広がっていく。


やがて津波は、遺跡を完全に呑み込み、採掘作業をしていた窪地も、隊長たちが戦っていた場所も、全てが水の下に沈んでいった。


信じられない光景だった。


丘の上にいる彼らだけが、九死に一生を得たのだ。


皆、その場に倒れ込んだまま、言葉もなく、目の前の破壊の光景を見つめていた。




どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく、荒かった呼吸が落ち着きを取り戻し、心臓の鼓動も穏やかになってくる。ゆっくりと、全身から力が抜けていくのを感じる。それは、極限の緊張から解放されたことによる安堵感だった。


皆、徐々に体を起こし始める。互いの顔を見て、無事であることを確認する。顔は土埃と汗と血で汚れ、服は破れている者もいるが、生きている。


その中で、一人、ゆっくりと立ち上がった人物がいた。弟を失った、あの騎士だ。顔にはまだ悲しみの色が残っているが、その目はしっかりと前を見据えている。騎士としての矜持が、彼を立たせているのだろう。


騎士は、足元がおぼつかないながらも、ケイの方へ歩み寄ってきた。ケイはまだ、完全に立ち上がることができず、地面に座り込んでいる。


「……助かった」


騎士が、ケイの目の前に立ち止まり、低い声で言った。その声には、疲労と、そして深い感謝の響きが込められている。


「君のおかげだ」


騎士はそう言って、泥と血に汚れたケイの肩に、そっと手を置いた。


ケイは、騎士の言葉に、込み上げてくる何かを感じた。恐怖、安堵、そして、わずかな達成感。


「……信じていただき、ありがとうございます」


ケイは、震える声で答えるのが精一杯だった。安全地帯ではなく、石柱を目指すという、迷宮の常識から外れた指示。それを信じて、この高台まで逃げてきてくれたことへの感謝。


騎士は、ケイの言葉を聞き、深く頷いた。


「あの時、君がいなければ……、我々は今頃……」


騎士はそこで言葉を区切った。そして、変わり果てた遺跡の惨状を一瞥し、改めてケイに視線を戻した。


「君がいなければ、我々は今頃全滅だった」


騎士の言葉は、重く、そして真実味を帯びていた。もし、ケイがあの時、津波の危険に気づき、撤退先を石柱に変更することを叫んでいなければ、彼らは安全地帯で津波に呑み込まれていたかもしれない。


「本当に……感謝する」


騎士は、もう一度ケイの肩を叩いた。


ケイは、騎士の言葉を聞きながら、この過酷な迷宮で、九死に一生を得たことを改めて実感した。


隊員たちが、徐々に落ち着きを取り戻し、互いの状況を確認し合っている。改めて見ると、丘の上まで登れた生存者は7名だった。撤退隊列にいた10名から、3名が失われたことになる。


生き残ったのは、地図士のマルス、そしてあの騎士、そして負傷者を担いでいた戦闘員二名と担がれていた一名だけだ。


騎士の弟、ラグを含む3名の負傷者と戦闘員は、津波に呑み込まれてしまったのだろう。


あるいは、地震やその後の混乱で犠牲になったのかもしれない。




生き残った負傷者の一人は、腕を押さえながら地面に座り込んでいる。顔は蒼白で、意識があるのかどうかも定かではない。彼もまた、想像を絶する恐怖と苦痛を味わったのだろう。


騎士が、ゆっくりと息を吐き出した。悲しみは消えないが、生き残った仲間を率いる者として、前に進む必要がある。


「さて……まずは自己紹介をさせてくれ」


騎士は、改めてケイに向き直った。その声には、騎士としての威厳が戻っている。


「俺はスレイだ。スレイ・エイルファイン」


騎士はそう名乗った。


「君の名前を聞かせてもらえるか」


スレイは、ケイに名前を尋ねた。


「はい。私はイナミエ・ケイです」


ケイは、地面に座り込んだまま、スレイに名乗った。


「ケイか。いい名前だ。ともに都市に帰ろう」


スレイはそう言って、小さく微笑んだ。



【コア】

コアとは、安全地帯の中心に位置する結晶体である。これは安全地帯の機能、すなわち魔物の抑制と資源の生成を司る根源であるとされている。


コアが作り出す安全地帯からコアを取り出しても、安全地帯自体は解除されないことがわかっている。また、取り出したコアは少しずつエネルギーを消耗しながら小さなコアエリアを作っていることが近年の研究で発見された。


従って、コアを作り出す地質構造が存在し、生み出されたコアによって安全地帯が形成されているという仕組みではないかと推測されている。

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